飯田君は幼馴染の前だとオスみが増すらしい

 麗日お茶子には気になっていることがあった。お茶子だけではなく、おそらくA組の全員が頭の片隅くらいでうっすら気になっていることだと思う。
 それは即ち、委員長こと飯田天哉と、B組の名前のことだ。二人は幼馴染らしく、これまで小中高とすべて一緒の学校で、家も近所らしい。それ自体はよくある話だ。
 飯田は誰に対してもいつだって慇懃な態度だ。誰かを呼び捨てにすることなく、一律「君」を付けて呼んでいる。梅雨のことも、「梅雨ちゃん」と呼ばれている中、「梅雨ちゃん君」なんて言っているくらいだ。お茶子のことも「麗日君」といつも呼んでくれる。
 けれどこの名前に対しては、飯田は「名前」と呼び捨てにして、どこか粗野な話ぶりなのだ。それがどうにも聞き慣れなくて、A組のおそらくほとんどの生徒が、名前がA組に来て飯田と話を始めると、それとなく耳を傾けてしまう。
 飯田にとって名前とはどんな存在なのか。下世話な想像をしてしまうのは高校生の男女にとっては仕方のないことだろう。そういう話題はスイーツみたいに大好物なのだ。

 ―――そういえば最近、名前ちゃん来てないな。

 授業と授業の間の休み時間、トイレに行っていたお茶子は、生徒たちの賑やかな声が満ちている廊下を歩きながらふと思った。
 本人と喋ったことなんて殆どないけれど、飯田が「名前」と呼んでいるので、なんなくお茶子も「名前ちゃん」と心の中で呼んでいた。もちろん、本人に対して呼んだことはない。お茶子は飯田の少し後ろで出久と一緒に二人の会話を見守っているだけだ。
 A組の教室に入ろうとしたその時、目の前でスカートがひらりと揺れたので視線を上げれば、たった今想像していた名前が早足にやってきたところだった。

「あ、お茶子ちゃん」

 目が合って、名前がにっこりと微笑んだ。お茶子ちゃん、と呼ばれた。と、お茶子が短い感慨に耽る。そしてお茶子も、「おお、名前ちゃん!」とずっと前からそう呼んでいたかのように呼んでみた。急に距離が縮まったような気がして、頭の中が日向ぼっこをしているみたいにぽかぽかと温かくなる。

「ねえねえ、天哉いるかな?」
「飯田くん? ちょっと待ってね」

 お茶子がA組に入り、それに続いて名前も入る。教室を見回しても飯田の姿は見えなくて、そういえばさっきの授業で使った教材を片付けるのに、先生の手伝いをしていることを思い出した。そのことを伝えれば、名前は「そっかー」と肩を落として、でも次の瞬間には、

「そしたら、もう少ししたら戻ってくるかな? ちょっと待ってみる、ありがとうね!」

 と、言って教室の外に出ようとしたので、

「何か飯田くんに用事?」

 咄嗟にお茶子が問えば、名前は苦笑いを浮かべて、

「英語の教科書忘れちゃってさ」

 と言った。今日の午前中に英語の授業があったから、英語の教科書ならお茶子も持っている。もしよかったら貸すよ! と言おうとしたところで、上鳴が扉から入ってきて、二人に気づくと立ち止まった。

「よぉー、名前ちゃん! どしたん?」
「あ、上鳴くん。実は、英語の教科書を天哉に借りにきたんだよね」
「英語? それなら俺持ってるし、貸すよ! ちょっと待ってな」
「いいの? ありがとう上鳴くん!」
「任せろよ! 中身は驚きの白さだけどな!」

 と言って上鳴が自分の机に向かって走っていく。先を越されてしまったな、なんてお茶子が考えていると、今度は先生の手伝いを終えた飯田が戻ってきた。飯田の瞳は磁石に吸い寄せられるように真っ直ぐ名前を捉え、名前も飯田に気づいて、笑顔を浮かべて手を振った。

「あ、天哉、お疲れ様」
「名前、どうした。まさかまた教科書借りに来たんじゃないだろうな」
「せいかーい。でも大丈夫、今回は上鳴くんが貸してくれるんだ」
「は?」

 飯田の声が一層低くなったように感じたのは、お茶子の気のせいだろうか。メガネの奥の眼光もどことなく鋭くて、飯田もこんなに怖い表情をするのか、とこちらを見ていないことをいいことに、暫し釘付けになる。
 そこへ上鳴がやってきて、「お待たせ名前ちゃん、これどーぞ」と、あまり使われていないのが伝わってくる英語の教科書を渡した。のだが、それを飯田が澱みない手の動きで制した。

「いや、大丈夫だ。俺のを貸す」

 やっぱり気のせいではない。いつもよりも低く、有無を言わせない声色で飯田がそう言った。辺り一体に静電気が漂っているかのような、ピリピリとした空気で満ちている。これには上鳴も名前も呆気に取られていた。当然、お茶子も驚いて目が離せないでいる。そんな周りの様子に気づいたのか、飯田ははっとしたように瞠目し、

「ありがとう、上鳴君。名前が迷惑をかけたな」

 と、いつもの飯田の声で礼を述べて、腰を折った。測ってないが、おそらく45度だ。

「……お、おう! 全然いいぜ! また何かあれば助け合おうな!」

 上鳴も飯田のただならぬ雰囲気を感じ取ったのが表情でわかる。親指を立てて笑うと、そのまま戻っていった。

「麗日君もありがとう」

 と飯田に言われたので、立ち去るタイミングを逃していたお茶子は「いやいや私は何も」と手を振って、名前に「そんじゃあね!」と言って、名残惜しさはあるものの、自席へと戻ることにした。

「ありがとうお茶子ちゃん、またね」

 名前が手を振ってくれたのを見て、お茶子は背中を向けた。とはいえ二人のその後の会話は気になる。お茶子は気持ちゆっくりと歩き、耳に神経を集中させて二人の会話に耳をそばだてると、飯田の小さく呟くような声が聞こえてきた。

「……俺以外から借りるなよ」

 思わずお茶子の足取りがぴたりと止まった。飯田は名前相手だと、こんなふうに俗に言う“雄っぽさ”を滲ませて喋るのか。クラスメートの知らない一面を垣間見たようで、お茶子の心臓が忙しなくなる。

「どうして?」

 対する名前の声はいかにも不思議そうで、単純に気になる、みたいな声色だった。

「どうしてもだ。なんだかすごく、嫌な気持ちになる」

 ―――え、なんなんこの付き合う前みたいな会話、もしかして飯田くん、無自覚嫉妬?

 お茶子は吹き出しそうになるのを必死に堪える。

「それじゃあ、とりあえず英語の教科書貸してよ」
「忘れない努力は怠るなよ」
「わかってるよ。でも、忘れたら天哉と話せるから、お得かなって」
「お得って……ていうか、そういうことをさらっというなよ」
「わっ、照れてる?」
「うるさい。……ちょっと待ってろ、持ってくる」

 ―――え、え、ちょっと待って。もしかして二人は付き合ってるの? え、どっちなん!?

 お茶子は今すぐ振り向いて問いただしたい衝動に駆られたが、拳をぎゅっと握りしめることでなんとか堪える。
 ふと教室内を見れば、A組のほとんどがさりげなさを装って飯田と名前のことを見ていることに気づいた。峯田に関しては目が血走っていて、今にも飯田に飛びかかっていきそうな、飢えた野生動物のような獰猛さがあった。芦戸は大きく開いた口を両手を抑えてニンマリとしている。パッと見ただけでも、そんな調子だ。
 やっぱりみんな気になってるよね、と思いながら、今度こそ自席に戻り、二人の様子をそれとなく観察してみる。二人ともすごくリラックスして、一緒にいることが、喋っていることがすごく楽しそうに見えた。それが幼馴染の親密さなのか、それとももっと別のものなのかはわからない。

『えー! 天哉とはそんなんじゃないよ、あはは!』

 今のところ、名前に笑い飛ばされて、その隣でショックを受けている飯田の姿の方が想像しやすい。残念ながら。
 今回、上鳴との接触は回避することができたけれど、こうやって多方面に気を張るのは大変だろうな、と同情を禁じ得ない。
 名前は飯田に手を振ってA組を出て行こうとしたのだが、すぐに教室内を見渡した。そしてお茶子と目が合った。どきりと心臓が跳ねる。名前はお茶子にも笑顔で手を振ると、今度こそ教室をでていった。
 ああ、びっくりした。まさか目が合うとは思わなかった。名前で呼び合って、帰り際には手を振りあう。お茶子は、名前との距離が少し縮まったのだと思うと、口元が緩むのを感じる。
 次に名前と会った時、今度はお茶子から「名前ちゃん」と声をかけてみよう。
 ふと飯田を見れば、いつもよりも柔らかな表情で自席へと向かっている。口元は緩く弧を描き、いつもきりりとした眉毛はわずかに垂れ下がっている。
 がんばれ、委員長! とお茶子は心の中でエールを送った。

2025-10-19