祈りも虚しく、ドアノブが動いて無情にも扉は開いていく。その様を見ながら、どこか他人事のように思い出す。
―――鍵、かけてなかったんだった。
息を殺して静まり返っていれば、ハンジは家主はいないと判断し諦めて帰ると思っていたが、甘かった。入ってしまっては弁解のしようがない。諦めて、その時を待つ。どちらかといえば、困るのはリヴァイ兵長だし、なんていう考えもあった。
程なくして扉を開けて現れたハンジは、ナマエとリヴァイの姿を認めて、さして驚く様子もなくいつも通りの調子で口を開いた。
「なんだ、やっぱりいるじゃない」
かえってナマエが混乱する。この部屋にリヴァイがいて、しかもワンピースを着ているというのになぜこんなにも落ち着いていられるのだろうか。
リヴァイは舌打ちをして、深いため息をついた。ナマエは困惑してハンジとリヴァイとを見比べるが、そのうちにハンジは手に持っていた袋をリヴァイに投げた。
「着替え。入ってるから着替えなよ」
「気が利くじゃねぇかクソメガネ」
袋の中からリヴァイは着替えを取り出して、下着を履き、ワンピースを脱ぎ去り、私服に着替えていく。ナマエはそれに背を向けて着替えが終わるのを待つ間、同じく手持ち無沙汰なハンジと会話を交わす。
「どうしているってわかったんですか」
「勘かな。ほら、猫の話、ナマエから聞いてたでしょ。だからきっと今日もいると思ってね。それに、状況が状況だけに居留守する可能性は高いと思っていたからね」
「はぁ……あ、猫、そうなんです。猫がいきなり兵長になったんです! 何かご存知ですか」
しかもなぜか頸を削がれそうになったんです! という苦情は心のうちに留めて、ハンジに問えば、「勿論だよ」と頷いた。どうやら一連の出来事にはハンジが一枚噛んでいるらしい。
そうこうしている間にリヴァイの着替えが終わり、ワンピース姿から普段着になった。ワンピースを受け取ろうとしたところ、洗って返すと言われた。別に気にしなくてもいいのに、なんて思い、大丈夫ですよ。と言ったが、ダメだ、洗う。と断られる。食い下がるほどではなかったのでそのまま了承した。
リヴァイは先ほどと同じようにベッドに腰掛けて、その隣にハンジも腰掛けた。いつも寝ているベッドに上官二人が並んで座っている様はとても奇妙で、非現実感が増す。
ナマエが椅子に腰かけると、ハンジが口を開いた。
「さっきのナマエの問いの答えだけど、私はね、猫化する薬を開発して、それをリヴァイに渡したんだ。だってリヴァイ、いつまで経ってもウジウジしてるから見てられなくってさ」
「オイ、黙れ」
ナマエの問いに答えてくれているのだが、正直に言えばハンジの話では全く理解ができない。凄んだリヴァイには意を介さず、ハンジはそのままの調子で説明を続けた。
「そもそもどうして猫化する薬を開発したかと言うとね」
ハンジはある日、ふと思った。人類を脅かす巨人が、もしもみんな小さな猫になったら、人類を恐怖から解放できるのではないか、と。
猫ならば放っておいてもいいだろうし、なんなら可愛がることもできる。つまり、巨人との共生だ。
巨人の姿が猫になったら、巨人と人間は捕食者と獲物という構図から、ガラリと変わる。人間と愛玩動物だ。
自由を取り戻す方法は、なにも相手を殲滅させることだけではない。
もしも巨人と対話することが可能ならば、共生のための話し合いができたかもしれない。だが、圧倒的力を持ち、知性を持たない巨人とコミュニケーションをとる方法は、現状ない。出会ったら最後、文字通り生きるか死ぬかの世界になる。
ハンジは巨人の持つ圧倒的な力を消し去ることを、猫化することによって実現しようと考えたのだ。
そこで猫化薬のプロトタイプをリヴァイに渡したのだった。
「……えっと、とてもよく分かったのですが、なぜそれをリヴァイ兵長に渡したのでしょうか?」
巨人を無力化するために猫にすればいいと考えて薬を開発したというのはわかるが、最後にさらりと説明された薬をリヴァイに渡したというのが繋がらない。状況的に考えて、リヴァイがその薬を飲んだということになる。その意図も不明だ。先ほどハンジが言っていた、ウジウジして見ていられなかったということがそこに繋がってくるのだろうか。
「聞かなくていい」
なぜかリヴァイが牽制をするが、ハンジは意味深な笑みを浮かべて頭を振る。
「いいや、ナマエには知る権利があるはずだ。知りたいよね?」
「それはもちろん!」
ナマエは食い気味に頷けば、リヴァイが舌打ちをした。
「説明は後だ。テメェはでてけ、クソメガネ」
「はいはい。ちゃんと説明するんだよ?」
ハンジはすんなりと引き下がり、ナマエの部屋から出ていった。
シン、と静寂の音が聞こえてきそうなほど静まり返った部屋で、ナマエは口を開くタイミングも、なんと言えばいいのかもわからずにいた。ひとまずは、リヴァイの説明を待つという形でいいのだろうか。
そんな確認を含めてリヴァイを見れば、リヴァイも丁度こちらを見たところだった。彼の瞳からは諦念すら感じて、いったい今から何の話が始まるのか見当もつかない。
「……だ」
「え?」
リヴァイの口の中から、ほとんど音になることなく漏れ出てきた声では何もわからなかった。堪らず聞き返せば、鋭い眼光で睨まれて、「ひっ」と情けない悲鳴が小さく上がる。
「だから、お前が好きだと言っている!」
「ごめんなさッッ……え?」
反射的に腰を浮かせて謝りかけたが、耳を通り抜けて行きそうになった言葉を慌てて引き摺り戻して、脳内で反芻する。
―――お前が、好きだと、言っている。
確か、そう言っていたような気がする。しかし、そんなことあるだろうか。人類最強と称されているリヴァイ兵長が、一兵団員のことを好き? そんな雰囲気は露ほども感じたことがない。そんなわけがない。あるわけない。そもそも仕事以外で喋ったことが殆どない。
ひとまず腰を落ち着けて、リヴァイの顔をよく見る。先程までの眼光の鋭さはなりをひそめて、放心したようにこちらを見ている。
「……俺では駄目ってことか」
「へ……?」
「ごめんなさいっていうのはそういうことだろ」
「……あ、いや、そうではなく」
反射的に言った「ごめんなさい」をお断りの言葉と捉えたらしい。ということは、先程はやはり告白をされたということだろうか。嬉しいよりも戸惑いの方が濃くて、どうしていいのか分からなかった。だってナマエがリヴァイと会話を交わしたのなんて、数えるほどだ。いつだって、ナマエなんて興味がないみたいな顔をしていたのに。
「ただ、びっくりして。だってわたしのことなんて、どうとも思ってないと思ってたので……率直に、なんでだろうって、不思議で」
「お前、最低限の奴らにしか心を開いてねぇだろ」
急に核心をついてきて、ドキリと心臓が跳ねた。不意打ちすぎて構えを取る隙もなかったので、直に脳をぶん殴られたような衝撃が奔る。そうだ、確かにナマエは極一部の人にしか心を開いていない。だからと言って他の人を蔑ろにしているわけではなく、それなりのコミュニケーションはとってきたつもりだ。まさかリヴァイに気づかれていたとは思わなかったが、リヴァイの顔を見ていたら、その生い立ちを思い出した。生まれも育ちも地下街で、周りは敵だらけ。奪うか、奪われるか。幼い頃はきっと人の顔色を伺うような場面もたくさんあったののだろう。だからこそ、分かったのかもしれない。経験則に基づく慧眼は恐ろしいほど本質を見抜く。
「そんなお前が俺に本当の笑顔を見せたとき、もっと見てぇと思った」
リヴァイの言葉にふと脳裏に蘇る記憶。馬車の中。タキシード姿のリヴァイがしかめ面をほどいて笑みを浮かべている姿。それに手繰り寄せられるように、あのときの出来事や、感情が鮮やかに蘇る。
あれはそう、調査兵団への出資者が開催した夜会にリヴァイと共に参加した時だ。
リヴァイ班とハンジ班から一人ずつ出す、と言われて半ば押し付けられるような形でハンジ班からはナマエが出た。リヴァイ班からはエルドあたりが来ると思っていた。彼は身長も高くて甘やかな顔をしているものだから、夜会にはぴったりだと内心思っていたのだ。ところが予想に反して、やってきたのはリヴァイだった。こんな事は勿論言えないが、身長も低く常に仏頂面。おまけに社交性があるとも言えない。どう考えても夜会向きではない。
後から知ったが、リヴァイ班から一人といったものの、人類最強に実際に会ってみたいと言う先方の強い要望から、リヴァイは確定していたらしい。
調査兵という存在は物珍しいらしく、ナマエは貴族に囲まれながら興味があるのかないのか分からないような質問に答えていた。結びには、皆様のおかげで調査ができます。といった趣旨のことを、内心では辟易しながらもニコニコ伝えた。
その夜会も終盤に差し掛かってきた頃だった。立場に物を言わせればなんでも言うことを聞くと思っている貴族が、ナマエを夜伽の相手に、と迫ってきたのだ。
「部屋ならおさえてある。今夜だけ、いいだろう」
「申し訳ございません、それは致しかねます……」
ナマエは当然拒んだが、
「出資がどうなってもいいのか」
と下卑た笑いまじりに貴族は言った。そんなことを言われてしまっては、ナマエは口を噤むしかない。全体の利益のためには個を殺すしかないときがあるというのをナマエはわかっていた。そしてそれは、今がそうなのかもしれない、と身体中が諦念に蝕まれていく。
手を引かれ、有無を言わさず歩き出した。歩きながら、父や母の顔が浮かんで、じんわりと涙が滲んだ。その時だった。
「オイ、ブタ野郎。どこへ行きやがる」
リヴァイだった。その黒いタキシードは彼の反骨心を表しているかのようで、一目見ただけで彼の静かな怒りが伝わってくるような鋭い表情でこちらを睨んでいる。
「その汚ねぇ手を離せ。俺たちはそんなことをしにきたわけじゃねぇ。……帰るぞ」
リヴァイは呆然としている貴族の手を解くと、ナマエの肩を抱いて歩き出した。彼は何も言わなかったし、ナマエもそれに救われた。下手な言葉を重ねられるより、何も言わずにそばに居てくれる方がいい時もある。今がその時だった。何か言われたら、あるいは何か喋ったら、涙が溢れてしまいそうだった。
肩から伝わるリヴァイの手の温度が、質感が、服越しにもわかる筋肉の硬さが、ナマエの胸を締め付け熱くさせた。
帰りの馬車の中でナマエの斜め前に座ったリヴァイは、窓の外の景色に目をやりながらぽつりと言った。
「気づくのが遅くなって悪かった」
「いえ……助かりました、本当にありがとうございました。でも、もしこれで出資が打ち切られたら―――」
「よせ」
リヴァイは短く、そして鋭く制した。
「そんなことはお前が気にすることじゃない。どうせ、エルヴィンがどうにかする」
「ですが」
「後でエルヴィンが女装して行けば問題ない。務めを果たしにきたと言ってな」
胸の内はずっと分厚い鈍色の雲が覆っていたのに、リヴァイの一言でナマエの頭に女装したエルヴィンの姿が舞い降りた瞬間、一瞬にして胸の内の雲が消えていく。
「ふふ……あははっ!!」
腹の底から笑った。どうしてこんなに面白いのかわからないけれど、変なツボに入ったらしく、暫く馬車の中でナマエは腹を抱えて笑った。どうしようもないくらいの面白さ、そして安堵感。視界は滲んで、温かな雫がこぼれ落ちていく。
ひとしきり笑った後に、はー、と息を吐いて涙を拭えば、白くて四角いものが渡された。滲んだ視界ではよくわからなかったけど、目を擦ってよく見てみるとそれは四つ折りにされた真っ白なハンカチだった。
「使え」
「え、でも」
目の周りに施した化粧が涙で落ちているだろうから、このハンカチで拭いたら間違いなく汚してしまう。
「俺は使ってないから心配ない、いいから使え。やるから返さなくていい」
リヴァイの使用済みだから躊躇っているわけではないのだけども。いつものナマエなら断る。でも今は、リヴァイの優しさがとても嬉しくて、差し出されるすべてを味わい尽くしてしまいたかった。
「ありがとうございます」
お腹の底から笑った後だからだろうか、心の底から笑顔になった。リヴァイのことは、すごい人。それ以上でも以下でもなかったけれど、すごいだけじゃなくて、春の陽射しみたいに優しくて、信頼できる人だと思った。
ハンカチを受け取ろうとしたら、リヴァイが微笑んでいた。キツく結んでいた結び目が不意に解けたみたいに、ふっと。
―――リヴァイ兵長って、こんな顔で笑うんだ。
意識が現実に戻る。少し思考が逸れてしまったけれど、リヴァイはナマエのことを好きだと言ってくれている。自分の気持ちはどうだろうか、考えを巡らせたところでリヴァイが先に口を開いた。
「俺はナマエのことを特別に思っている。だからお前のことがもっと知りてぇし、俺のことを知って、答えを考えて欲しい」
この場での決断をしなくて良いのなら、ありがたい。リヴァイは「ただ……」と実に言いづらそうに言葉を重ねた。
「もっと知りたくて、近づきたくて、猫になったのは悪いと思ってる。あと………キス、しちまったのも」
キス、という極々小さい声で言われた言葉に体温がブワッと上がるのを感じた。鼻先同士が触れ合ったあれはやっぱりキスだったんだ。黒猫の湿った鼻先を思い出して、体温が上がる。
ナマエは俯いて、同じくらい小さい声で「いえ」と呟くと、
「今度の一斉調整日、一緒にお茶しませんか。……まずは、友達として」
と、言って顔を上げる。だってまだよく分からないから、リヴァイという男がどんなものが好きとか、嫌いとか。そしてナマエは今、知りたいと思っているから。
「……いい紅茶の店に連れて行こう」
茶葉にお湯を注ぐと芳醇な香りが立つように、ナマエの心の中に新しい気持ちがふわりと香った気がした。紅茶を飲みながら何を話そうか、そもそも何を着ていこうかな、なんて心臓が楽しげに弾んでいる。その時には、あのときもらった真っ白なハンカチを持っていこう。彼は気づくだろうか。
◆◆◆
オマケ
最初に疑問に思ったのはいつだっただろうか。
「お前の班のナマエ・ミョウジだが」
から始まるたくさんの質問を、最初のうちは何も考えずに答えていた。この間の作戦ではどこにいたのか、きょうだいはいるのか、同期は誰だ、とか。
何回目かの質問で、恋人はいるのか。と尋ねられたときかもしれない。流石のハンジも、気がつけば目を瞬いていた。
「……なんで?」
余計なものをすべて濾した純然たる疑問の声が出た。リヴァイの片眉がぴくりと動く。構わずハンジは続けた。
「いくら何でもナマエのことばかり聞きすぎじゃない? しかも恋人いるのかって、まさかリヴァイ、ナマエのこと好きなの?」
リヴァイは何か言おうと口を開いたが、結局諦めたように口を噤む。そして、舌打ちをした。いつもの苛立ちを露わにしたものではない、降参を表明したような舌打ちだった。
「悪いか」
あの時はただただ感心したものだ。リヴァイって、誰かのことを好きになるんだ。それなりに長い付き合いだけど、少なくともハンジは聞いたことはない。勿論ハンジが疎いだけかもしれないが、リヴァイを見ていてもそういったことに興味があるとは到底思えなかった。
それからそういう目でリヴァイを見てみると、リヴァイは見えないアンカーをナマエに向かって射出しているみたいに、いつだってじっと目で追いかけていた。
だがリヴァイとナマエが業務以外で喋る姿は殆ど見たことがない。いつだって見ているだけで、聞きたいことはすべてハンジに聞くのだ。
ハンジは頭に浮かんだ疑問を率直にぶつけていく。
「どうして好きになったの? どんなところが好きなの?」
「……それを最初に伝えるのは、ナマエ本人へと決めている」
変に律儀なのが面白くて、笑いがこぼれ落ちた。笑われた当のリヴァイは不快そうに顔を顰めるが、それを制するように「ていうかさ」と言葉を続ける。
「聞きたいことがあるなら本人に直接聞けばいいじゃない」
「それができれば苦労しねぇ」
苦虫を噛み潰したみたいにいうものだから、ハンジはもう、大口を開けて笑う。人類最強なんて言われているくせして、好きな子に話しかけることすらできないなんて。目の前の男がとてつもなくいじらしく思えて、ハンジはつい手を差し伸べていた。
「ねえ、猫になってみない?」
「……あ?」
「猫になってナマエに近づいたらきっといろんな顔を見せてくれるんじゃないかなぁ」
あと薬効を確認したいし、という言葉は勿論ハンジの中に留める。リヴァイの喉仏が何かを嚥下するように動いた。
