10.魔法、解けなくて

 まだまだ日が暮れると寒さを感じる春の夜。もう桜は殆ど散ってしまったが、地面に落ちた桜の花びらを見るたびに、佐為を、そして彼に初めて会った時のことを思い出す。桜だけでない、日常の些細な出来事の中で、佐為のことが思い浮かぶ。例えばきれいな空を見たとき、佐為もこの空を見ているのだろうか、と。例えば今みたいに、自室の窓から月を眺めているとき。この月を佐為は見上げているだろうか、と。平安の世でも、こんな月が昇っていたのだろうか、と。なんて気がつけば佐為のことを考えてしまい、まるで佐為が心の中に住み着いたみたいだった。どうしてこんなに佐為のことを思い出すのか、名前にはよく分からなかった。
 金曜日、今は社会で歴史の授業だ。先生が黒板に書く文字をノートの書き写す。視線をノートと黒板、行ったり来たりしていると、視界の端で何かが動くのを捉えた。反射的に見やると、なんと佐為が扉の覗き用のガラスから、キョロキョロと教室の中を見て何かを探しているようだった。突然のことに名前はフリーズして佐為のことを見続けていると、佐為は名前に気づいて、嬉しそうに顔を綻ばせると、大きく手を振った。当然ながら佐為のことは名前にしか見えていないので、名前はどう反応するか少し考える。結果、手を振り返るわけにもいかず、さり気なく持っていたシャープペンシルを振って、佐為に反応を返した。
 それから佐為は、扉の奥で行ったり来たりを繰り返し、その後『えい!』と言う掛け声とともに、教室の引き戸を通り抜けてきた。そして名前のもとへと一目散にやってきた。もう名前の耳には、先生が読み上げる歴史の話は届いていなかった。

『名前、遊びに来てしまいました!』

 名前の机の前にちょこんと座り込み、机に手をかけて上目遣いに佐為が言う。喋りたくて仕方ないが、ここで喋ってはいけないことくらいは、名前も心得ている。ヒカルは心の中で会話できるらしいが、名前とはできない。どうしようかと考えあぐねた結果、名前はノートの端に文字を連ねることにした。佐為は立ち上がり名前の後ろに回りこみ、その文字を読み上げる。

『さ、い、う、れ、し、い。わぁ、名前! 私も嬉しいです! ヒカルが寝てしまって、ふと思いついたんです。名前の教室に遊びに行けないかと。それで名前の教室を探してやってきたんです』

 ヒカルは授業中に寝ているんだ、ずるい。なんて思ったが、自分だって佐為とお話をしているので、授業を聞いていないという点では同罪か、と納得した。
 消しゴムで先ほどの文字を消すと、再び文字を書いていく。近くで佐為が自分の手の動きを見ていると思ったら、とても緊張して、いつも以上にうまく文字が書けない。それでも、書いた文字を佐為は声に出して読み上げていく。

『き、て、く、れ、て……あ、り、が、と、う。―――名前、私の方こそありがとうございます!』

 ノートの文字を読み上げては、わざわざ名前の前に回り込んで喋る。ほんと、犬みたい。とても可愛くて、とても愛おしくて、胸がきゅっとなる。

『名前はとても綺麗な字を書きますね』

 佐為の声が鼓膜をくすぐり、顔に熱が集中する。佐為が褒めてくれたことがとてつもなく嬉しい。ふわふわと天に昇っていきそうな心地になる。名前はすかさずノートに文字を書き連ねる。佐為は再び名前の後ろに回った。

『そ、ん、な、こ、と、な、い、よ。―――ふふ、名前は謙虚なのですね。とても綺麗ですよ』

 名前の後ろで佐為が穏やかに言う。文字のことを褒めてくれているのに、まるで自分のことを綺麗だと言われているみたいで、心臓が爆発寸前だった。ちゃんとわかっているのに、綺麗という言葉に反応してしまう。
 ヒカルのように心のなかで会話ができなくてよかった、と心底思う。自分の心の中が覗かれていたら、今思っていることだってすべてバレてしまうということだ。恥ずかしくてたまらない。日常のなかでどれだけ佐為のことを考えているか、佐為が知ったらきっと驚くだろうし、引かれてしまうかもしれない。それに対して佐為は四六時中、囲碁のことを考えているに違いない。名前のことを考える余地なんて、少しだってないはずだ。
 佐為は再び名前の前にやってきてしゃがみ込む。

『ねえ名前、明日はうちにきてくれるんですよね? 楽しみにしていますね』

 名前は佐為の目を見て、小さく頷き微笑んだ。

『ではそろそろお暇します。名前のお勉強の邪魔になってはいけませんからね!』

 一気に寂しい気持ちで心が一杯になる。もう帰っちゃうの? なんて言葉が喉から出かけて、慌てて引っ込める。代わりにノートに書き込む。

『ま、た、あ、と、で、い、ご、ぶ、で、ね。―――はい! そうですね、またあとで。それでは名前、またね』

 佐為は名前の文字を読み上げると、名前の教室から立ち去っていく。やっぱり扉を通り抜けるときは気合がいるらしく、一度扉の前で立ち止まり、「えい!」と気合の声とともに通り抜けた。最後に佐為は覗き窓越しに手を降って、ヒカルの教室へと戻っていった。
 佐為が帰ったあとも、名前は先程の余韻から抜け出せずにいた。先生の話を聞くのも、板書するのも、もう頭からすっかり抜けてしまった。

(ヒカルがいない状態で二人で喋るのって初めてだったな)

 先ほどまでこの机の前にいたのが、夢のようだ。
 書き連ねた文字を消しゴムで消していく。佐為が褒めてくれたと思ったら、急に自分の文字が誇らしく思えてきた。思わずにんまりとしてしまう。

(また、きてくれるかな)

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、この魔法は解けることがなかった。