目をぎゅっと瞑って、耳を塞ぎ、膝に頭を埋めて蹲っていた。そうして現実を全て拒絶して、頭の中の虚構の世界で生きてきた。
ハンジのいない世界が受け入れられなくて、ハンジの決断を受け入れられない自分が嫌で、何もかもを排除した無の状態でただひたすら現実に耐えていた。そんなどうしようもないナマエの前で、リヴァイは辛抱強く待ってくれていた。寒い日は毛布をかけて、雨の日は傘を差して、それを気づかせないほどさりげなく、リヴァイはナマエを守って、生かしてくれた。本当に、愚かな自分を殴り抜いてやりたい。心を整理するのに必要な時間だったとは言え、それが必要なのはナマエだけで、リヴァイにとっては必要とは言い難い時間だ。それだけでも取り返しのつかないほどの時間を浪費させてしまったのに、なのに。
『ナマエの中にいるハンジごと、丸ごと俺に預けろ。ここから先の人生、俺を選んだことを後悔させない』
彼はあの日、一緒に生きていきたいと言ってくれた。ハンジを忘れられないナマエを、ハンジごと預けろと言ってくれた。そして、左手薬指に誓いを立てるようにキスを落としてくれた。
ナマエは、くしゃくしゃに丸めて屑籠に捨てた地図を拾い上げ、もう一度広げて、リヴァイと共に歩いて行くと決めた。
―――正直にいえば、リヴァイに対してどんな感情を抱いているのか自分でもよく分からないままだ。けれど、リヴァイに触れられるのは嫌ではないし、リヴァイにしか見せられない、リヴァイになら見せられる部分があるのは確かだ。
キスはよくする。日常の何気ないタイミングで不意に顔が近い時はどちらともなく吸い寄せられて唇を重ねているし、寝る前には、おやすみなさい、といって毎晩重ねている。
それは恋人ではないだろうかと言われるかもしれないが、そうです。ときっぱり断言できない。関係性の枠組みをきっちり当てはめる必要はないと二人が思っているからだ。時に恋人、時の同居人、時に元同僚。二人の関係はその時々によって様変わりする。
キスはするが、身体を重ねたのはただの一度だけだった。同じベッドで唇を重ねて、お互いの体温を感じながら眠りに就く。
この終末の大地でいつだって隣にいて、安心をくれる。リヴァイがいるから今、この地で生きて、笑っていられる。誇張抜きに、リヴァイがいなければきっとここにはいなかった。そうやって言えばリヴァイは、「そんな風に思う必要はねぇ」というだろうけれど、本当のことだからいつだって胸の真ん中にある。
そういうわけでただの同居人同士から僅かに関係性が変化したわけだが、ガビとファルコには割と早い段階で気づかれた。しかも意外なことに、ガビが勘づいたのだ。ファルコのあからさまにダダ漏れな好意には気づかないくせして、ガビの野生的な勘は変なところで冴え渡る。
「なんかさぁ、二人の雰囲気変わったよね? 前よりもっと近いっていうか……なんかあった?」
意志の強さを表すような大きな瞳にじいっと見詰められて、いい歳をした大人がたじろいだ。
「え、そ、そうかなあ? え? どうなんですかねぇリヴァイさん」
「……チッ」
慌てるがあまりリヴァイに助けを求めたのだが、盛大な舌打ちを返されてしまい途方に暮れる。それを見たガビは、「やっぱり!!」と確信を得たらしい。追求するような目がジッとナマエを見つめてくる。このままガビと喋っていたら、あの日の出来事が全て見透かされてしまいそうで、慌ててナマエは言う。
「いや別にね、何がどうってわけじゃなくてね、ただ一緒に暮らしていくことを再確認したっていうかね、ね、リヴァイさん! はい、おしまい」
「何それ! よくわかんないんだけど」
「子どもにはまだ早いの」
「子どもじゃないし!」
ぶーぶー文句を垂れるガビをファルコが諌めて、どうにかことなきを得た。
だがしかし、パッと出た言葉であるが、一緒に暮らしていくのを再確認した、と言う言葉に尽きるのだ。ナマエは自分の気持ちが分からないが、ふとリヴァイの気持ちはどうなのだろう、と今更ながら疑問に感じる。憎からず思ってくれているというのは流石にわかるが、別に好きだと言われたわけでもない。
あれ? と、途端にナマエは迷子になってしまったような心地になる。
―――リヴァイさんってわたしのことどう思ってるんだろう。一緒に生きていきたいって、そういうことなのだろうけど。
ナマエの中にあった自信は急速に空気が抜けて、萎びた風船のようになった。
わたしってリヴァイさんにとって何だ? と、改めて考える。関係性はやっぱり曖昧で、はっきりさせる必要はないと思っていたのに、途端に漠然とした不安に陥る。全く、勝手なやつだと自分でも思う。
自分はハンジさんのことをずっと想っているくせして、リヴァイから確かなものを欲しがるなんて、浅ましい。けれどどうしてそう思うのだろうか。ナマエにはわからなかった。
二人が帰った後は、賑やかさが根こそぎ二人についていったように静けさだけが残る。寂しい反面、確かに二人がいたことの証左みたいだとも思う。そのしじまに身を沈めていると、身体が透明になっていくような気がした。不純な気持ちもこのまま濾過できればいいのに。そしてその不純物を検分して正体を確かめてみたい。
「どうかしたか」
ソファで隣に腰掛けていたリヴァイが静かに問うた。主語がないが、ナマエの機微なんてリヴァイには手に取るようにわかるのだろう。その鋭さに助かる時もあれば、困る時もある。今は後者だ。自分の気持ちをなんて説明すればいいか分からない。
―――リヴァイさんは、わたしのことどう思ってますか。
「なんでもないです」
頭に浮かんだ問いを散らすように、ゆるくかぶりを振って答える。リヴァイは「そうか」とあっさり引き下がり、こてんと横たわってナマエの太ももの上に頭を乗せた。
「どうしたんですか」
今度はナマエが聞く番だった。リヴァイは目を瞑り、
「なんでもねぇ」
と言った。彼の黒髪の指を通してその感触を確かめると、ゆっくりと撫でつける。羨ましいくらいのさらさらで、その指通りが気持ちよくて、なんだか微睡んできた。
春の日差しのような穏やかで満ち足りた時間。リヴァイとしか作り上げられない二人の世界。目を瞑って、揺蕩う。
―――わたしのこと、好きですか。
胸の内、浮かんだ問いは奥深くに沈める。
+++
今日はリヴァイが病院に行く日だ。リヴァイは身体のあちこちを損傷しているため、経過観察のために定期的に病院に行って検査して、リハビリもしている。日常生活に支障はないし、リハビリも殆ど必要ないのだが、定期的な検診というのは必要らしい。一ヶ月ごとが三ヶ月ごとになり、半年ごとになり、少しずつ間隔が開くようになってきた。
面倒くさがるリヴァイであるが、何かあったらわたしが困るんです、と説得をして病院へと送って行き、時間をある程度置いてから再び迎えに行く。もちろん迎えなんていかなくたって一人で帰れるが、なんとなくそれが習慣になっている。病院が終わったあとは二人でぶらぶらと散歩をして、何気ない会話を楽しみながら帰宅する。
待ち合わせはいつも病院の中庭だ。そろそろかな、なんて思いながら中庭へ続く道を歩いていくと、中庭の花壇のそばで見慣れた車椅子の姿を見つける。
「リ―――っと」
名前を呼びかけて、思わず口を噤んだ。その雰囲気に、なぜだか声をかけてはいけないと思ってしまったからだ。
病院の中庭に最近植えたのだろう、花壇がいくつかあって色とりどりの花が咲いている。残念ながら花の種類にはからっきしなナマエは、その花がどんな名前の花なのかはわからないが、綺麗だということはわかる。
その花を、リヴァイは車椅子に乗って眺めていて、付き添っている看護師はしゃがみ込んで眺めて、そして二人で微笑み合った。
なんて事のない光景なのに、ナマエの胸は途端にまるで重たい荷物が乗せられたかのように物凄い勢いで沈んだ。
看護師はいつもと同じ女の人だ。看護師が何か喋り、リヴァイは微笑みながら何か言う。結構距離が離れているので何を話しているかはわからないが、無愛想なリヴァイの表情がとても柔らかだと言うことはわかる。
ただそれだけのこと。それなのに、なぜ。
今、リヴァイと会ったらこの複雑でよくわからない感情が表情に出てしまいそうで、ナマエは少し回り道をしようと考えて踵を返そうとしたが、そこでタイミング悪く、リヴァイと目が合った。次いで看護師もナマエに気づいて立ち上がった。残念ながら時間を置くことができなくなってしまったようだ。
さあ、笑顔だ。ナマエは無理やり口角を持ち上げて、笑顔を作って小走りに駆け寄った。
「リヴァイさん、お疲れ様でした」
「あぁ、待たせたな」
「お待たせしましたナマエさん」
にっこりと微笑んで言った看護師は、それではまた次回。と言って病棟へと戻っていった。
「なんであんなとこで突っ立ってやがった」
ばれていたか、なんて思いながら、なんとか言い訳を考える。
「あ……と、ちょっと考え事をしていたんですかね?」
「俺が聞いたんだが?」
なぜか疑問系になってしまって、リヴァイは訝しげな顔だ。これ以上聞かれても困るので、ナマエはささっと後ろに回り込んで、車椅子を押し始める。
「さあて帰りましょうか。今日はどんなことしたんですか」
「いつもと変わらねぇよ。いい加減いかなくてもいいと思うんだが、誰かさんがうるせぇからな」
「そりゃあお医者さんは来て欲しいに決まってますよ」
「誰かさんっていうのはお前のことを言っていたんだが」
「あ、そういうことか。とにかく、今日もお疲れ様でしたね」
車椅子を押すのをやめて、労るようにリヴァイの癖のない髪を撫でつければ、舌打ちが聞こえてくる。
時折不思議な感慨に包まれる。リヴァイの頭を撫でる日が来るなんて、昔の自分が聞いたら卒倒しそうだし、ハンジが聞いたら大爆笑するだろう。……なんて、ハンジのことを思い出したら、胸が疼いた。最近は胸が張り裂けるような痛みはなくて、剥がれかけのかさぶたみたいなむず痒さを感じる。その度、一抹の不安が過ぎる。これでいいのだろうか、と。少しずつナマエの中からハンジがいなくなっていくような気がして、底の知れない恐怖に襲われるのだ。
傷口にはかさぶたが出来て、少しずつ皮膚は再生してやがてかさぶたは取れる。どれだけ願ったって、傷を永遠に残すことはできない。その当たり前から逃げたくて、時折無性に傷口を掻きむしりたくなる。
でもそれは、たぶん、不健全なことで、あまりいいことではないのだと思う。分かっているからそんなことは口にしない。けれど時々、ふと思うのだ。消えない傷となって、永遠に痛みと共にナマエの中に刻まれ続ければいいのに、なんて。
「どうかしたか」
いつの間にやら思案に耽っていたらしい。リヴァイの頭に手を置いたまま固まっていて、訝しんだリヴァイが振り返る。
「いえ。……いつも同じ看護師さんが対応してくれてるなぁって思って」
実際に考えていたことは別のことだったが、それを伝えるのは憚られて咄嗟に嘘をついてしまった。でも、本当のことは言えなかった。言ったって、困らせてしまうだけだ。
リヴァイは思案するように視線を巡らせた。
「言われてみればそうだな」
「なんでですか」
「知るか」
「なんか仲良さそうでしたし……」
言葉にしながら、胸がざわめいていくのを感じる。だからなんだ、と言われたって仕方ない話なのに、ナマエは拗ねたような口ぶりを止めることができなかった。話を紛らわせるためにした話でこんな気持ちになるとは、自分で自分に驚く。
「気になるのか」
「別に……」
「ふっ」
「今笑いました? ひどい」
「いや」
上から覗き込んだリヴァイの顔がどことなく楽しそうで、ナマエは「もう」と言ってそれ以上の追求はやめた。
二人の関係性を枠にはめる必要はないと思っていた。しかしそれは同時に、非常に不安定な関係とも言える。もしもリヴァイが誰かを好きになったら、二人の関係は呆気なく終わってしまう。それは勿論ナマエにも言えることだが、それがすごく怖いと思った。リヴァイがいなくなってしまうのが怖い。リヴァイのいない日々を生きるのが、怖い。自分の心の中には、何にも変えられない大切な人がいると言うのに。自分の勝手さに、皮肉な笑みが込み上げてきた。
