現代人トリップ主
ギンコに拾われて旅についていくようになってから暫く経つ。ここがわたしが元いた場所よりも昔であることは文化のレベルからしてわかるものの、同じ世界かどうかは確証を持てずにいた。なぜならば、わたしの知る限り虫という漢字を三つ書く蟲という存在も、蟲師という職業も知らなかったからだ。調べようにもスマホは圏外。カメラ機能くらいしか使えなくなってしまったので、電源を切ってポケットにしまってある。
気がついたら深い森の中にいて、最初は何事かと歩き回ったりもしたものの、日が暮れていくにつれて次第に心細くなって、泣いて泣いて涙も枯れ果てて、殆ど気絶するように木に身体を預けていたところ、声をかけて助けてくれたのがギンコだった。
ギンコは綺麗な白髪で瞳は緑という、どこか浮世離れしたような出立ちだった。彼を照らし出す月明かりがまた、それを助長していたのを覚えている。
『おい、大丈夫か?』
そして彼のことがわたしを救ってくれる神様のように見えた。
彼の言葉を聞いた瞬間、わたしは蛇口が全開になり、涙がとんでもない勢いで溢れ出て、赤子のように泣いた。
そして、怖かったとか、ここどことか、お腹すいたとか、あんた誰とか、取り留めのないことを言葉にならない言葉でもってギンコにわんわん泣き喚きながらぶつけては、ギンコはそれに応えるように頭を撫でてくれた。犬を撫でる時のような粗っぽくて、でもどこか優しい手つきだった。大きな手に撫でられて深い安心に包まれたことを覚えている。
行く当てもなく帰る場所もなく、生きる術すら持たないわたしを憐んでくれたのか、ギンコの旅にわたしを連れて行ってくれることになった。というより、わがまま言って連れてってもらっていると言った方が正しいか。
最初は、わたしがいた森の近くにある集落まで辿り着くと、そこで世話になれといった。しかし、わたしは猛烈に拒否したのだ。今思うと世話になってる分際で全く生意気な話である。
『やだやだやだ! ギンコと一緒にいく!』
『駄々っ子やめなさい。あといい大人が地団駄踏むんじゃねえよ』
でも怖かったのだ。見知らぬ土地で見知らぬ人と暮らすことも、そこで生きていくことも。
だからわたしはとにかく頭をフル回転させて言い訳を並べ立てた。
『旅してるうちに何か帰れる方法わかるかもしれないし!』
『男一人旅より女と一緒の方が見栄えいいし!!』
『物売る時客引きやるし!!!』
『とにかくギンコと一緒にいたいの!!!!』
わたしの言葉を聞いているうちに、だんだんとギンコも諦めてきて、そして面倒くさくなってきたのだろう。顔がそう言っていた。
『……わかったよ。甘やかさねえから自分のことは自分でやれよ。それに、危険な目に遭うかもしれないから、覚悟しとけよ』
『はーい!』
この時の自分の調子のいい返事に、ギンコがますます渋い顔をしたのはいうまでもない。
その時点でギンコと長い時間を共有したわけではないが、雛鳥が初めて見た対象について回るように、わたしはギンコと一緒にいたかったのだ。
彼は取り立てて飾らないが、優しくて、基本的にはお節介焼きだ。厄介ごとに自ら首を突っ込んでいくタイプである。それに、女だから優しくするとか、そういう下心を感じない。だからだろうか、ひととして安心する、そんな存在だった。勿論、他に頼れる人がいないという状況もあって補正がかかっているのかもしれないが、それでも自分の直感を信じていた。
旅をしていくうちに、いろいろな話をした。
ギンコは蟲師という専門的な仕事をしているらしい。蟲というのはわたしには見えないが、確かにこの世界には存在している。見える人間と見えない人間がいるらしいが、わたしは後者というだけで、そう珍しいことではないし、むしろ大半が見えないのだという。ギンコは蟲を引き寄せる体質らしく、それはあまりいいことではないらしい。だから定住することなく、蟲が関連しそうな奇妙な噂を聞いてはフラフラと全国津々浦々歩き回っているのだという。それに対してわたしは、蟲から避けられているようなところが見受けられるらしい。といっても、近づけば蜘蛛の子が散るような話ではなく、例えば人間が二人いたとして、どちらかに寄生するとしたら、わたしは絶対に選ばれない、というくらいの話らしい。よくわからないけれど、わたしはここではない世界から来たわけだから、わたしの体を組成しているものがこの世界の理とは違うのかもしれない。だから異端として認識され、忌避されているのだろうか。
ギンコの蟲に対する知識は豊富だ。その口から語られる話はいつだって新鮮で、珍しくて、不可思議だ。ギンコは蟲のことを奇妙な隣人と称するが、ふとわたし自身も同じようなものではないかと思ったが、それは自身の中に留めた。
そして彼のいうとおり、危険な目にも遭った。その度ギンコに助けてもらったのは言うまでもない。
化野という医師を紹介してくれたのは、磯の香りが濃い漁村に立ち寄った時だった。なんでも、珍しいものが好きな珍品コレクターらしく、ギンコが路銀を稼ぐため、手に入れた珍品を売りにいっているのだ。
「お前さん自体が珍品だからな、気に入られるだろうな」
「珍品いうな」
誰が珍品だ、という目でギンコを睨め付けるが、ギンコは蟲煙草をふかして口の端で笑うだけだ。
だが、言い得て妙というか。確かにわたしは珍品そのものだと思った。この世界ではないどこかからやってきた生きる珍品だ。信じるか信じないかは別として、だが。もっと色々持っていればよかったのだが、わたしが持っているのは生憎スマホくらいなので、残念ながらたらればの話だ。せめて充電器があって、色々と調べられれば何かとお役に立てたかもしれないが。あ、そもそもコンセントがなければ電波もない。早々に詰んでしまった。
化野先生に異世界の人間だという証左のためにスマホを見せたのだが、案の定、大層驚いていた。そりゃ驚かれるとは思っていたけど、想像を超えて驚いてくれたので、なんだか面白かった。カメラで化野とギンコのツーショットを撮って見せたら悲鳴とも歓声ともつかない声を上げた。
「言い値で買う!」
と化野先生は頭を下げたが、わたしはスマホを売る気にはなれなかった。わたしのいた世界との繋がりがまるで消えてしまうような気がしてすこし怖かったのだ。とても口惜しそうな顔をしていたが、仕方がない。
その出来事から少し後のこと、ギンコは蟲煙草の煙を燻らせながら唐突に言った。
「お前さんには住む家が必要だ」
家、か。それがあるに越したことはない。元いた世界に戻る方法もわからないし、野宿は大変なことだらけだし、風呂なんてほとんど入れない。運良く川に辿り着いたらそこで身体を拭くくらいの話だ。目が覚めたら目の前に名前もわからない虫が居て悲鳴を上げながら起きることもままある。
でも家があったとして、一人で生きていける自信もなければ、ギンコから離れて生きていく自信もなかった。それくらいギンコの存在が深く根付いていた。
「ギンコも一緒?」
分かっていて尋ねる。当然のようにギンコはかぶりを振った。
「いんや。分かってんだろ、俺は蟲を引き寄せる体質なんだ。同じ場所にはいられんよ」
「じゃあやだ」
「あのなあ」
ギンコは呆れたようにいうが、わたしだって嫌なものは嫌だ。唇をかみしめてギンコを睨め上げる。
「今回ばかりは駄目だ。お前を巻き込んで万が一何かあったらどうする」
「どうもこうもないよ。今までだって何度もあったし。それに、わたしがどうなったって、悲しむ人なんていないんだから」
捻くれるわけでなく、ただ事実としてわたしは告げたのだが、思ったより虚しい響きを持ってしまったことは否めない。
「……いるだろうが」
それきりギンコは何も言わなかった。
ギンコはわたしに話をした時点より前に化野先生に話をつけていたらしく、あれよあれよという間に話は進んでいった。わたしはもちろん嫌だと言ったが、ギンコは本気でわたしを置いていく気なのだとわかっていたので、わたしも何も言えなくなった。何を言ったって無駄なのだと悟っているのに、悪あがきするのはとても虚しい。
そしてわたしは化野先生の家の近くにある化野家所有の空き家に住むことになり、そこで化野先生の手伝いをすることになった。手伝いといっても医術の心得なんてないので、帳簿や備品の管理だとか、そういった事務作業がメインだ。その傍ら、わたしの世界のことを聞かせてほしいと言われた。それを言われた瞬間、寧ろそっちがメインだと察した。
そしてとうとうお別れの日が訪れた。一人で住むには大きすぎるくらいの家には生活に必要なものは一通り揃揃えてもらった。そろそろ行く、というギンコを引き留めたくて、わたしは膝小僧を抱いて最後の悪あがきをしていた。
「ギンコ、わたし火の起こし方分かんない」
「さっき教えただろうが」
「できない……ギンコがしてくれなきゃできない」
「あのなぁ」
わたしの言っていることがただの引き止めるための言葉だというのは、多分ギンコも分かっていた。
ギンコはわたしの前に胡座をかいて座った。もうこの人と別れの時が来るのだと考えたら、途端に胸の中で様々な感情が膨れ上がり、苦しくなった。
だって今日からはこの家で一人で眠って、起きても一人で、その次の日も一人で、ギンコの姿はどこを探してもいない。そんな砂を噛むような日々を過ごしていくしかないのだ。
「やだ、やだ」
抑えられないわたしの気持ちが透明の雫となって溢れ出ていく。
「ひとところにはいられないんだ」
顔を上げれば、困ったような瞳とかち合った。こんな顔をさせたいわけじゃないのだが、こんな顔しかさせられない自分が歯痒かった。
「こんなにお願いしてるのに?」
「こればっかりは聞けない願いだ」
「いかないでよ! ばかばかばか!」
殊勝な態度を引っ込めて、わたしはギンコを罵る。こんなやりとりだって、もうできないのだ。
「ひでぇな。ばかって三回も言いやがった」
「そばにいてよ……ギンコはわたしの居場所なんだよ……」
居場所、という言葉を聞いた瞬間、普段の表情の乏しいギンコの顔が僅かに驚きを湛えていた。
「居場所、か」
まるで自分に言うみたいにギンコは呟きを落として、蟲煙草に火をつけて煙を燻らせる。これ以上の応酬を封じられたような気がした。ふと障子を見れば、いつの間にやら夜の気配が濃くなっている。
「……せめて今日は一緒にいてよ」
ギンコも障子に目をやり、辺りが暗くなっていることに気づいて、「ああ」と頷いた。
「そうだな、今日はもう遅いから明日出立する」
「うん」
上擦った声で返事をして何度も頷いた。それから二人でご飯を食べて、酒を飲んで、火を起こしてお風呂にも入った。それだけ切り取れば、これから一緒に暮らすみたいなのに、これはギンコと一緒に過ごす最後の晩なのだ。だから一緒に何かをするたびに、わたしは心の中でお別れを言った。そうして少しずつ自分の中で折り合いをつけていく。
風呂から上がったわたし達は化野先生に新居祝いという名目で買ってもらった着物に身を包んでいて、見慣れない姿に気恥ずかしさすら感じた。
「似合う?」
四苦八苦の末なんとか形になった着物を見せびらかすように裾を掴んで両手を広げて尋ねる。
「いいんじゃねぇの」
と、ギンコは極めてフラットな声色で言った。だが、似合ってない時は似合ってないって言われるから、きっと本心で思ってくれているのだと思おう。ギンコに褒められた、そう思うと自然と口角が上がった。
「ギンコもすごく似合ってるよ、かっこいい」
彼の肌に映える濃鼠色の着物も、そこから覗く浮き出た鎖骨も、外を歩き回ってるくせしてやたらと透き通った白い肌も、全部全部綺麗で、この着物はまるでギンコのために神様が誂えたんじゃないかと錯覚するほどだった。
「そりゃどーも」
ギンコは首をガシガシと掻いてポツリと言った。褒められ慣れてないギンコは、褒められると居心地悪そうにする。だからわたしはできる限りギンコの素敵なところを褒め続けた。でももう、こうやってギンコのことを褒めることもできなくなってしまう。これから先誰がこの寂しい人を褒めるの? そう考えた瞬間、そのうなじが、その腕が、その指が、―――ギンコを形成する全てがわたしは愛おしくなった。
気がつけばわたしは吸い寄せられるようにギンコに抱きついていた。回した手がギンコの大きくて逞しい背中に触れて、胸が熱くなる。初めてこんなに間近で感じて、わたしは心音が高鳴るのを感じた。
「ね、どうしても置いていくの」
「……お前も諦めないね。だめだっつの」
「じゃあ、思い出をちょうだい」
身体を離してギンコを見上げる。わたしの言葉を咀嚼した結果、どう捉えていいのか迷っているようだった。
「次会う時まで忘れられないくらいの思い出、ちょうだい」
そういってわたしは精一杯背伸びしてギンコの首の後ろに手を回して顔を引き寄せると、ギンコの唇に自分の唇を押し当てた。
ギンコは拒絶するわけでもなくただ受け入れて、そして観念したようにわたしの背中に手を回すと、少し顔の角度を変えてより一層深いものにした。
顔を離せば、蝋燭に照らし出されたギンコの顔が戸惑いを浮かべていた。
「お前、自分が何言ってるのか分かってんのか」
声の色は咎めるわけでもなく、ただただわたしの言葉の意図を確認しているようだった。
分かってるよ、だってギンコと確かに一緒にいたってこと、からだに刻みつけて欲しいんだ。その痛みと記憶でわたしは生きていけるから。
「うん」
短く肯定すれば、今度はギンコから唇を押し付けた。そしてわたしは布団の上に座らせられ、頭をギンコの大きな手で抱えられながら優しく押し倒されて、ギンコはわたしの上に馬乗りになった。わたしの視界はギンコでいっぱいになる。初めて見る角度からの眺めと緊張から、わたしの心臓がものすごい速さで動く。翠色の右瞳と、普段は前髪で隠れている、左目に穿たれた闇。吸い込まれてしまいそうだ。隙間風に蝋燭の火がゆらめいて、それが合図みたいにギンコは再びキスをして、わたしの着物の間に手を伸ばした。
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「なんでおいていこうと思ったの」
裸同士、布団をかけて並んで蟲煙草をくゆらせていたギンコは、その紫煙の行方を見つめたまま呟くように言った。
「……怖いと思ったからだ。俺のせいで危険な目に遭うかもしれないと思ったら、安全なところで幸せに暮らして欲しいと思った」
どうしてその幸せな暮らしとやらはギンコの隣じゃないのだろうか。それがただただ悲しかった。
「最初、自業自得って言ってたじゃん。なんで今更」
「最初はそう思っていた。でも段々とそう思うようになってた」
枕の上に置いていた屑入れに手を伸ばし、吸い終わった蟲煙草を捨てながらギンコは言うので、わたしは追撃する。
「なんで」
「……お前な、どんだけ鈍感なんだ。察しろ」
横向きに寝転がり、向かい合うような体制になったギンコはどこか照れくさそうで、それがわたしにも伝播して身体が熱くなった。
「分かんないもん、ギンコの言葉で説明してよ」
本当は少し気付きかけていた。だってギンコが初めて見る表情をしたから。でも勘違いかもしれないし、本当のところはギンコのみぞが知っている。
するとギンコの腕が伸びてきて、抱き寄せられた。裸同士で隙間なく触れ合えば、そこで生まれた熱は燃え盛る炎のように熱い。まるでわたしの全てを抱きしめてくれたみたいで、不覚にも泣きそうになる。
ギンコはわたしの頭に顎を乗せて、静かに言った。
「お前さんを好いてしまったからだ」
その言葉が耳をくすぐった瞬間、心臓が深く脈打った。脈打つごとに好きという言葉が身体の中を巡って、頭のてっぺんから爪先までどうしようもないくらいの多幸感で満たされていく。
「だからこそ、安心できる場所にいて欲しいんだよ。分かってくれ。これは俺の我儘だ」
そんなこと言われてしまっては、わたしはもう何も言えなくなる。ギンコはずるくて、優しい。でも、どうしてもこれだけは伝えたいから、わたしはギンコから少し身体を離すと、じっとギンコを見た。今更ながらこんなに顔が近いのは気恥ずかしい。もっと恥ずかしいことをした後だと言うのに、おかしな話だ。
「ギンコ、ありがとう。でもこれだけは覚えてて欲しいの。わたしはギンコの隣にいる時が一番幸せだよ。でも、ギンコがそういうなら我儘言わない、ギンコのこと困らせたくないし」
「へえ。よくいうよ、いつも俺のこと困らせるくせに」
「うるさいなあ」
揶揄うようにギンコが口の端を持ち上げたので、わたしはむっと眉を寄せる。いつも通りのギンコの表情なのに、わたしはどうしようもなくドキドキしてしまう。そういう魔法にかけられたみたいだ。
「ねえ、ギンコに好きって言われてから心臓がドキドキして止まらないんだけど、蟲のせいかな」
「そいつは蟲のせいですな……って、んなわけあるか」
わたしは笑って、ギンコは「何言わせんだよ」といつもの白い目だ。
「じゃあ誰のせい」
「多分、俺のせいだな」
「わたし、ギンコが好きだよ」
真っ直ぐにギンコに放った言葉を受けて、ギンコは面食らったような顔になる。わたしの気持ちを伝えるのは今しかないと思ったから、もっとギンコに伝えたくて、知って欲しくて、わたしは言葉を重ねる。
「好き、大好き。だからずっとここでギンコとの思い出と一緒に生きていく」
「……お前な、不意打ちは狡いだろ」
そう言ってギンコは視線を移ろわせると、わたしに背中を向けた。わたしはギンコの大きな背中にぴとりと隙間なく寄り添った。ずっとこうしていられたらいいのに。同じ家で過ごして、同じ釜の飯を食べて、夜になったらお互いの気持ちを見せ合うように裸になって抱き合う。そんな、人によっては当たり前の日常ですら、ギンコには許されない。
ギンコの腰に手を置けば、ギンコの手がわたしの手を取って、それを足の間に持っていった。
いつの間にやら再び熱く硬く膨らんだそれがわたしの手にふれて、心臓が飛び跳ねる。
「責任取れよな」
「……うん。ずっと、ずっとしよ」
ギンコはくるりとわたしに向き直ると、わたしの首に顔を埋めた。ギンコの髪が素肌に触れてくすぐったいと思ったのも束の間、ギンコの唇が首筋に当てられて、微弱な痛みが走った。ギンコは顔を離して、妖艶に微笑んで、今度はわたしの唇にキスを落とした。
ねえギンコ、朝が迎えに来るまででいいから、どうかこの一夜限りのまぼろしを抱きしめさせて。
そうしてわたしたちは二人、浅き夢の中をたゆたう。
◆◆◆
この家で暮らし始めて、一つ季節が移ろった。慣れない世界での暮らしは大変なことも多いが、なんとか周りの助けを借りながら生きている。
夕日が照らす海岸沿いを散歩していると、冷たい風が吹き抜けて思わず身体を摩る。風の匂いは冬のそれで、ここの土地は雪は降るのだろうか、と思案する。明日にでも化野先生に聞いてみよう。
吐き出した息が白くて、その白を見ていたら不意にギンコのことを思い出した。すると何かの発作みたいに無性に会いたくなった。
わたしはスマホの電源を入れて、前に撮ったギンコと化野先生のツーショットを見る。ああ、ギンコだ。そう思うと胸が温かくなって自然と微笑んでいた。
元気かなあ、声聞きたいなあ。手紙のやり取りはたまにしているけど、やっぱり恋しい。そんな時は、ギンコの写真を見たり、あの日の“思い出”を目一杯抱きしめてその寂しさを埋めていく。
「相変わらずすげぇなそれ」
……幻聴だろうか。波の音の合間を縫うようにして、ギンコの声が後ろから聞こえてきた気がする。ギンコに会いたいという気持ちが引き起こした都合のいい勘違い。
けれども一縷の可能性に賭けて、ゆっくりとわたしは首だけ振り返る。
「よぉ」
藍色の外套に、雪よりも白い髪。口に咥えた蟲煙草は海沿いの風に煽られて霧散している。気が付けば突進するようにギンコに抱きついていた。彼はそんなわたしを軽く受け止めて、頭をわしゃわしゃと撫でた。小動物にするような粗いけれど優しいその手つきがひどく懐かしい。
「もう会えないと思ってた……!」
「また会いにくるって言ったろ」
「おかえり、ギンコ。おかえり……!」
抱きついたギンコは、蟲煙草の匂いと、外の匂いと、ギンコ自身の匂いがした。底抜けに安心できて、大好きな匂いに包まれて、鼻の奥がつんとなる。
「おかえり、ね。……ただいま」
顔を上げれば、ギンコは翠色の瞳を細めている。おかえりと、ただいま。何気ない言葉だけど、それは帰ってくる場所を意味する言葉だ。ギンコの発した「ただいま」は、わたしにとっては大きな意味を持っていて、瞳孔が開くのを感じる。
「帰ってきてくれたってこと?」
声が震えるのを感じながらもそう問えば、ギンコは「ああ」と首肯した。
「お前は俺の居場所なんだろ」
「うん……そうだよ」
そう言って笑顔になると、悲しくもないのにわたしの目から大粒の雫がこぼれ落ちた。海みたいにしょっぱい、わたしの血液から作られた透明な雫。それをギンコは指先で掬い上げて、微笑んだ。
「はぐれもん同士、仲良くやるか」
大きな空白を持ち、蟲を引きつけるあなたと、全然違う世界からきた異分子で、蟲から避けられるわたし。
「そうだね、はぐれもん同士、絶対にお似合いだよねわたしたち」
「自分で言うかね」
呆れたように言うギンコに対して、えへへ、と笑えば、ギンコは再び頭をわしゃわしゃと撫でる。
「まあ、長くはいられんがな、これからもまたこうやって戻ってくるよ」
「うん。うん。そのときはまた、忘れられない思い出、残してくれる?」
わたしの瞳は多分、相当期待に染まっているに違いない。
「お前ね……こんな場所でさらっと大胆なことを言うかね」
「変なことなんて言ってないよ、ただ思い出っていっただけだもん。さ、帰ろう。それとも化野先生のところ行く?」
ギンコの腕にぎゅうと抱きついて、家へと引っ張っていく。
「ん。明日行くよ。それより腹減った」
「料理の腕が上がったところ見せてあげるよ」
「ほー。お手並み拝見と行こうか」
浅き夢見しわたしたちは、いつの日かそれが永遠となることを願い、確かな輪郭を持った夢まぼろしに再びたゆたう。
