空気は目に見えない。けれども確かにそこに存在していて、息を吸い、生きることが出来る。熱が出て初めて健康だったことに気づく。よくある話ではあるが、なくなってはじめて気づくことがある。
「ねえ、クリフト、顔が怖いわよ?」
「……ッ姫様! すみません、考え事をしていました」
目の前で訝しげな顔をしてクリフトを覗き込むのはアリーナ。クリフトはハッと我に返ると、すぐに自分の非礼を詫びた。姫様の前で怖い顔をしていたなんて、無礼にもほどがある。
幼馴染がいつまでも自分の隣にいるなんて、あたりまえの話だが有り得ないのだ。いつかはたった一人、共に行くと出会い、その人と人生と言う道を歩き出す。“あたりまえの話”だが、何かきっかけがないと感じられないものだ。
幼馴染であるナマエとは生まれた時からずっと同じ道を歩いていた。そしてこれからもずっと一緒に歩いていくと思っていた。“あたりまえの話”、なんて当然頭をよぎることなく今日まで過ごしてきたわけだが、きっかけがついに訪れてしまったのだ。
ようやくたどり着いた町は、日暮れ前だというのに随分と賑やかであった。聞けば今夜は収穫祭らしい。クリフトはぼんやりと、まあナマエと行くことになるでしょう。と思っていたのだが、ぼんやりとしていたクリフトの脳内花畑に突如暗雲が立ち込め、そして雷が落ちた。
「ナマエ、今夜の収穫祭、おれと一緒に行かない?」
「えっ、あっ、はい」
「よっしゃ、じゃあ約束ね」
4主がさりげなく誘い、ナマエが自然と受ける。こんなやり取りがクリフトの目の前で行われた。何なら、ヒュー! なんてマーニャが冷やかす。頭の中に雷が落ちたクリフトは一瞬何が起こったのかわからなかったが、徐々に事実を認識し始めた。目の前で嬉しそうにガッツポーズをとる4主と、照れ臭そうにはにかむナマエ。青天の霹靂とはまさにこのことだろう。
「姫様、このクリフトと一緒に収穫祭に行ってはくれませんか」
いつもならいちいち躊躇いながら誘うであろうクリフトにも関わらず、スラスラとアリーナを誘ったクリフト。
「いいわよ。行きましょう」
こうしてクリフトはアリーナと、ナマエは4主と行くことになったのだが、クリフトは奇妙な違和感を感じていた。ナマエが、4主と一緒にいる。なんとなくそのことに不安を覚え、ふと疑問を感じたのだ。自分とナマエとの関係性に。アリーナと一緒にいけるなんて、とんでもないことなのに、嬉しくて堪らない事なのに、ナマエが4主と一緒に行ってしまうことが気になるのだ。
そして収穫祭、アリーナと一緒に屋台を回っていたところ、冒頭に戻るわけであった。
「ナマエがいなくてそんなに心配?」
「いっ、いえ、そんなナマエのことを考えていた訳では……」
「嘘よ。クリフト、あたしに隠し事できると思っているの?」
言い当てられてドキリとした。ああ、姫様に隠し事なんてできない。さすがはアリーナ、どうやらなんでもお見通しのようだった。クリフトの複雑は気持ちになった。冷静になれ、と自分に暗示をかけるが、難儀であった。
ふと、アリーナのことを改めて見る。隣で、出店で買ったスライムの形をしたクッキーを頬張るアリーナは本当に神懸った可愛さだ。愛と尊敬が止むことを知らない。それなのにどうして、心の中にナマエが出てくるのだろう。いつからこんなにナマエの存在が大きくなっていたんだろう。
「噂をすればナマエだわ」
向こうから歩いてくるナマエと4主。なんてことだろう、悔しいけれどクリフトの目にはとてもお似合いに見えるのだ。出店に並ぶリンゴを指さす4主、それを見て楽しそうに頭を振るナマエ。何を話しているのだろう。
「ねえ、クリフト、いいの?」
純粋に不思議そうなアリーナのまん丸の瞳がクリフトを見た。
「あたしなら平気よ、あそこで腕相撲大会行ってくるから、ね、クリフト、行ってきなさいよ」
だんだんとアリーナの瞳がキラキラ輝いていくのが判る。辺りを見渡せば、少し先で腕っ節のよさそうな男たちが人だかりを作って、盛り上がっている一角がある。
「しかし……」
踏み出せず、言い訳ばかりを考える。いつだってそうだ、こうやって肝心なところで勇気が出てこない。だから何も変えられない。今こそ勇気を振り絞るところでは、ないのか?
「……すみません姫様」
「いいのよクリフト」
クリフトは頭を深く下げ謝り、走り出した。気づいたこの感情をなかったことにして逃げたくもない。この感情を、この気持ちを、言葉にして伝えたいのだ。もう逃げないし、言い訳もしない。
「ナマエ!」
楽しそうに露店を見ていたナマエと4主がクリフトを見た。
ああ、逃げたい――やはり目の前にすると、先ほどあふれ出た勇気も、言葉も、全部委縮してしまう。目の前の二人がとても絵になるのだ。幸せそうな二人、楽しそうな二人。そんな姿を見せつけられたら、自分が出る幕なんかないのではないかと思うのだ。やさしい4主、かっこいい4主、強い4主。何一つ敵わない気すらしてくる。そんなことを考えながら、また逃げ出そうとする自分に嫌気がさす。
「クリフト?」
でも、自分に言い訳をして逃げてはだめだ、待っていてもだめだ。これから何年も、何十年もナマエとつながっているために、走り出さなければ。こぶしを握って自分を奮い立たせる。動き出すんだ。
「どうしたのです、クリフト」
「ナマエ、あなたのことが、好きです。4主さん……ナマエのことは渡せないんです」
突然のことに驚きを隠せない4主、そしてナマエ。世界は、動き出したんだ。
「ク、クリフト、何をおかしなことをいっているのですか?」
「おかしなことなどいっていません、至極真面目にいっているのです」
ドキドキと心臓が爆発して木端微塵になるんじゃないかってくらい早鐘を打っている。言ってよかったのか、言わないほうがよかったのか、答えの出ない疑問が高速で脳裏を巡る。
「ええと……あの……」
困惑した表情のナマエ。
「クリフト、ナマエのことが好きなの?」
「あ、はい……好きです、4主さんはどうなんですか」
一度タガが外れたものだからどこまででも行ける。普段なら聞けないことを容赦なく聞ける。
「おれは……おれも好きだよ」
予想はしていたとはいえやはりドキリとする。
「絶対に、負けません」
「ちょちょ、どうしたんです二人とも」
「これからもずっと二人で歩んでいきたいんです」
走り出したこの気持ちをもう止めない。ナマエのことを4主には渡せない。負けるつもりはない。
