名前の家には誰もいなかった。明かりは灯っておらず、扉を開けても痛いくらいの静寂があるだけだ。夜だから仕事を終えて家に帰っているかと思ったが、まだ化野の家なのだろうか。このまま家で彼女の帰りを待っているか迷ったが、結局化野の家に向かうことにした。迎えにいくといえば大袈裟だが、夜道を女ひとり歩かせるのならば、一緒に帰った方がいいだろうと考えたのだ。
日が暮れて尚、夏の夜はまだ暑くて、袖から出た腕がかき分ける風はぬるい。夜だというのに旺盛な蝉の鳴き声を聞きながら、化野の家への道を草を踏み締めて歩く。今日は月が明るいから、提灯がなくても月明かりを頼りに十分歩いていける。見上げれば、藍色の空に少しも欠けることのない満月が浮かんで世界を照らし出している。
化野の家の縁側へ近づくにつれて、男女の楽しそうな喋り声が聞こえてくる。不思議と安心するその声を、耳と頭が覚えているようだ。目尻を下げて喋っている顔が脳裏に浮かんで、それに釣られるようにギンコの口角も自然と上がる。
まだそれなりに離れているものの、遮蔽物がないからか、会話は鮮明に聞こえてきた。
「ほんっとにお前の話は興味深いなあ。よし、昼間の絵は飾っとくか」
「いやいや、絶対飾らないで」
化野の声だ。次いで、名前の声。夏の夜、月明かりに包まれた二人は縁側に並んで座っている。
「いやだって貴重な資料だぞ、化野家の家宝にせにゃならんだろ」
「やだよ。こんな下手な絵」
二人は庭に目もくれず、お互いを見つめ合って喋っている。だからギンコが近づいていることには気づいていない。
「でも俺にはでんしゃってのがどんなもんか分からんからな。あ、それじゃあ俺の似顔絵描いてみろよ。それで上手い下手を判断しよう」
「そんなことしたら謙遜じゃなくて本当に下手だってバレちゃうじゃん」
ははは、と華やかな笑い声が宵闇を飛び跳ねるように聞こえてきた。
彼女の息災さを表すようなその声に安堵を抱いたのだが、同時になぜだかチクリと胸に針が刺さったように痛んだ。
そうしてお互いが視認できるくらいの近さになると、近づくギンコに気づいて、二人の視線が示し合わせたように一斉にこちらへと向いた。四つのまなこに見つめられ、ギンコは「よう」と口の端を持ち上げた。
「随分と楽しそうだな」
「あっ、ギンコ! おかえり」
「よう、ギンコ。息災そうだな」
名前の瞳が今日の月のようにまんまるになった。化野も軽く手を上げて迎え入れる。ギンコは二人の対面で立ち止まり、「家が無人だったもんで様子見に来たんだよ」と言えば、名前は「ああ」と合点がいったように言った後、「あれ?」と弾かれたように辺りを見渡す。
「いつの間に暗くなってる! 話に夢中で全然気づかなかったよ。ごめんね化野先生、長居しちゃって」
「いやなに、俺のほうこそすまんな、引き留めちまって」
「んーん、楽しかったよ。それじゃあまた明日ね」
「おう。じゃあな、名前、ギンコ」
「おう。また明日来る」
化野に別れを告げて、ギンコが辿ってきた道を引き返していく。彼女の歩調に合わせていつもよりもゆっくりと足を動かしていると、急に帰ってきた実感が湧いてきた。
「楽しくやっているようで何よりだ」
「おかげさまでね。もう少し慣れてきたら、簡単な手当てのやり方とか教えてもらうんだ」
「そうかい。そらよかったな」
これはとても当たり前のことだが、名前と化野の日常は、今日も明日も当たり前のように共にある。昨日も今日も同じ場所にいて、明日も同じ場所にいて。これから先ずっと、同じ場所で日常を共に進む。今日はギンコがいるが、明日ギンコが発とうが、二人の日常はここで変わらず続いていくのだ。
それは自分で選んだことだというのに、ギンコが発った後も先程みたいに楽しそうに笑う名前の姿が浮かんで、なぜだが胸が軋み、無性に息が苦しくなった。安心できる場所で、幸せに暮らす。それが一番だというのに。
己の中の澱んだ空気を吐き出すように、蟲煙草をふかす。名前もギンコも喋らなくなったので、草を踏み締めて歩く二人分の足音と、虫の音だけが聞こえてくる。
と、不意に何かが腕にまとわりついてきた。
「ギンコ」
それが名前の腕なのだと気づいて、はたと立ち止まる。
「どうした」
首だけ動かして名前を見やれば、先ほどまで化野を見ていた瞳がギンコだけを見つめている。その瞳に鏡のように映し出された月は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「いや、なんとなく。だって、久々に会えたからさ。いや?」
なんてことないような口ぶりだが、その瞳から期待の色を見つけて、目は口ほどに物を言う、という言葉が頭を掠める。全くその通りだ。
「いんや、いいぜ」
先程までの鬱蒼とした気持ちは、いま嘘のように晴れ渡っている。我ながら単純だ。二人、腕を組みながら歩けば寄り添った影は一つとなって草地に落ちる。月に見守られながら、家路をゆっくりと歩いた。
家に戻ると一緒に準備をして夕餉を食べた。その間、会えなかった時間を埋めるようにお互いの近況を話す。
ギンコは道中出会った蟲やひとのこと。名前はこの海沿いの村での出来事を話してくれるわけだが、そのどの話にも、必ずと言っていいほど化野が出てきた。しかし当たり前と言えば当たり前だ。化野のもとで働いているわけなのだから。
名前の口から化野先生、という言葉が出てくる度に、戯れ合うように話していた二人の顔が浮かんでくる。
「化野と随分と仲が良くなったんだな」
話の切れ目に、そんな言葉がついて出た。言った後にすぐ後悔するが一度出た言葉は無かったことにはできない。
「一緒にいる時間長いからね。それにわたし、珍品ですから」
「まぁな」
「珍品といえば。化野先生の倉庫本当にすごいね、この間片付けしたんだけどさ―――」
ほら、また化野の話だ。すると抑えきれなかった感情が一部溢れてしまったみたいに、ギンコの眉が一瞬、曇った。しかしその感情の正体は特に心当たりがなく、首を捻るが、特に気に留めることなく会話を続けた。
食器を片付け終えると名前が風呂に入るか尋ねた。
「風呂? こんな暑いのにか」
「暑い日に熱いお風呂に入って汗を流すのがいいんだよ。それにギンコ、どうせしばらく入ってないでしょ。てわけで、お風呂の準備してくるね。一番風呂、譲ってあげる」
さすが風呂好きだ。結局ギンコの答えを待たずして、強制的に風呂に入ることに決めた名前は「よいしょ」と呟いて立ち上がった。
「久しぶりの風呂なのに俺が最初でいいのか?」
元いた世界の名残で、毎日だって風呂に入りたいと言っていた名前だから、風呂にかける思いは人一倍だ。対するギンコはたまに入れたら僥倖、くらいなので、何番目だろうと関係ない。客人扱いしてくれているのだろうが、どうせなら風呂好きに先に入ってもらった方がいいというものだ。
「たまに化野先生の家で入ってるから、実は結構入ってるんだ」
化野の家で風呂? その言葉に、ギンコの中で細波が広がってわずかに顔が強張るのを感じる。事もなさげに言ってのける名前は、ギンコの些細な変化には恐らく気づいていない。
「なんで化野ん家なんだ」
「お風呂の話をしたら、化野先生が提案してくれたんだ。それぞれの家でそれぞれが入るよりも、二人で同じ風呂に入った方がお水も薪も節約になるし、楽だしね」
「……へえ」
なんとか相槌をしぼりだす。
まさか一緒に入っているわけではないと思うが、それでも名前が化野の家で一糸纏わぬ姿になる瞬間があると考えたら、一瞬思考が止まり、黒い感情に埋め尽くされた。
―――名前が入った湯に化野が入るのか? それとも化野が入った湯に名前が入るのか? いずれにしろ、気に食わんな。
―――気に食わん? なぜだ。
今日は自分の感情に振り回されてばかりだ。
「そういうわけで、準備してくるからちょっと待っててねー」
いつもギンコが名前にするようにギンコの頭を粗っぽく撫でて、名前は軽やかな足取りで風呂の準備に向かった。
あの日、火の起こし方が分からないと膝を抱いていた女が、一人で風呂の準備をしてくるとは。名前の背中を見やり、ふと思った。ギンコがいないと生きていけないと泣いた女は、少しずつ成長して、この地で生きている。それはいいことだ。いいことなのだが、なぜか複雑な気持ちが邪魔をして、ギンコは素直に喜ぶことが出来ずにいた。その胸中は表情として現れていたかもしれないが、風呂の準備に行ったのでそれを見られることはなかった。
そうして風呂に入ると、先程名前が言っていた、化野の家で風呂を入っている、と言う言葉が思い返されて、そこから思考がズルズルと化野と名前という二人に向かっていった。
二人が仲良くなることは、最初から分かっていたはずだ。過ごす時間の長さだけ、接する機会の多さだけ、乗り越えた事柄の多さだけ、二人の関係はより強固になっていく。
ギンコと名前もそうだった。そしてお互いが好き合っていることは、お互いがわかっている。だが、別に将来を約束したわけではない。好き合い、互いが互いを居場所だと認識している、ただそれだけだ。結局のところ、二人を結ぶ確かなものはなにもないのだと改めて思う。
だからだろうか、化野と名前が親しくなればなるほど、焦りが生まれる。確かなものではない関係性が、波に攫われて消えて無くなってしまうような気がしたのだ。
ギンコは、化野の近くならば安心できると思って化野に名前を預けた。なのになぜ、化野と名前が睦まじいと、こんなにも鬱々とした感情に苛まれるのだろうか。お門違いな感情を抱いているのは分かっているが、それでも止められなかった。
名前から、『化野と生きていく』と言われれば、ギンコに止める術はない。共に暮らすことすら儘ならない男と、いつだってそばにいてくれる男、どちらがいいかなんて火を見るよりも明らかだ。だが……
諦めることには慣れていた。手の隙間から砂がこぼれ落ちて行くように、これまで沢山のものを諦めて、手のひらの上にはいつだって何もなかった。けれど今、この手の中には絶対になくしたくないものがある。大切にする方法は合っているのだろうか。―――本当に大切に思うのならば、この手から解放してやるべきなんじゃないだろうか。
「……はあ」
ぐるぐると詮無いことを考えていたらのぼせそうになったので、風呂から上がる。身体はだいぶさっぱりしたが、内側にほかほかと熱を蓄えて、頭がぼうっとする。縁側で涼みながら、名前が戻るのを待つことにした。
夜風が頬を撫でて、少しずつ体温が落ち着いていくのを感じる。この家に蟲はいないが、口寂しくて蟲煙草をふかしていると、この家にたった一人いるような錯覚に陥る。だが風呂場の方から時折水の音が聞こえてきて、その度に名前がいる、と安堵にも似た思いで満たされる。
「お待たせ、ギンコ」
ペタペタと足音を立てて駆け寄ってきた名前は、ギンコの背中に抱きついてきた。幼子のように高い体温に、「あちいな」と漏らす。
「暑いねえ」
「じゃあ離れろよ」
「やだ。やっと思いっきりくっつけるようになったから堪能するんだ」
背中にピッタリとくっついているものだから、声が背中に溶けていくようで心地よい振動が伝わってくる。一緒に旅をしている時はこんなにも愛情を表現する女だとは思わなかった。思いを伝え合ってからは、タガが外れたように沢山の愛情を言葉で、身体で示してくれるようになった。
「やっとくっつけるって、なんでだよ」
「身体を清めてからくっつきたかったからね」
「化野の家からの帰り道くっついてたじゃねえか」
「我慢できなくて、へへへ」
名前は膝立ちになると、首の後ろから腕を回して、のしかかるように後ろから抱きついた。柔らかな二つの膨らみの感触に意識が持っていかれた瞬間、顔の横に名前の顔が現れて、ちゅ、とギンコの頬に熱い唇を寄せた。
「会いたかったよ、ギンコ」
「そうかい」
ぐらり、理性の足場が危うくなるのを感じる。再び何か仕掛けられたら、ギンコは多分、止まらなくなってしまう。だから少しそっけない反応をしてしまった。
幸か不幸か、名前はすっとギンコの後ろから離れると、正面に座り直してギンコの顔を覗き込んだ。
「ギンコは? 会いたくなかった?」
その瞳には、不安が少し混ざっているように見えた。
ギンコは名前を不安にさせているのにも関わらず、そんな顔をさせてしまったことに対して嬉しくも思った。求められていることの証左のような気がして。
「そうじゃなきゃ、ここに帰ってこんよ」
すると、ぱあっと花が咲いたかのように顔中に笑みが広がった。自分の一挙手一投足……と言ったら大袈裟かも知れないが、ギンコの行動でコロコロと表情が変わる様は、見ていて悪い気はしない。
「良かった。旅先でものすごいおっぱいの大きな美女と出会って心変わりしてたらどうしようって、たまにかんがえるからさ」
「ねえな」
おっぱいの大きな、っているか?
「だってギンコって優しいし、お人よしだからさ、なし崩し的に…‥とかないとは言えないかなって」
名前もそんなことを考えるのかと思ったら少し意外だった。心変わりなんて、あるわけないのに。
数えきれないくらいの年月、流れものを続けてきた。言い寄られることや、仄かな感情を感じることは、ないことはないが、のらりくらりとかわしつづけてきて、名前と出会った。
―――お前さんが俺にどれだけの影響を与えたのか、分からんだろうな。でもそれでいい、分からんままでいい。
ふと、化野が脳裏に浮かんだ。
名前はギンコの中に棲み着いて、今やギンコの一部となった。けれど、その名前の幸せを考えるならば―――
「俺で……いいのか」
「へ?」
「いつ帰るとも分からない流れものの帰りを待つよりも、ずっとそばにいるやつと一緒にいた方が、やっぱりいいんじゃないか」
どことなく卑屈な言い方になってしまったが、燻っていた問いは、今じゃなくてもいつか飛び出ていたはずだ。流れもののギンコではなく、いつでもそばに居て幸せな暮らしを送れる化野。もちろん、化野の気持ちだってあるが、側から見ていて相性がいいように見える。
「わたしはギンコが好きだよ」
名前はきっぱりと言い切った。それに対して、まあ、そう言うしかないか。と捉えてしまうのは、屈折していると分かっている。だがおそらく今は何を言われても、額面通り受け取れない。
「あ、信じてないな。ねえギンコ」
不意に頬に柔らかな感触。名前の手が両頬に添えられて、ギンコの目線は強制的に名前へと向けられた。その時初めて、自分が目を伏せていたことに気づいた。
「わたし、ギンコが大好き。だからここでずっとギンコのこと待ってる。他の誰でもダメなの、ギンコの代わりはいないの。信じられないなら、わたしのことまた旅に連れてってよ。ずっと隣でギンコのことだけ見つづけてるから」
「……お前さんは本当に、変な女だな」
こんな男の何がいいのやら。お前さんが望むものは何ひとつ残せないと言うのに。
けれどもそんな男が好きだという。なんとも奇怪で愛おしい存在。胸がくすぐったくて、込み上げてくる笑みは噛み殺せずそのまま広がっていく。
「なにそれ、馬鹿にしてるでしょ」
「しとらんよ。変な女くらいが丁度いい」
「ギンコも変な男だからね」
言いながら、頬に添えられていた手で頬を抓り、外へ引っ張る。
「うるへーやい」
ああ、とギンコは気づいた。
先程まで渦巻いていた化野への感情はつまり、嫉妬というものではないだろうか。
化野に嫉妬して、無意識に己の自信のなさが卑屈さに変わり、それを名前が昇華させてくれた。
頬の緩い痛みはなくなり、その代わり、柔らかな接吻が降ってきた。
「やっとまっすぐ見てくれた」
もっとわたしだけ見て、と囁いた女は、こんなに艶っぽかっただろうか。きっとこれはギンコにしか見せない一面なのだろう。化野に見せてなどやるものか。
香り立つ色香は、きっとギンコの前では永遠に枯れることのない花。この命ある限り、この花だけは決して手放したりしない。
「お前さんだけを見ているよ」
夏の夜、月の光を浴びて花咲いて、決して枯れることなく、ギンコの胸の中で咲き続ける。
