「ぼくは部屋に戻っている。じゃあなナマエ」
ディオさまが配慮して帰ってくださいました。わたしは頷いて、立ち上がります。
ジョナサンさまはまだわたしたちに気付いていません。駆け寄ると、ジョナサンさまはわたしに気付いて、大きく手を振ってくださいました。
「おかえりなさい、ジョナサンさま」
「ナマエ。ただいま、お出迎えなんてどうしたの?」
「あ、えっと……」
思わず言いよどんでしまいます。だって、なんだか、やじうまのようですし。下心が含まれていますから。でも言わなくては!!
「昨日言っていたことが、気になりまして」
「ああ! わざわざ待ってくれてたんだね、ありがとう。実は、彼女きてくれたんだ」
目の前が真っ暗になる、というのはこのことを言うのでしょう。という経験をたった今しました。目は見えているのですが、視界が翳るんです。言葉の通りだな、なんてぼんやり思っている、やけに冷静な自分もいて、なんだか混沌としていました。ジョナサンさまの眩しいくらいの笑顔、わたしの大好きなお顔。なのに今は、見たくありません。
「名前はエリナって言ってね」
耳をふさいで逃げ出せたらどれほど楽なんでしょう。けれど、自分から聞いたことですし、いずれ聞くことなのですから。きちんと聞くことが礼儀です。頑張れ、わたし。
「どうしようナマエ、ぼくすっごいうれしいんだ」
そのジョナサンさまの言葉は、わたしには世界の崩壊を伝える言葉のように聞こえました。
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「で、泣きに来たんだな」
「ううっ! だっで、もう、いでもだっでもいられなぐで……っ!」
無様、実に無様! そんな様子で、ナマエは目の前で大きな声をあげて泣いている。
夕飯の知らせにきたときに、尋常なまでに落ち込んだ様子を見たときにあらかた想像はついたが、やはりジョジョは女と会っていたらしい。
か細い声で、あとでお暇な時にお話を聞いてください。と、言われたので、今夜待っている、と言ったら。一瞬表情を崩しかけたのだが、必死に保って、ありがとうございます。と礼を言ってばたばた出ていった。
そして今、ナマエはぼくの部屋にきたのだが、入った瞬間ナマエは泣き崩れたのだった。特技か? と思うほどの速さにぼくは少し驚いた。
ナマエの泣き顔を見るのは二度目であるが、相も変わらず不細工な顔で泣くものだから、びっくりする。こんなにも幼児のように感情を前面に出して泣く女はかつて見たことがない。
ぼくは再びハンカチをナマエに渡した。あの日と同じハンカチだ。
「かくごは、しでだんでずげど……やっば、げんじつになるどづらぐで……!」
「なるほどな」
「すびばせん、こんな夜中に……」
躊躇いもなくものすごい勢いで鼻をかむナマエ。
「言ったろ? いつでも頼ってくれって。だが――――」
目の前で泣いている彼女を見ていると、不思議な感情が湧き上がってきた。なんと形容すればいいのだろうか、とにかく今まで感じたことのない強い感情であることは確かだ。その感情に突き動かされるように、ぼくはナマエのそばによる。
「つらいなら、やめてもいいんだ」
ささやき掛けるように言う。
「………やめられません。ジョナサンさまが、好きなのは、変えられません……」
こんな反応が返ってくることは予想できたのだが、なぜだか今のぼくは頭に血が上った。
「なぜだ、なぜぼくではだめなのだ!」
「え、あ……だって、わたしは、ジョナサンさまが好きなのです。ディオさまではなく、ジョナサンさまが」
そのうるさい口を、今すぐにふさいでやりたかった。
「ちょっと黙れ」
涙でぐちゃぐちゃのその顔に、ぼくは唇を押し付けた。初めてのその唇の感触は、この世にある何よりも柔らかくて、何よりも暖かかった。くちびるを離し、ぺろり、ナマエの唇をなめあげれば、あの日掬った涙と同じ、塩辛い味がした。
「……っ!!」
胸あたりをぐいっと押される。それほど強い力ではないが、抗うこともなくぼくはそのままその力に従い、突き放された。
「な、な、なにを……」
すっかり涙は止まり、代わりにナマエの顔は戸惑いに満ち溢れていた。非難も含まれていた。ぼくはこんな顔にさせたくてしたんじゃあない。なぜそんな顔をするのだ? ぼくじゃあだめなのかよ、ああ、苛々する。
「ひどいです……っ」
ナマエは感傷的な顔をして、ぱっと立ちあがって部屋を去って行った。ぱたん、と閉まった扉を暫くぼうっと見ていたが、やがてぼくは先ほどまで座っていた椅子に座り込み、頬杖をついた。先ほどまで目の前に座っていたナマエはもういない。代わりに静寂が嫌というほどぼくにまとわりついた。
ぼくはさまざまなことを考えるのをやめて、目を閉じた。
