”相澤先生は愛妻家”という噂は、普通科に所属する心操の耳にも漏れなく届いていた。
相澤が結婚していることも、さらに言えば愛妻家だと言うのも、他の人がそうであるように心操にとっても驚きではあったが、稽古をつけてもらっている分、相澤の実直な優しさを知っているつもりなので、そう言う意味では納得でもあった。
生徒ひとり一人に対して、厳しくも”本当の意味で必要な指導を行う優しさ”を持っているのだから、たったひとりの奥さんには優しさを、愛を、惜しみなく注いでいるのだろう。そんなことを思った。
職員室で並んでいるデスクにはそれぞれの個性が出る。自分の好きなものを飾る先生、文具類が好きな色で統一されている先生、書類が山を作っている先生、その逆でほとんど物を置かない先生。まじまじと観察したわけではないが、パッと目に入っただけでなんとなくそれぞれの特徴みたいなものが伝わってくる。
心操は入り慣れない職員室をなるべく気配を消しながら歩いていく。昼休みで多少緩和されているものの、それでもなんとなく居心地が悪さを感じながら、目的の先生―――相澤―――のデスクへ近づきながら見やるが、どうやら自席にはいないらしい。
窓際の相澤のデスクまでやってきて、隣の山田に声をかけた。
「すみません、イレイザーはどっか行ってますか」
「お、心操じゃねェーか! イレイザーならどっかで愛するワイフと通話してるぜ」
「えっ。……あ、そうなんですか」
山田の回答が意外すぎて、心操は一瞬固まったものの、なんとか相槌を繰り出した。
山田はニヤッと口角を上げる。
「毎日毎日よく飽きねェのな」
「えっ、毎日なんですか?」
しかも毎日ときた。
「そうだぜ。家帰って毎日話してるっつーのにな」
さすが愛妻家だぜ、と山田は頭の後ろで手を組みながら締めた。
―――イレイザー、昼休み奥さんと電話してんの? しかも毎日?
”相澤先生は愛妻家”と言う噂を、本当の意味で理解した瞬間だった。深い愛寵が伝わってくるようだ。
心操は視線を山田から相澤のデスクへと移ろわせると、不意打ちで衝撃波が襲ってきた。堪らず目をすがめる。
―――え、これ奥さんの写真?
物の少ない相澤のデスクにはデスクマットが敷かれていて、そこには一枚の写真が挟んであった。それは女性の写真で、恐らく奥さんなのだろう。相澤と並んで歩く姿が自然と瞼に浮かぶような女性だった。月と太陽みたいに、一見真逆だけどお互いがお互いを補い合うような、とてもいい関係のように見える。勿論、会ったことも話したこともないため、ただの想像だ。
”奥さんと毎日通話”、”奥さんの写真をデスクに飾ってる”。この二つの情報だけでも心操としてはだいぶ虚を突かれたので、とりあえず教室に戻ることにした。
「……急ぎじゃないんでまた来ます」
「オウケイ! イレイザーには心操が来たってこと話しとくからな」
未だ衝撃が抜けぬまま職員室を出てフラフラと歩いていると、廊下の壁に背を預けてスマホを耳に当てている相澤の姿が目に入った。心操は立ち止まり、暫し相澤を見つめる。その表情は春の日差しみたいに穏やかで、瞳を閉じながら薄らと微笑みを浮かべている。心操は初めてみる表情だった。
「うん……うん。はいはい、わかってるよ。それじゃあまたな」
聞くつもりはなかったが、ほんの少し耳を澄ませてしまったのは不可抗力だろう。やがて相澤はスマホから耳を離して通話を切ると、顔を上げて職員室へと戻ろうとしたところで心操に気付いた。
「心操、どうした。何か用だったか」
「あ、そうなんですけど。……奥さんと通話してたんですか」
「そうだよ」
いつも通りの無表情で相澤は言う。
「デスクマットに飾ってるのも奥さんですか」
「よく気付いたな。そうだよ、俺の妻」
「美人っすね」
「まあね」
奥さんを褒めたのに、相澤はどこか不機嫌そうに相槌を打ち、言葉を続けた。
「横恋慕なんて考えるなよ」
「んなこと考えるわけないじゃないですか」
本気なのか冗談なのか分からない口調で相澤がいうので、心操は一応真面目な回答をする。
「……アイツが心操に会わせろって最近煩いんだ。どっかのタイミングで会ってやってくれ」
「えっマジすか。勿論ですよ是非是非」
まさか夫妻の間で自分の話題が出ているとは思わなかったし、奥さんが会いたいと思ってくれていたことも驚きだった。こちとら存在すら最近知ったと言うのに。単純にとても嬉しかった。
だが心操の色の良い反応に、相澤は眉根を寄せる。
「横恋慕なんて考えるなよ」
「だから、んなこと考えるわけないって言ってるじゃないですか」
やっぱりさっきの本気だったんだ。そんな気がしたけど。これでは愛妻家というより、ただ単に奥さんのことに耽溺していて奥さんのことが好きで好きで仕方ない男、のような気がしてきた。
師匠の意外な一面を見て、心操は堪らず笑うのだった。
