03.平行線の行方

 彼女の姿を見たとき、心臓の辺りが熱くなって、忘れていた事が一瞬で蘇ってきた。目まぐるしく、まるで走馬灯のように浮かんでは通り過ぎていくたくさんのこと。
 時の流れと共に、思い出の中だけの人となり、やがてその思い出も色あせていき、輪郭もわからないほど滲み、ぼやけて、ゆっくりと佐為の中に溶けて消えていった。名前を見た瞬間、佐為の中に沈んでいったその女性の何もかもを取り戻した。手を握った感触だとか、耳をくすぐる甘い和歌。何度も重ねた唇の感触。もう自分はとうに死んだのに、まるで生きているように、ドキドキする。

『名字、名前』

 その昔、恋人だった彼女の姿が、声が、笑顔が、何もかもが、名前と似通っていて、戸惑いが隠せない。幸いヒカルはそういうことには疎いので、何も気づかれなかったが、あのときの自分は尋常じゃないくらい焦っていた。

『名前』

 夜の帳が下りた外の景色を窓越しに眺めて、ため息をついた。

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「祐輝、わたしたち、下校まで一緒になったね」

 朝の光が通学路を照らす。家が近所の三谷と名前は、登校を共にしていた。今までは三谷が囲碁部で帰りが遅く、その前は放課後になると碁会所に通っていたため、一緒の登校は朝だけだけだったが、名前が囲碁部に入部した事により下校も一緒になった。そのことは、三谷にとっても名前にとっても好都合なことだった。

「……めんどくさい事になったぜ」
「またあ、嬉しいくせにさ?」

 イタズラっぽく笑い冗談のように名前は言うが、三谷にとってあながちそれは嘘ではなかった。三谷は幼馴染である名前に淡い想いを寄せていた。だが、所謂“好きな子の前だと素直になれないタイプ”の三谷は、そんなこと口を裂けても言えるわけがなかった。その代わり口走るのは思っている事と正反対のことばかり。素晴らしい口だ。

「……バカ名前」
「なんでよー」

 胸の中で密かに燃え続ける恋の炎は、気づかれることなく小さく燃え続ける。共に歩む道がずっと先まで続いていて、やがて自然と混じり合えばいいのに、なんてガラにもないことを考えて、思わず顔を顰めた。

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 その日の授業もなんとなく終わって、賑やかな放課後になる。友達と別れの挨拶を交わしながら、名前は理科室へ向かう。 はやく部活がやりたくて、うきうきする。途中、三谷の存在を思い出したが、今更引き返すのも面倒なので、構わずそのまま理科室へ向かう。

(ヒカルもういるかな?)

 がら、と理科室の引き戸を開けると、既にヒカルが昨日名前を指南していた場所に座っていて、名前に気づくとひらひらと手を振って迎え入れた。佐為もその隣で可愛らしい笑顔を浮かべて手を振っている。

「よっ名字。待ってたぜ」
「ヒカル、佐為、お待たせ」

 鞄を適当な場所に置いて、ヒカルの目の前に座る。既に碁盤と碁石が用意されていた。佐為はヒカルの隣に立っていて、今日見てもやはり美しいものは美しかった。これが幽霊だなんて、名前には到底信じられなくて、実は触れるんじゃないか、なんて思う。確かめるために佐為に触れようと思ったが、触れようとして触れられなかったら嫌なので、あくまで思っただけ。

「昨日ので囲碁の基本的なルールはわかったよな?」
「うん。要は陣地とりだよね?」
「そっ。じゃあ今日は実際にやってみよーぜ」
「ええっ。でも、わたし無理だよ。打てないよ」

 名前が首を横に振ったところで、理科室の扉が開いた。やってきたのはあかりと三谷だった。

「おお、早いね~」
「名前、先に行くなら、いくって言えよ」
「ごめん。すっかり忘れてた」
「……お前なあ」

 少し怒ったような三谷に、悪びれもなく答えた名前には、三谷の怒りもどこかへ消えてしまう。なんだかんだで名前の事を許してしまう甘さは、昔から消えなかった。

「ねえねえ、三谷君と名前って、付き合ってるの?」

 あかりがニヤニヤと笑いながらたずねると、三谷が過剰に驚きを露にした。が、名前のほうはそうでもなく、手をひらひらと横に振る。

「ないない。それはないよ」

 名前の緩やかな否定に、三谷はこれまた過剰に落胆の色を示した。

「わたしたち、幼馴染なの。ね?」
「……おう」

 今はただ、名前の笑顔が痛かった。心臓が抉られたように痛かったが、知らん振りを決め込む。