そのときギンコはただの傍観者であり、壁であり、空気であった。
「化野せんせ……」
か細い声で名前を呼んだ名前の頬は赤らんでいて、その瞳は潤み、視線を彷徨わせている。彼女を後ろから抱きしめているのは化野で、彼女の顔の横に顔を寄せると、左手を名前の頬に添えてゆっくりと化野の方へと顔を向ける。
「大丈夫。大丈夫だ」
化野が安心させるように囁いた。何が大丈夫なんだ。というギンコの疑問はどこへも向かうことなく、ただただ二人のことを眺めていることしかできなかった。
やがて名前の瞳が閉ざされると、瞼は小刻みに震えて、まつ毛も不安そうに揺れている。名前は不安をいなすように、腰のあたりにあった化野の右手を握ると、化野は安心させるように指を絡めた。鬱陶しいくらい、彼らは至る所で密着し、交わっている。
化野はゆっくりと顔を近づける。元々至近距離だった二人の顔はあっという間に距離をなくして、名前と化野のくちびるが音もなく重なった。
そこで、景色が変わった。はっと息を呑む音がして、それが自分のだと気づくのに僅かに時間があいた。
「夢……」
なんとも目覚めが悪い夢を見たらしい。はあ、と重い息を吐いたのは安堵からか不快さからか。多分、どちらもなのだろう。先ほど見た夢が現実でなくてよかったし、かといって見せられた光景は気持ちがいいものではなかった。
「なんだってんだ」
先ほど見た夢にたいした意味などないとわかっている。けれど、胸に僅かな引っ掛かりができたのもまた事実だ。
名前のもとへは、少し前に帰ったばかりだ。そこまで期間が空いていないから帰る理由もない。
名前のことは信じている。ギンコだけに向けられる目線があって、ギンコだけに放たれる言葉があるのを、ギンコ自身が身を以て実感している。化野とは親しくしているが、ギンコが心配しているような感情はお互い抱いていないこともわかっている。こんな夢は忘れてしまって、旅路を続けるのが一番いい。
だが、一目会いたい気持ちもあって。あんな夢はただの夢だと自分の中で納得したい気もするのだ。
つまるところ、ただ、会いたい。顔を見て、言葉を交わして、ギンコにだけ向けられるものを堪能したい。それだけの理由だ。馬鹿みたいで、口にするのはおろか、考えるだけでも恥ずかしい。
「あー」
ひとまず蟲煙草を燻らせて、気持ちを落ち着かせようと試みる。煙が消えてゆくのを見ながら、夢で見たことも一緒に消えてくれないかと思ったが、そう思えば思うほど、夢の内容は克明にギンコの中に刻まれていく始末だ。
身体を動かした拍子に、ギンコの着てる服からふわりと名前の匂いがした。正確に言えば、名前の家の匂い、とでもいうのだろうか。
ギンコは大きくため息をつくと、立ち上がった。
+++
「ただいま」
と、玄関を開けて声をかけたが、家はしんと静まり返っていて、ギンコの声はこの家の静寂に呑み込まれてしまったようだった。昼間だというのに、どこか薄暗く感じるのは気のせいか。名前はどこか出かけているのだろうか、まさか化野のところに―――と考えたが、その可能性を否定するように即座に頭を振り、家の中をぐるりと見て回ることにした。
名前はすぐに見つかった。縁側の近くに布団を敷いて、横になっていた。まさか調子でも悪いのか? と慌てて駆け寄るが、その顔は随分と穏やかで、規則正しい寝息と共に布団が上下していた。なんだ、昼寝か。と安堵するのも束の間、無防備な寝姿に危機感すら抱く。
隣で胡座をかいて、頬に人差し指を添える。むに、と頬にギンコの指が柔くつきささる。
「おい、きたのが俺だからいいものの」
そこから先は言葉にしなかった。
―――化野がこんな姿を見たら、本当にくちづけされちまうぞ。
なんて考えてしまうのは、惚れた欲目、なのだろうか。なんて莫迦莫迦しい。
ギンコは眼下で眠る名前をじっと見つめて、やがてそのくちびるに、そっと自身のくちびるを重ねた。
その柔らかさに、自然と先日の情事が思い起こされた。彼女の身体は、ギンコと同じ人間とは思えないほど柔らかい。かと思いきや、少し力を込めればポキっと折れてしまいそうな繊細さもある。男と女という性差だけでなく、組成するものから何から違うような気さえするのだ。
たった少し、くちびるを重ねるだけでこんなにも克明に思い出すのだから、実際に触れることの大切さ、みたいなものをしみじみと感じる。
顔を離して、今度はまじまじと寝顔を眺める。名前が起きる様子はない。頬に手を滑らせて、柔らかなくちびるの輪郭をなぞる。そしてもう一度くちびるを重ねる。今度はギンコの形を刻みつけるくらい、長く。
静寂の隙間、ちゅ、と音を立ててくちびるを離すと、ん。と小さな声が聞こえてきた。名前の瞼がふるふると震えたと思ったら、薄く開いて、何度か瞬く。その瞳が、名前を見下ろすギンコをぼんやりと捉えた。
「ぎんこ……?」
小さく、呟くような掠れた声がギンコの名前を紡ぐ。まだ名前の半分以上は眠りの海の中にいて、それが少しずつ覚醒していくのが分かる。やがて寝ぼけ眼が見開かれて、その瞳孔に光が差した。
「え、ギンコ? 本物?」
「さて、どうだろうな」
「そんなこと言うの、本物しかいない」
「つーか偽物ってなんだよ」
ふっと思わず笑みを浮かべると、名前は上体を起こして「いやー、びっくりしたぁ」と改めて驚いているようだった。つい先日この家を出立したばかりなのに、数日後にはまたギンコがいるのだから驚くのも当然だろう。ペタペタとギンコの顔を無遠慮に触って、「おお」と嘆息した。
「夢かとも思ったけど、夢じゃない。帰ってくるの早いね、どうかしたの?」
「ん。あー……」
ギンコは言い淀み、視線を彷徨わせる。結局適当な言い訳が見つからなかったのだ。
「まあなんでもいいや。こんなに早くまた会えて嬉しい」
そう言って、名前は両頬に添えていた手でぐっとギンコの顔を引き寄せて、くちづけをした。そして次の瞬間にはギンコの背中に両腕を回して、ぐっと抱きしめられる。
「おかえり」
内緒話をするような囁き声が、ギンコの耳朶から背中にかけて溶け込んでいく。
そのときギンコは思い出した。この家に帰るのに、理由なんていらないのだと。ここはギンコの居場所なのだから。わかっていたはずだが、改めて感じる。
「ただいま」
それに、理由ならある。ただ、名前に会いたいと思ったのだ。勿論そんなことは言わないけれど。その代わりにギンコは名前の背中に手を回して、ギンコとは違う身体を抱きしめ返す。寝起きの身体は温かくて、幼子のようだった。その体温に、柔らかさに、なぜだかとてもほっとした。誰かと共に在って、その温もりに安堵する人生。そんなものに縁なんてないと思っていたのに。
「安心する。ギンコの匂い」
「匂い?」
「うん。蟲煙草の匂いと、外の匂いと、ギンコそのものの匂いっていうのかな、それが混じったような匂い。こうやってギンコと触れ合ってると、わたしの服とか手に匂いがついて、それがふとした瞬間に香るの。そうするとね、確かに一緒にいたんだって思って幸せな気持ちになる」
「へえ」
自分にも覚えがあるからこそ、相槌を打つ以外できなかった。この家で洗った服や手拭いを使うたびに、清廉な香りが立ち上り、名前のことを思い出す。香りというものは何かに入れていつでも自由自在に取り出せるわけでもなく、ずっと同じというわけでもない。刹那的で、形ないものだからこそ脳に灼きつくのかもしれない。
二人はどちらともなく離れると、名前は「お茶でも飲もうか」と言って立ち上がった。ギンコは布団の片付けを申し出て、畳んでいるとあることに気付いた。
「これ俺の布団か」
よく見たらギンコの布団と枕を使っているようだった。
「あ、そうだった。バレたか」
名前はバツが悪そうに呟いて、台所に向かっていた足をぴたりと止めた。
「なんで自分の使わないんだよ」
「……引かない?」
「今更お前さんに対して引いたりせんよ」
どういう意味、と名前はじとりと睨み、渋々と言った様子で説明した。
「……さっき、匂いの話をしたでしょ。ギンコの寝具使ってると、ギンコの匂いがするから一緒に寝てるみたいな気持ちになるからこれで寝てたの」
その瞬間の気持ちは、一言では言い表せなかった。
「ねえやっぱり引いてる! 言わなきゃよかった!」
「待て待て」
名前は顔を赤らめて大慌てで台所へ行こうとしたので、そこをギンコが追いかけて、勢いよく前後している手を取った。
何を伝えようか、と考える時間もなく、頭に浮かんだ言葉をひとまず名前の背中にぶつける。
「別に引いちゃいない。なんというか、嬉しいと思った。……ただ、自分の気持ちを認識して、それを言葉にすると言うことに慣れていないんだ、すまん」
これまで自分というものに対して重きを置いてこなかったからこそ、自分の中に沸き立った感情が、どんな言葉に当てはまって、なんと言えば自分の気持ちが相手に伝わるかなんて、そもそも相手に自分の気持ちを伝える必要もなかったから考えたこともなかった。―――名前と会うまでは。
名前が立ち止まったので、掴んでいた手を離して、後ろから抱きしめる。ギンコよりも小さな体はすっぽりと覆われて、ふわりと名前の匂いが立ち込める。
「……嬉しいのと、あとは欲情した」
好いた女がギンコが使った布団の残り香でギンコを感じていたなんて聞かされて、欲情しないわけがない。
“欲情”なんていう厄介なものをギンコに教えてくれた名前は、ギンコの腕の中で一瞬ぴくりと身体を強張らせて、「そう」と蚊の鳴くような声で呟いた。
名前の頬から顎にかけて手を添えれば平時より熱い。そのままギンコの方を向かせれば、ギンコは頭を傾けてくちづけをした。甘い痺れが心地よくて、頭の中が名前でいっぱいになる。身も心も誰かの存在でいっぱいになるなんて、自分じゃないみたいだ。
これまで、それなりの年月を生きてきたけれど、その全てがあっという間に過去のものとなったみたいで、彼女と一緒にいると、“蟲師のギンコ”でしかなかったはずの自分が、いつの間にやら“ただのギンコ”になっているから不思議だ。
ふと、今していることが夢で見たことと酷似していることに気づいて、脳裏に化野と名前の接吻を交わす場面が浮かんできた。こんなものは、さっさと忘れるに限る。
「ちょいと上書きさせてくれ」
「上書き?」と不思議そうな声が聞こえてきたので、「こっちの話だ」とギンコは再びくちづけをして、上書きに上書きを重ねた。
