検証:惚れ薬について

 梢が風に揺れて木々が騒めく。地面に落ちた木陰も一緒になって揺れている。半袖から伸びた腕には、木陰が模様みたいに影を落としていて、それをぼうっと見ていると段々と瞼が重くなってきた。
 夏の日の木陰は涼しくて、風が吹き抜ければ汗が冷えてより涼しく感じる。瞼の重さに耐えかねて目を閉じれば、風の音と梢の揺れる音がより一層鮮明に聞こえてきて、まるで身体が山に溶け込んでしまったように思えた。

「おい客引き。さぼるんじゃねえよ」

 そこに声が聞こえてきてぱちっと目を開けば、少し先の通り沿いで胡座をかいていたギンコが頭だけ振り返ってじとっと名前のことを見ている。

「さぼってないよ」
「俺が見た時ばっちり目ェ瞑ってたけどな」
「まさかぁ」

 目を閉じてほんの僅かな時間しか経っていないのに目敏く指摘するなんて、ギンコは背中に目でもついてるのか……と恐れ慄きながらも、ギンコの言うことは図星そのものだ。立ち上がり、ぐぐっと伸びをしてギンコの隣に立ち、目の前に広がる左右に伸びた道を見渡す。しかし相も変わらず残念ながら人っ子一人見当たらない。客引きの出番はなさそうだ。ギンコの隣に座ろうとしたが、若干木陰から出ていて暑いため、結局はギンコの後ろに立った。
 眼下にはギンコの色素の抜けた白い髪の毛と、つむじがある。ギンコの方が背が高いため普段あまり拝むことができないつむじは、稀少性も相まってなんだかとてつもなく可愛らしく見えた。人のつむじに対してそんな感情を抱くのは初めてだったが、それだけ暇を持て余しているということだろう。つむじだけでなく、髪の分け目もだんだんと愛おしく見えてきた。
 このままギンコの頭を見ていたら、そのうちつむじを人差し指で突いてしまいそうで、名前は無理やり話題を捻り出す。

「今日売れなかったら夜ご飯は野草?」
「そうなるな」

 前を向いたままギンコが呟く。名前は堪らず苦い顔になる。ギンコの目利きで食べられる野草を見つけて食べるわけだが、食べられると言うだけで美味しいわけではない。独特の臭みやえぐみがあるし、できれば御免被りたいところだ。先ほどまで昼寝をしようとしていた名前だが、焦燥感がむくむくと芽生える。
 場所を変えようと提案しようとしたその時だった。通りの先からお金を持っていそうな恰幅のいい頭の禿げた男と、その従者だろうか、二人組が歩いてきた。名前は、商機がきた! と心の中で小躍りをしつつ、その二人組が近づいてくるのを待つ。
 そうして二人組がとうとう声をかけられるくらいの近さまでやってきて、ギンコの露店に目をやった瞬間、名前はすっと前に出た。

「こんにちは」

 と目一杯愛想のいい顔で挨拶をする。すると二人は足を止めて、会釈をした。よし、いい感触だ。

「お兄さん、何かご入用ではないですか」
「ん、何があるのだね」

 名前を見る目がすけべ親父のそれで、思わず顔を顰めたくなったものだが、ここで台無しになったらギンコに何を言われるかわからない。名前はそのまましゃがみ込んでおすすめを手で示して男を見上げる。おすすめとは即ち、桐箱の上に乗った三日月型に切られた爪のかけらだ。

「これなんてどうでしょう。人魚の爪なんですけど、煎じて飲めば惚れ薬なんです。まあでもお兄さんには必要ないかもしれませんね」

 煽てれば男は目に見えて気を良くした。

「ほう、惚れ薬。そうしたらこれをお嬢ちゃんに飲ませたら、惚れられてしまうかもなあ」
「そうですね。ははは」

 思わず、日照りが続いて干からびた田んぼみたいな渇き具合の笑いが名前の口から出たので、少々焦る。しかし男はその渇き具合に気づいていないようで、気をよくしたままだ。

「で、いくらなんだい」

 これはいい感触だ! と手応えを感じつつ、ここから先の価格交渉はギンコの出番だ。ギンコがだいぶ吹っ掛けた金額を伝えると、なんとそれであっさり交渉成立となった。これには名前も内心で驚く。男はお金をギンコに差し出した。

「それじゃあお嬢―――」
「はい、毎度」

 ギンコはお金を受け取ると、男の言葉を遮りひとつ摘んだ人魚の爪を男に渡して、さっさと風呂敷を畳みだした。あれよあれよと言う間に荷物はまとまり、「ほら行くぞ」と言ってスタスタと歩き出した。

「ありがとうございました」

 ポカンとしている男に礼を言うと、名前も慌てて後を追いかける。だいぶ遠ざかったところで蟲煙草をふかしたギンコに斜め後ろから「どうしたの?」と問いかける。

「ん、何が」
「もっと買ってくれそうだったのに、良かったの?」
「いいんだよ。いい値段で売れたしな」

 確かに、当面は食べていけそうな金額で売れたわけだが、それならもっと色々吹っ掛ければいいものを。なんとなく釈然としなかったが、食い下がるほどではないので、「そっか」と相槌を打ってこの話は終わった。

 太陽が少しずつ沈んでいき、世界は橙色で形どられていく。夕方には街道沿いの宿場町にたどり着いた。
 二人は人魚の爪のお陰で路銀に潤いが生まれたので、久々に宿に泊まることになった。もちろん二人で一部屋である。そして年頃の男女二人で宿に泊まるとなれば当然のように布団は二組並んで敷かれている。最初こそ衝立を立てて間仕切りをしていたが、今ではそれも面倒で普通に並んで寝ている。ギンコは絶対にそういう疾しい気持ちを抱かないだろうし、寧ろそういうことに興味がない節まである。それは好都合だが、一方で物悲しい思いに駆られる時もある。即ち、女としての魅力がないのだろうか、と。だがそう思うたびに、お門違いなことを考えているのだと自分を戒める。そんなギンコだからこそ一緒にいたいと思ったというのに。
 最終的には瞼を閉じて、このなんとも不毛な感情の機微を遮断し、全く別のことを考えるのだ。そうすればだんだんとどうでも良くなってくる。

+++

 ギンコは案内された部屋の縁側で一服しながら、室内にいる名前の様子を見た。背負っていた荷物を部屋の隅に置いてそのそばに座ると、目を閉じて自分で自分の足を揉みほぐしながら、「どうしよっかなー」と独り言を呟いている。
 また独り言言ってらぁ、と口の端が持ち上がるのを感じるが、自分も気がつけば独り言を言っているタチではあるので、人のことは言えない。一人旅が長いとなかなかどうして、一人で喋ってしまう。
 名前が何をどうしようか考えているのかは定かではないが、それにしても同じ部屋にもう一人いる状態になんの違和感もないことに改めて驚く。二人旅というのも、随分と慣れたものだ。
 短い間、同じ目的の為に行動を共にするものはいたが、ずっと一緒に旅をしているというのはこの女だけである。最初こそ異性だし、なんなら違う世界からきたとか頭のおかしいことを言っているし、何かと気を揉んだものだが、恐らく感性に近いところがあるのだと思う。だから不思議と名前は馴染んでいった。
 例えば蟲。ギンコはできるならばヒトと蟲が共に生きていける道を探している。それぞれがその生を全うしているのだから、それが重なって何か悪いことが起きない限りは干渉せずそれぞれの生を全うしたいと思う。蟲とは屠るべきものと考えるものが多い蟲師の界隈では異端であるという認識はもちろんある。名前は蟲は見えないが、目には見えないが確かに存在しているものとして認識していて、『もしその蟲がさ、死んだわたしのご先祖様だったらアレだしね』なんて言う。アレってなんだよ漠然としてるな、と言う話だが、なんとなく言いたいことは分かった。
 紫煙が燻り、夜空に溶けていくのを眺めながら、ギンコはふと思った。この癖の強い蟲煙草だって最初は蟲除けのために吸っていたが、今ではなんとなく吸うのが癖になっているし、吸っていないと落ち着かないのだ。
 なんとなく、似ていると思った。だからなんだと言う話だが。

+++

 風呂に入って旅の汚れと疲れを洗い流し、美味しいご飯に舌鼓を打ち、晩酌をする。なんと幸せな時間だろうか。名前はお猪口に入った酒をぐいと飲むと、うっとり息をついた。
 これも人魚の爪がとんでもない金額で売れたおかげだ。だが名前は実のところ、あの人魚の爪のことを信じているわけではなかった。本当はギンコの爪なんだと言われても、やっぱりか、と納得してしまうくらいには疑っている。
 詐欺の片棒を担いでいるのでは、とモヤモヤするのは嫌なので、手酌をして序でにギンコのお猪口にも注ぎながら尋ねる。

「ねえ今日売れたあの人魚の爪さ」
「ん」

 短く相槌を打ってギンコは、その顔にほんのり幸せな色を滲ませながら、ぐいとお猪口を一飲みした。ふとお猪口を持つ、短く切り揃えられた爪が目についた。いつ見たって短くて清潔なこの丸っこい爪が名前は好きだ。どんだけ力を込めても爪痕が一つもつかなそうなその爪は、彼の優しさを表しているような気がするから。とはいえ詐欺を容認するかどうかはまた話が別である。

「あれって本当に効果あるの?」
「なんだよ、疑ってんのか」
「疑ってないけど、ただ眉唾物だなって思っただけ」
「それを疑ってるって言うんだよ」

 まあ、そうなんですけど。名前の追求に、ギンコはお猪口をおいて翠色の隻眼で斜め上を見上げた。多分、どうやって証明するか考えているのだろう。それならば、と名前は僅かに前のめりになりながら口を開いた。

「試してみたい」

 ギンコはあんぐりと口を開けた。
 
「はあ? 嫌だよ、貴重な商材をお前さんの好奇心のために」
「いいじゃん、今日は売り子のお陰でいい値段で売れたんだしさ。ていうかただの好奇心じゃないからね! 商品の効果を疑ったままでは売れないからだよ。売り子の誇りにかけてさ」
「お前さんの誇りなんぞ知ったことか」
「お願いお願い、じゃあわたしがそれ買い上げるからさぁ」
「無一文のくせして何言ってんだ」
「ツケといてよ」
「ツケっつーのは返す見込みのある奴が言う言葉なんだよ」
「い、い、じゃ、ん!」

 こうなったらもう強硬手段だ。秘技・駄々捏ね。こうすれば折れるのは大抵ギンコの方なのだ。

「絶対惚れ薬試す! 試していいよってギンコが言うまでここから梃子でも動かない!」
「いや、てこってなんだよ」
「梃子は梃子だよ! 梃子の原理っていう、ものすっごーい人類の発見。気になるでしょ? 試させてくれたら教えてあげるよ」

 梃子の原理の話をしたら、何当たり前のこと言ってんだ、お前こそイカサマ師じゃねえか。と言われるかもしれない。ギンコは梃子の原理という言葉を知らないだけで、その原理の本質自体は知っているだろうから。
 しかしギンコはまだ首を縦に振らない。そんなときは、押してダメならなんとやらだ。

「やっぱダメだよね……でも、ギンコの役に立ちたいって思ったから……」

 目を伏せて一度口を噤む。そこで生まれた沈黙は夜に落ちていく。
 時間を置いて伏せた目を上げてギンコの様子を見やると、渋い顔で蟲煙草を咥えている。この表情は―――これは経験から分かる。落城はもうすぐだ。確かな感触を感じつつも、手を緩めることなく城攻めを続ける。

「わがまま言ってごめんなさい」

 すると、

「……仕方ねえな」

 ついに聞くことができた、落城のお知らせだ。名前は両手を天に突き上げて、「やったー!」と歓喜を露わにする。ギンコが、ちっと舌打ちをすると、見せつけるように大袈裟にため息をついてみせた。
 渋々と言う文字が顔にありありと浮かんでいるギンコではあるが、緩慢な動きで薬箱から件の人魚の爪を取りだすと、「ほれ」と名前に手渡した。名前は込み上げてくる笑みを隠さず表せば、ギンコは不快そうに目をすがめた。

「ツケだからな。ちゃんと働いて返せよな」
「おまかせあれ」

 そう言うわけで、実証実験が開始された。
 とはいえ、得体の知れない爪だけを煎じて飲むのは憚られたので、店主にお願いしてお茶の葉を分けてもらった。
 囲炉裏に置いてあった鉄瓶に水を入れて、炭に火をつけて鉄鍋を熱してお湯になるのを待つと、そこに店主から分けてもらったお茶の葉と、三日月型の人魚の爪をぱらぱらと入れて煎じる。鉄瓶の注ぎ口から立ち上る湯気が濃く、強くなるにつれて名前の心もそわそわと落ち着かなくなる。
 そうして出来上がった惚れ薬入りの緑茶を湯呑みに入れると、しげしげと見つめる。見た目は普通のお茶で、匂いを嗅いでも普通のお茶だ。ふうふう、と息を吹きかけつつ時間をおいて冷ましたお茶が緩くなった頃には、覚悟を決めて、ギンコを見据える。

「じゃあ……飲むよ?」
「あぁ」

 どきどきと心音が高鳴るのを感じるが、ギンコはいつも通り飄々としている。これから猛烈に惚れられてしまうかもしれないと言うのに、こんなに余裕だとは。それはそれで不満だ。だがそれがギンコなのだから仕方ない。泰然自若という言葉がよく似合う男だ。
 目を瞑り、息を止めて一口飲む。程よく緩くなったお茶が喉通って下へと落ちていくのを感じる。
 次に目を開いて初めてみた相手に惚れてしまう。つまり、ギンコだ。突然宿屋の主人が乱入してくるなんていうハプニングがあれば話は別だが。

「目、開けるよ」
「おう」
「わたしから好き好きって言って迫られても、変なことしないでよね」
「へえへえ」

 気のない返事に自然と眉根が寄るのを感じる。それが雑な返事に対してなのか、迫られても変なことをしないことに対してなのか、どちらなのか考えるが、深みにはまりそうなのでそれは頭から無理やり弾き飛ばした。

「じゃあ、行きます」

 俯き加減でゆっくりと瞼を開ける。胡座をかいたギンコの足が見える。相も変わらず早鐘を打つ心臓の音ばかりが聞こえながらも、ゆっくりと顔を上げる。すると、蟲煙草を咥えて頬杖をついたギンコと、視線が一本の糸のようにつながった。

「……え」
「どうだ」

 ギンコに問われて、名前は神妙な面持ちで答える。

「まっっったく変化ないよ」

 そう、お茶を飲む前と寸分違わぬ状態である。ギンコを見ても、惚れた感じは全くない。いつも通りのギンコがいて、あ、ギンコがいる。というだけで、好き! なんて感情が爆発するようなことは全くない。本当に、何も変わらなかった。ただ夏の夜に温いお茶を飲んだだけだ。
 ギンコは名前の言葉を受けて、「は?」と目を丸くした。

「いや、そんなわけねえだろ」
「だってギンコ見ても何の心境の変化もないよ、いつも通り」

 ね? と首を傾げれば、ギンコと「確かにな」と思案顔になる。
 今度は名前は目をすがめてギンコを見やる。

「やっぱり偽物だったんだ。あーあ、今日のおじさんに、ぼったくりって罵られて、最終的には打首だよ」
「縁起でもねェこと言うな。いやしかし、効能は確かなんだよ。本当に爪、入れたんだよな」
「いやそんなマジシャン……奇術師みたいな真似できないよ。ちゃんと見てたでしょ?」
「まぁな」

 しかし腑に落ちない様子のギンコである。その様子から、ギンコが嘘を言っていないというのは伝わってくるが、しかしここで実演した結果、効果が出なかったのだから、それは問題だろう。
 どうしたもんかと考えあぐねた結果、ひとつの案を持ちかけた。

「ギンコも飲んでみてよ」
「……なに、それは俺も考えていたところだ。だがなぁ」

 歯切れの悪い返事はまだ何か迷っているのだろう。一つ思い当たることがあり、名前は追求する。

「なんですか。わたしに惚れるのがいやなんですか」
「そういうわけじゃないが……しかし何が起こるか想像もつかんからな」

 がしがしと首の裏をかいたギンコがなにを危惧しているのかはわからないが、それ以外今のところ検証方法はないように思える。

+++

 人を好いた経験がないギンコにとって、未知の感情との遭遇はなにが起こるか分からなくて、躊躇う。
 男と女、力の差は歴然だ。万が一ギンコが迫れば、名前はあっという間にギンコに組み敷かれてしまう。
 どういうことかわからんのかねぇ、と名前を眺めながら考えるが、多分当の本人はわかっていないのだろう。危機意識が欠如しているのか、はたまたギンコがそんなことをするわけないと信じきっているのか。
 俺も一応、男なんだがね。なんて胸中で呟く。
 そんなギンコの気持ちなんて知る由もない名前は、ギンコの目線で何を感じ取ったか、「覚悟決まった?」と問うてくる。全然決まってねぇよ。しかし、人魚の爪の効能を確かめる意味でも、確かに必要だ。観念したギンコは、惚れ薬入り煎茶を飲むことにした。

「なんかあったら助けを呼べよ」

 手渡された湯呑みを片手に、再度告げる。

「なんかって?」
「なんかだよ。何か良からぬこと、だ」
「はいはい」

 はいを二回言ってる時点で本気で捉えていない。どうなっても知らんからな、と能天気な名前を最後にじとっと見やると、目を閉じて煎茶を飲んだ。嚥下すれば、温い煎茶が喉を通っていく。

「目、開けるぞ」
「どうぞ」

 瞼を持ち上げて、名前を視界に捉えた。

「……なーんも変わらんな」
「でしょう?」

 名前の言う通り、なんの変化も現れなかった。

「どういうことだ……」

 これは本格的な確認が必要かもしれない。そう考えた刹那、一つの可能性が突如閃いて、ギンコは息を呑んだ。
 まさか……いや、まさか、そんなわけはない。可能性を振り払うようにかぶりを振り、蟲煙草に火をつける。

「何か思い当たることあったの?」
「いんや、なんでもない」

 あくまでも可能性だ。確証はないからこそ、下手に伝えて混乱を招くのは避けたい。なんらかの原因でこの人魚の爪が効能を失ったと言うこともあるわけだから。
 言えるわけがない。―――もう既に、お互いが惚れ合ってるんじゃないか、なんて。口が裂けても、だ。
 そもそもお前さんが俺を好くなんてあり得んだろう。と考えたところで、先ず自分が名前を好く可能性をまず否定しなかったという己自身に驚く。最近はこの通り、調子が狂うことばかりだ。
 結局真相は闇の中。急に変な形で名前のことを意識してしまったものだから、寝る時は二人の間に衝立がないことが心底悔やまれた。なんの仕切りもなく隣同士で寝ていることに何も感じることはなかったのに、今日に関しては隣で寝る名前の存在が気になって仕方がない。
 世界から隔絶されてしまったのかと思うほど、周囲から音の消えた夜半。名前は少し前から規則正しい寝息を立てていて、おそらくもう寝ている。時折身じろぐたびに布の擦れる音が聞こえてきて、「ん……」なんて漏れ出た声も無駄に艶っぽく聞こえる。
 ―――人の気もしらねぇで……。
 結局その日は眠りが浅くて、ほとんど寝れた気がしないまま朝を迎えた。
 それからも人魚の爪の件は有耶無耶のままで旅を続けていたらなんと、先日の人魚の爪を買った男と偶然再会した。名前は目に見えてまずい、といった顔をしたが、

「この間の惚れ薬、効果抜群でしたよ! また欲しくてあなた方を探しておったのです。まだあればぜひ買わせてください」

 なんと予想に反して大好評だったらしい。名前は詐欺がバレて打首だなんて言っていたが、男はギンコの持っていた人魚の爪をありったけ買うと、満足げに帰っていった。再び路銀が潤い、喜ばしいものの、ギンコの胸中は実に複雑なものだった。
 ……いよいよあの説が濃厚になって来た、のか。いや、そうなのか。

「やっぱり効果あったんだ。でもこの間実験した時はなんで効果なかったんだろうね」

 ギンコの推理なんて露ほども知らない名前は男の後ろ姿を眺めながら不思議そうに呟く。

「さてな。世の中、深く追求しない方がいいことってのもある」
「なんか意味深で怖いよ」
 
 ―――お前さんが俺を好いているなんて、ありえないこった。
 ―――俺がお前さんを好くことも、ありえないこと、だろう。

+++

「じゃあ惚れ薬って、惚れてる相手を見てももっと惚れちゃうってわけじゃないんだね」

 縁側でギンコの足の間に座っていた名前は、背中をギンコに預けて言った。

「おそらくな」
「じゃああの時にはすでにギンコはわたしのこと好きだったってこと?」
「お前もな」

 なんとなく悔しいので、あくまで“お互いが惚れていた”ということを強調する。名前は身体を起こすと、今度は向かい合う形で座り、ギンコの首に腕を回して犬が戯れるみたいに擦り寄った。

「そうなんだ、ふふ。ふーん」

 意味深に笑いながら、名前は首筋にちゅっと音を立てて吸い付くような接吻をした。瞬間、熟れた果実みたいな芳醇で濃密な、今にも溶けてしまいそうなほどの甘やかな香りが沸き立って、身体の真ん中がじんわりと熱を持っていく。

「そういやあの時のツケ、いつ返してくれるんだ」
「え、あ、払うよ。払いますよ。化野先生からお小遣いもらってるし」

 こんな時に他の男の名前を出すんじゃねぇ、と言いたいが、そんな情けないことは言わない。

「いんや、金はいらん。ちょいと身体で払ってくれ」

 あの日の夜のように、健やかな寝息に、布の擦れる音に懊悩する必要はない。欲情したら欲情した分だけ求め合うことができる。

「まだ昼間だよ」
「駄目か」
「いいよ。お布団行こ」
「ん」

 次は一緒に何を試そうか。