人に不快な思いをさせてはならないということは共同生活を送る上で最低限のマナーだ。我らが分隊長は人よりもそのハードルが低い。人に対してとやかく言わない代わりに自分に対しても頓着しないため、気がつけば周りに悪影響を及ぼしていることが多々ある。
目の前のモブリットが申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「すまないなぁ。風呂ばっかりは俺では世話できなくてな」
「いえいえ。これも班員の務めですから」
それに、恋人の務めでもあります。と言う言葉は己の心の中だけに留めておく。ナマエとハンジが付き合っていることは、誰にも言っていない。表向きは上官と部下というだけだ。それは二人が同じ組織に属しているということもあるし、もっと言うと同性同士ということもある。だから当然、二人の関係を同じ班であるモブリットも知らない。二人の関係性は、二人だけが密かに共有する甘やかな秘密だ。
そして渦中のハンジは自分の匂いを嗅いで言った。
「そんなに臭いかなぁ?」
納得がいっていないらしくハンジが眉根を寄せているものの、その臭いに眉根を寄せたいのはこちらと言うものだ。ナマエは苦い顔をしてハンジの背中を押す。
「ほら、行きますよ。ハンジさんはもう鼻が慣れてるからわからないだけで、公衆衛生的にアウトです」
「まだやりたいことあるのにぃ」
「お風呂終わってからやればいいんです」
「そう言っていつもやらせてくれないじゃないか」
「それじゃあよろしく頼むな」
不平不満を口にしつつも歩き出したところでモブリットの言葉に見送られ、二人は兵舎の浴場へと向かった。
兵舎の風呂は女風呂と男風呂に分かれていて、シャワーが複数備えてあり、大きな湯船もある。シャワーでさっと済ませるものもいれば、湯船に浸かって疲れを癒すものもいる。最近ハンジは徹夜気味だったこともあるため、今日は身体を清めたのちに湯船に浸からせる予定だ。
脱衣所で服を脱ぎ浴場に入れば、遅い時間ということもあり先客が一人湯船にいるだけだった。ひとまずシャワーの前にハンジを座らせて髪を洗っていく。ここがいちばんの難関だ。髪は当然のように一度では洗いきれず、二度三度繰り返してようやく指通りが良くなった。こうなる前に風呂に入ってほしいものだ。全く、困った人だなあ、とハンジの髪を流しながら思う。けれど、そんなところも愛おしい。いつだってハンジのそばにいて、お世話をするのは自分がいい。
「ハンジさん、洗い足りないところありませんか」
「んー、ないよー」
髪を洗い終える頃にはハンジの目はとろんとしていて、随分と眠たそうに見えた。寝不足なのだから無理もないだろう。だが心を鬼にして声をかける。
「ハンジさん、身体は自分で洗ってくださいね」
「うーん……」
返事は心許ないものの、ノロノロと手を動かし始めたのでおそらく大丈夫だろう。その間にナマエも自分の髪や身体を洗い、終わる頃には先客は湯船から上がっていて、代わりにナマエよりも後輩の兵士が二人やってきて洗い場に座った。
身体を綺麗にし終えると、ナマエとハンジは湯船へと向かう。立ち上がったハンジは至極眠そうで、目が悪いことも相まって足を滑らせても困るため、一応腕を掴んで湯船へとエスコートしていく。
「足元気をつけてくださいね」
「んー」
無事に湯船にたどり着くと、隣同士並んで座り身体を湯に沈める。肩まで浸かると日中の疲れがその温かさの中に溶けていくような心地がした。
しばしリラックスしてお湯に浸かっていると、突如ぞわりと何かが背筋を抜けていくような感覚が走った。
「なっ……!?」
見れば、いつの間にやらナマエの後ろから脇腹に手を回していたハンジが脇腹から腰にかけて右手を滑らせていたようだ。優しくも艶かしい手つきに堪らずハンジの顔を見やるが、当の本人は目を瞑って湯を堪能しているように見える。まるでただただのんびりと湯に浸かっていて、手だけがハンジの意思とは関係なく動いているかのようだった。
腰の稜線をなぞるように動いた手は、今度は腰から脇腹へと上っていき、そしてそのまま乳房へとたどり着いた。優しい手つきで乳房を触られ、感触を確かめるように揉まれる。予想だにしていなかったことに驚き、ナマエは嗜めるようにハンジの名を呼ぶが、彼女は相変わらず目を瞑ったまま、呼びかけに応じる気配はない。一体どういうつもりなのだろうか、真意が測れないでいる。
その間もモゾモゾと手は動いていて、柔らかく揉まれたと思ったら、今度は尖りきった頂を指で擦られ、ナマエの意思とは裏腹に声が漏れ出る。
「あっ……!」
慌てて口を手で塞ぐ。するといつの間にやら目を開けていたハンジが面白そうに口角を上げて、突き立てた人差し指を口元へと持っていった。静かに、とジェスチャーで言っている。だが声を出す要因を作っているのはハンジだ。ナマエは声を顰めて抗議を申し立てる。
「ハンジさん、どういうことですか。やめてください」
「どうってことはないよ。ただお風呂に入っているだけじゃないか」
そう飄々と宣う。先程までうつらうつらと眠たそうにしていた人とは思えない。確かに全ては湯の中で行われているため、二人の正面に回らない限りは何が行われているかはわからない。だが声を出せば、後ろで身体を洗っている後輩に気づかれかねない。それだけは絶対に避けなければならない。
すると次にハンジは左手で左胸を触り、両胸を揉まれる形になる。拒むことだってできるのに、惚れた弱みというのは恐ろしいものだ。後ろに人がいるにも関わらず為されるがまま為されて快楽を享受している。さらには人に気づかれるかもしれない状況下というシチュエーションがさらに興奮を助長している。
世界でただ一人、愛するハンジの熱い指が乳房をまさぐっている。その指は音楽を奏でるようにナマエの身体を滑り、弾き、撫でる。その度にナマエは身体を捩らせ身悶える。唇を噛み締めて絶対に声が漏れ出ないようにするが、堪えきれないものが鼻から抜け出ていく。
「んっ、ふ……」
「こらこら。後ろの洗い場に人がいるんだから、変な声出しちゃダメじゃないか。それとも聞いてほしいの?」
低く、囁くような声で耳元で言われてますます身体が熱を帯びる。ハンジは狡い。彼女の妖艶な声が脳髄に直接響いて、頭がおかしくなってしまいそうだ。現に瞼の裏がチカチカとしているのは、のぼせてしまいそうなこともあるのかもしれない。なんとか小刻みに首を振り否定すると、ハンジはくつくつと笑う。
この人、完全に楽しんでいる。そう認識するとともに、悔しい思いも込み上げてくる。まるでハンジの手のひらの上で転がされているようだ。悔しい、悔しいけれど、悪くない。そう思うから、きっとナマエは一生ハンジには敵わないのだろう。あの日あの時、ハンジに胸が射止められたあの瞬間から、ナマエはずっと恋の奴隷だ。
ハンジは唇がナマエの耳を掠めるくらい近い距離で囁き続けた。
「あぁ。気持ちがいいのに我慢しなくてはならないから堪えてるこの表情。最ッ高に滾るよ、ナマエ。よぉく見せて」
「……ッ」
瞼をぎゅっと閉じて顔を逸らせば、ハンジの小さな笑い声が聞こえてきて、手の動きが止まった。そして乳房を弄っていた手は惜しげもなく離された。
瞳を開けて様子を伺うと、ハンジは前髪をかき上げて、おもむろに立ち上がった。勢いよく立ち上がったものだから、飛沫が上がって水面が大きく揺らめく。
ハンジを見上げながら、下から見上げるその姿の美しさに胸が締め付けられる。服を着ていたって、着ていなくたって、下から見たって前から見たって後ろから見たって、ハンジはいつだって美しい。ハンジの悪戯のせいですっかり情欲に塗れてしまった頭で、今すぐその身体と隙間なくひっついてしまいたい衝動に駆られた。この場からハンジとナマエ以外全ていなくなってしまえばいいのに、と本気で思った。
「さて、あがろうか」
そんなナマエの気持ちを知ってか知らずか、ハンジはそう言って湯船から上がり、手をナマエに差し出した。
+++
お風呂から上がり、たっぷりと水分補給をした後にハンジを部屋まで送る。ここまでがセットの任務だ。この後仕事をさせず、自室で休ませるためにモブリットから仰せつかっている。
夜も更けてすでにしんと静まり返っている廊下を歩いていくうちに、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。ハンジの部屋の前にやってくると、ナマエは一日の最後の挨拶をした。
「それではおやすみなさい」
「うん、おやすみ。また明日ね」
当たり前の言葉が返ってきたのに、胸が鈍く痛む。頭ではわかっているのに、心と身体は真摯にハンジを求めているのが痛いほど分かった。けれど、先ほどの続きをしてくださいなんて、言えるわけがない。疲れ気味の恋人を休ませるのだって、立派な恋人の勤めだ。
ハンジは自室の鍵を開けて扉を開くと、不意にナマエの手首を掴んでぐいと引き込んだ。訳がわからず困惑する。言っていることとやっていることがチグハグだ。また明日と言ったのに、部屋に連れ込んだハンジを見上げれば、ハンジは逆に不思議そうな顔をした。
「どうかした?」
「え……と、どうかした、じゃないですよ。また明日ね、って言ったら、次会うのは明日ですよね……?」
「普通に考えればね。まあ細かいことは気にしないでよ」
言いながらハンジは扉を閉めると、スタスタと慣れた様子で暗い部屋を歩き、部屋の燭台に火を灯した。
心臓がムズムズとする。先ほど少しずつ落ち着いていった気持ちが勢いをつけて肥大化していくのを感じる。
「逆に聞くけど、お風呂であんな煽ってきて、帰れると思ったの?」
「あ、煽ったって……! ハハハハンジさんがちょっかい出してき……っん」
ナマエの抗議が押し当てられたハンジの唇に吸い込まれていく。途端に、満たされていくような気持ちが広がっていく。ずっと欲しかったものがようやく手に入ったようだった。
そして欲しかったものは、キスだけではない。ハンジはそれを分かっていて、きっと今からそれを与えようとしてくれている。
唇を離したハンジば目元を細めて言った。
「期待してたくせに」
言い当てられて、ナマエは堪らず口を噤む。
「さぁて、続きといこうか」
浴場では眠たそうにしていた瞳は今や獰猛に輝いている。ハンジの浮かべた微かな笑みはどこまでも続く果てへと連れて行ってくれそうで、また身体の中心が熱くなるのを感じた。
この火照りの原因を作ったのはハンジで、この火照りを鎮めてほしい相手もハンジだ。「もう」なんて言いつつも、ナマエはハンジに手を引かれてベッドへと導かれていく。
微かな灯りに照らし出されながら、二人は時間を惜しむように服を脱ぎ捨てて、綺麗になったばかりの身体を隙間なく重ね合わせる。書物や巨人ばかりを見ている瞳が、今は瞳の奥に情念の炎を燃やしながらナマエだけをじっと見つめている。
あとはもう、誰の目も気にせずに交じり合い、切なさを埋め合うだけだ。
