祭囃子、遅効性の毒

 職員通用口から校舎を出た瞬間、蒸し暑い夏の風に乗って笛の音や太鼓の音が聞こえてきた。その音に導かれるように、そういえば最近商店街の街並みには提灯がぶら下がっていて、お祭りムードだったのを思い出す。

「お祭りかぁ」

 屋台で晩御飯でも買って帰ろうかな。屋台の焼きそばとか久しく食べてないし、なんて考えたが、一人でお祭りを練り歩く姿を知り合いに見られたら恥ずかしすぎる。そもそも休日出勤でいかにも仕事帰りの服装ではかなり浮くだろうし、やっぱりやーめた。と考えてまっすぐ帰ろうとしたその時だった。

「お疲れ様です」

 まさか誰かいるとは思わず、わたしはびくりと肩を震わせた。

「わっ、お疲れ様です。―――相澤先生」

 振り返れば、去年から教師として勤めている相澤消太先生がそこにはいた。夜の闇に溶けてしまいそうな真っ黒な服は、首に巻かれた白い布によってかろうじで輪郭を保っているようだった。

「休日なのに仕事ですか」
「あ、はい。どうしても今日中に終わらせたいものがありまして……」

 わたしと相澤先生の接点はほぼないと言っても過言ではない。だからこそ、あいさつの後で話かけられるとは思わなかった。

「相澤先生も、お仕事ですか」

 どうしたらいいかわからず、ひとまず会話のボールを投げ返す。どうか相澤先生から会話を切ってくれますように、なんて思いながら。

「ええ。同じくです」

 それじゃあ、と言って歩き出すかと思ったら、意外なことに相澤先生は「ところで」と尚も話を続けるのだ。

「帰り、駅の方ですか」
「はい、そうです」
「送ってきます」
「え、いいですよ。心配されるような年でもないですし」
「年は関係ありません」

 じろりと睨まれた。いや、相澤先生からしたらただ見ているだけかもしれないけれど、わたしからしたら睨まれたも同然だった。

「でも……ほら、駅前の商店街でお祭りやってるみたいですし、人もたくさんいますよ」
「お祭りは、スリとかの犯罪が増えるんです」

 相澤先生と二人で帰るなんて、本当に失礼ながら息が詰まりそうだ。だからやんわりとお断りをしているのだが、全然通じない。もうほとんどお手上げであった。

「そしたら……お願いしていいですか」
「行きましょう」

 スタスタと歩き出した相澤先生に慌ててついてく。見た目によらずお節介焼きなプロヒーローの背中は、広くて丸まっている。
 ほとんど話したことのないわたしたちの道中は、会話など弾まない……と思ったのだが、案外相澤先生が会話を振ってくれた。今日はどんな仕事を、とか、最近本当に暑いですね、とか。本当に他愛ないけれど、会話を途切れさせないために努力してくれているみたいで、心がほかほかと温まる。夜の生温い風がいつもはじっとりとしていて嫌だけれど、今日はちっとも気にならなかった。
 角を曲がった瞬間、祭囃子が、がやがやと賑やかな声が、一層大きく聞こえてきて、提灯も見えてきた。お祭り会場が近づいている。

「どうせならお祭り、寄ってみますか」

 相澤先生が何気なく口にした言葉に、わたしは呆気に取られた。

「え……あ、」

 咄嗟に返事ができなかった。だって、二人でお祭りを歩く姿を誰かに見られるかもしれない。いいんですか。たまたま帰り道が一緒だっただけだけど、生徒たちに見つかったら一気に噂されそうだ。不都合はないのだろうか。

「……すみません、急に迷惑でしたよね。忘れてください」

 わたしが言い淀むのを、相澤先生は拒絶だと受け取ったらしい。小さく頭を下げて謝罪をしたのち、歩き出そうとしたところを咄嗟に「あの!」と呼び止めていた。

「迷惑ではありません。もしよかったら、夜ご飯買うの付き合ってください」

 先ほどまでの戸惑いが嘘のように自分でも驚くほどスラスラと口にしていた。相澤先生は足を止めて、わずかに瞠目した。そして、「もちろんです」と微笑んだ。
 相澤先生って、こんなふうに笑うんだ。胸の内、春嵐のような風が通り抜けていくのを感じる。
 会場に近づくにつれて、人がだんだんと増えてきた。浴衣や甚平を着ている人も多い。ガヤガヤと賑やかな商店街は、いつもよりも活気づいている。道路には露店が軒を連ねていて、商店街の店先には美味しそうな食べ物が並んでいる。

「わー……どれにしよう。全部美味しそうに見えます」

 空きっ腹にはどれもこれも魅力的に映る。結局、焼きそばに唐揚げ、お好み焼き、ポテトと気づけば結構な量を買っていた。そのすべてを相澤先生が当然のように持ってくれた。
 お礼と言ってはなんだが、商店街の軒先でビールを二つ買い、近くの神社で乾杯した。透明なカップに入ったビールはすでに生温いけれど、仕事終わり、お祭りの雰囲気を楽しみながら飲むと不思議と美味しく感じる。わたしは改めて相澤先生に向き直る。

「お付き合いしてくれてありがとうございます」
「いえいえ。ビール、奢ってもらっちゃってありがとうございます。結構買いましたけど、食べ切れるんですか」
「本当ですよね。多分、明日の朝も食べることになりそうです。よかったら唐揚げ、つまみませんか」
「いいんですか」
「勿論です」

 今相澤先生の両手は、ビールとわたしの夕飯たちが入ったビニール袋で埋まっているため自由に使うことができない。わたしは相澤先生が持ってくれているビニール袋の中、一番上にある紙コップに入った唐揚げの刺さった爪楊枝を取ると、それを相澤先生の口に持っていった。最初は戸惑ったようだけど、口を開いて唐揚げを食べてくれた。まるで大きな黒猫に餌付けしているみたいだ。

「ん……美味いです。ビールに合う。ありがとうございます」
「おお、よかったです。もう一個いかがですか」
「いいんですか」
「はい、どうぞ」

 もう一つ、唐揚げに爪楊枝を刺してそれを相澤先生の口元に持っていけば、相澤先生はもぐもぐと咀嚼して、それを流し込むようにビールを飲んだ。大きく嚥下する喉仏に、わたしの視線は縫い付けられたように釘付けになった。

「……なんかついてますか」

 相澤先生が首を傾げている。やばい、視線に気づかれた。そう考えたら途端に体が熱くなって、ぶわっと汗ばむ。ただでさえ暑い夏の夜だから、多分今のわたしは、屋台で売っているりんご飴みたいに赤みを帯びているに違いない。夜だから気づかれなくて良かった。

「いえ、なにも。すみません」

 苦し紛れに手で仰いでみても、一向に涼しくならないどころか、汗は止まらない。手で仰ぐのを諦めてハンカチで首筋の汗を拭っていると、頬に何か冷たいものが触れた。

「ひゃっ」

 反射的に変な悲鳴を上げたところで、その正体に気づく。それはビールのカップで、相澤先生がわたしの頬にピトッとくっつけていた。

「可愛い悲鳴」

 相澤先生はふっと微笑むと、ビールのカップを離した。水滴が頬について、涼しい。わたし、相澤先生に可愛いって言われたの? いや、悲鳴がね。ていうか可愛い悲鳴ってなに、どこが。もうよく分からない。よく分からないから、飲んでしまえ。ということで、ビールを一気に飲み干せば、「いい飲みっぷりですね」と相澤先生が言って、それに倣うように相澤先生もビールを飲み干した。なんだか先ほどから相澤先生に心が乱されてばかりだ。早く帰ってご飯食べてお風呂入って寝よう、そうしよう。

「そ、そろそろ行きましょうか」

 わたしは相澤先生から空のカップを貰い、二つのカップを重ねて持つと、駅の方まで歩き出す。早足で歩き出したせいか、運の悪いことに、神社の石畳の隙間にヒールが持っていかれて、ぐらりと体勢を崩す。転ぶほどではなく、ただ膝が折れてカクンとなるという情けない格好になっただけだったのだが、相澤先生はすかさずわたしの腕を取った。

「……っと、大丈夫ですか」
「す、すみません。大丈夫です」

 とんでもない醜態を晒してしまった。恥ずかしくて顔から火を吹きそうだ。

「もしかして少し酔ってます? 嫌でなければ俺の腕、掴んでください」
「そんな、大丈夫ですよ……」
「大丈夫じゃないでしょう。ほら、掴まって」
「……すみません、ありがとうございます」

 別に酔っているわけではない(と思う)が、差し出された腕を無碍にもできず、わたしは相澤先生の腕に掴まって歩き出した。服越しにもわかる、しなやかな筋肉。その固さから“男”を感じて、ますますわたしは熱くなる。
 石畳の道を抜けても、わたしたちは繋がったまま歩いた。なんとなく離れるタイミングを逃してしまったというのもあるし、人が多くてはぐれそうだったというのもあるし、離したら最後、もう二度とこの腕に触れることはないのだと思ったら、離れがたかった、というのもある。
 学校からの道のりとは打って変わって、わたしたちはなにも喋らなかった。だというのに、今の方がより一層相澤先生を近くに感じるのはなぜだろう。このままでは沈黙の海の心地よさに引き込まれてしまいそうで、わたしは「あの」と息継ぎするように口火を切った。

「生徒に見られてしまったらごめんなさい」

 相澤先生を見上げて、ずっと気になってたことを謝れば、相澤先生もちらりと視線を寄越した。

「なぜですか」
「変な噂、立ってしまうかもですし……」
「あー………」

 相澤先生が言い淀む。だから、「それもそうですね、離れて歩きましょうか」と言われると思った。ずん、と胸が重く沈んでいく。自分から水を向けておいてなぜ凹んでいるのだろう。さっきからずっと、変だ。

「別に俺は構いませんよ」

 途端に跳ね上がった心は、沈んでいたからこそより一層高く跳ねた。どういう意味で相澤先生は言っているのだろう。俺は構わない、なんて言われたら変に勘違いしてしまいそうになる。わたしはなんて返せばいいのだろう。分からない。相澤先生はそれ以上なにも言わないし、わたしから何かを聞くようなこともしなかった。

「そうですか」

 だからわたしはそれだけ言って、相澤先生のことを掴む腕の力を一層強くした。はぐれないように、迷わないように。
 そうして駅に辿り着き、わたしは相澤先生からビニール袋を受け取ると改めて感謝を述べた。

「今日はありがとうございました。また来週、学校で」
「こちらこそ。あ、最後にすみません、一ついいですか」

 そう言って相澤先生はポケットから何かを取り出した。それはスマホだった。

「連絡先、聞いてもいいですか」
「あ、え、はい」
「心配なので、帰宅したら連絡をください。それから万が一、帰り道で何かあったら迷わず連絡してください」
「あ……ありがとうございます」

 連絡先を交換して、わたしは改札を通った。少し歩いて振り返ったら、相澤先生はまだそこにいて、わたしをじっと見守ってくれていた。会釈して、小さく手を振れば、相澤先生も会釈をしてくれた。
 それが、去年の出来事だ。

+++ 

「なんだよ、人の顔をじっと見て」
「え? ふふ、まさか今年も同じお祭りに来れると思わなくてさ」

 そういってはにかむ彼女は、去年は仕事帰りのブラウスとパンツスーツだったが、今年は彼女の肌の色によく合う浴衣を着ている。
 と、我ながら去年の服装まで覚えていることに寒気を覚えつつ、俺は無意識にあの日の記憶をなぞっていた。
 俺があの日、どんな気持ちでお祭りに誘ったか、連絡先を聞いたか知らないだろう。知らなくていい。休日の校舎で彼女を見かけたことがすべての始まり。いや、始まりを語るのならば、彼女と初めて出会った瞬間か。
 同じお祭に同じ人間。だけど関係性だけはあの時と違う。
 それにしても、着慣れない浴衣は股がスースーして気持ち悪い。どうしても着て欲しいと頼まれたから渋々着たが、言うほど似合ってるか? それでも彼女が喜んでくれるなら、俺は来年も再来年も文句を言いながらも着るのだろう。

「消太くん、唐揚げ食べる?」
「うん。ちょうだい」
「固形物食べないのに、お祭りの唐揚げは食べるんだね」

 別にお祭りの唐揚げだから食べたわけじゃないけどな。まあ、そういうことにしておくか。
 別に両手は塞がっていないが、口を開けて唐揚げを待っていると、彼女は「しょうがないなあ」と笑って、唐揚げを食べさせてくれた。

「美味しいよ、ありがとう」
「どういたしまして」
「去年さ、わたしが、生徒に見つかって変な噂流れるかもって言ったの覚えてる? 消太くん、別に構わないって言ってくれたの」
「あー、覚えてるよ」

 なんなら噂流れればいいって思ったしな。

「わたし、あの時からずっとその言葉が離れなくて。気づいたら消太くんのことばっか考えるようになってた」

 だとしたらなんと好都合なのだろう。まるで遅効性の毒のように彼女を蝕み、俺の願いが叶ったというわけだ。

「あのときお祭りに誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ。一緒に行ってくれてありがとうね」
「いろんな偶然に感謝だよ」

 偶然だと思ってるもののほとんどが意図的なわけだけれど。そんなことは勿論言わず、俺は「そうだな」と彼女の頭を撫でて、「浴衣、似合ってるよ」と話を逸らしたのだった。

2025-09-13