景光の元カノ

 雪がちらちらと舞い始めた寒さが身に染みる冬の日のことだった。長野県警刑事部にひどく狼狽した様子の女性が現れた。瞬きが多く、きょどきょどと視線も彷徨わせている。挙動不審で怪しいと言うよりかは、慣れない場所に来て恐々と言った様子だった
 女性は、窓口で出迎えた職員に対して、高明を指名した。高明のもとへ女性が、しかも若い子が訪ねてきたということで、フロアは騒めき立つ。だがその女性はそのことにも気づかないくらい、切羽詰まっているようだった。それも無理もないように思える。一般市民が県警の、しかも刑事部なんて。用事があっても行きたくない場所だろう。
 そんなことを考えながら女性の前にやってくると、カウンター越し、女性は高明を見上げた。
 初めてその女性の全容を見た時、高明の目には、女性は“雪”のように見えた。触れればたちまち溶けて消えてしまいそうな、儚さというよりかは危うさ。血の気の引いた顔色がそう思わせたのかもしれない。
 目が合うと彼女は瞠目し、何度か瞬いた。

「お待たせしました、諸伏です」
「あの、わたし、ヒロく―――いえ、景光さんとお付き合いしていて、あ、いや、フラれてしまったので、お付き合いしていたんですが、名字名前と申します。景光さんの、お兄さんですか?」

 名字名前と言う名前に、高明の中でシナプスが急速につながり、閃くように一つの記憶が蘇る。

『兄さん! 俺、彼女ができたんだ。名字名前ちゃんって言ってね―――』

 もう何年も前、弟の景光からの電話だ。電話越しにも伝わってくる弾んだ声は、聞いている高明までもつられて微笑んでしまうようなものだった。
 脳裏でそんなことを思い出しながら、高明は頷いてみせた。

「ええ。景光は私の弟ですが」
「ヒロくん、もうずっと連絡がつかなくて……家にも帰ってなくて……それで……」

 彼女の瞳に薄い膜が張り、俯いた。と同時に、音もなく透明な雫がフロアに落ちていく。色がなくなるくらい噛み締めた唇が痛々しい。
 景光の元彼女を名乗る女が、何やら訳あり顔で高明を訪ねてきた。景光の性格を考えると、景光が彼女のことを捨てて逃げた、と言うことは考えられないだろう。
 では景光にいったい何があったのか。とにかくこの女性から色々と聞く必要がありそうだ。

「ここではなんですから、どうぞ会議室へ」

 気がつけば高明はカウンターから出て、彼女の肩を抱きながら会議室へと向かっていた。彼女に触れた後、彼女は雪ではないのだ、と当たり前だが思った。至極当たり前なことだが、それでも少しでも力を入れたら崩れてしまいそうなほどのか細い体で、高明は少し怖くなった。この子はきちんと食事をとっているのだろうか。
 周りのざわめきはより一層濃くなるのを感じる。しかし今はどうでも良かった。
 会議室を「使用中」に変えて、暖房のスイッチを押すと彼女にはひとまず座ってもらった。

「少々お待ちください」

 高明は自動販売機まで行って、少し悩んで温かい飲み物を二つ買う。ミルクティーとブラックコーヒーを持って会議室に戻ると、彼女はテーブルの上で組んだ自分の手をぼんやりと眺めていた。高明に気づいて顔を上げた彼女に、高明は問う。

「扉を閉めない方がよろしいでしょうか」

 相手は女性だ。密室を嫌がる可能性もある。ただ、内容的に他の人に聞かれたくない場合もある。高明は名前に決定権を委ねた。

「閉めてくださって結構です」
「わかりました」

 高明は扉を閉めると、テーブルを挟んで斜め前の席に座り、缶を二本並べた。

「どちらがよろしいですか」
「あ、えっと……こっちで。ありがとうございます」

 迷った末、彼女が選んだのはミルクティー。温かいものを手に持っているだけでも心が落ち着くし、ミルクティーの糖分もきっと必要だろう。

「改めまして、私は景光の兄の諸伏高明と申します。景光のこと、よかったらお聞かせいただけますか」

 名前はミルクティーの缶を両手で包み込むように触りながら、やがて意を決したように頷くと、顔を上げて景光の話を始めた。

「わたしとヒロくんは大学から付き合っていました―――」

 彼女の話はたどたどしく、時に少しばかり話が脱線したり、話が行ったり来たりすることもあったが、話の内容を理解するのはさほど難しくなかったし、自分の知らない弟のことを聞くのは、兄としては新鮮でもあった。
 高明は名前の語る言葉を聞き終えると、確認を込めて言った。

「名前さん、私が正しく話を理解しているか確認させてください。名前さんは大学時代から景光と付き合っていた。景光は警視庁に入庁した後、少し経ってから警察を辞めて別の仕事に就いたと言っていた。詳しい仕事内容は教えられなかったものの、何日も家を空けるような大変な仕事をしていた。そして少し前、意味深な言葉と共に景光から別れを告げられた。それから景光と一切の連絡が繋がらなくなり、家にも戻っている様子がない。すると先日、景光の家に名前さん宛の手紙が届いたと」
「はい」
「その手紙は景光からで、何かあったら兄さんを頼ってほしいと書いてあった、と」

 名前は首肯して、カバンから件の手紙と思しきものを取り出した。話していくうちに幾分冷静さを取り戻した名前は、落ち着いた口調で話し始めた。

「マンションの郵便受けは放っておくとチラシでいっぱいになってしまって、防犯上も良くないと聞いてますから時々片付けていたんです。そしたらなぜかわたし宛の手紙が入っていて……これがその手紙です。どうぞ」
「いいのですか。では失礼いたします」

 茶封筒はどこにでも売っているようなものだ。消印はなく、そのまま郵便受けに投函されたのだろう。宛先には名字名前と書いてあり、差出人の欄には一文字、記号の丸か、アルファベットのOか、はたはた数字の零か。とにかくそういったものが書かれているだけだった。

「差し出し人に心当たりはありますか」
「多分……ですけど、ヒロくんの幼馴染がゼロというあだ名なんです。だから、ゼロくんがヒロくんに頼まれて手紙を持ってきたのかな、と」

 その名前には高明も心当たりがあった。高明が大学生の時に一度、景光を介して会ったことがある程度だが、確かその子も警察を志しているといっていた。
 状況から鑑みるにゼロが景光の消息を知る唯一の手がかりである可能性が高い。

「なるほど。……手紙の中身を見ても構いませんか」
「はい、もちろんです」

 便箋には『名前へ』という書き出しから始まり、名前が言っていたように、『俺に何かあったら兄さんを頼って欲しい』と走り書きのように書かれていて、最後に高明のことが書かれていた。諸伏高明の名前と電話番号、それから長野県警の所属。(所属は変わってる可能性があるとも書いてあった)そして末尾には諸伏景光、と署名があった。
 短いながらも、なぜだろう。この手紙からは景光からの深い愛情を感じるのだ。これだけはせめて残したいという強い気持ち。それは彼女のことを想っている証のように思えて。
 高明が手紙の検分をしていると、ぽつりと呟くように名前が言う。

「こんな手紙残すなんて、何かあるって予感があったからとしか考えられません。そして実際に何か起こってしまったから、いまヒロくんは……」

 そこまでいうと、口を噤んで俯いた。高明は何か慰めの言葉を探したが、今かけるべき言葉ではない気がした。だから敢えて高明は先へ進む。

「景光の幼馴染というゼロへの接触は難しいでしょうか」
「わたしも最初、ゼロくんを探そうと思いました。でもわたしはゼロくんのことを名前と容姿くらいしか分からなくて、連絡先も知らなくて……。ゼロくんも同じタイミングで警視庁を辞めたみたいですし、今どこで何をしているのか……」

 景光と同じように幼馴染のゼロも警視庁を辞めた。もしかしたら今は同じ組織に所属しているのかもしれない。もしや、と高明の頭に一つの可能性がよぎる。
 ―――今二人は公安にいるのではないか。
 公安所属になると、家族にも教えることはできず、警察を辞めたことにすると聞いたことがある。
 もし、二人が公安に所属していたとしたら、潜入捜査をしている可能性もある。それで身の危険を感じ、手紙を残したということも考えられる。
 だがあくまで推察だ。景光に関してあまりにも情報がなさすぎる。
 いつの間にやら深く考え込んでいた高明は、目の前の彼女が不安げにこちらを見ていることに気づいた。高明は安心させるように微笑んだ。

「大切な手紙を見せてくれてありがとうございます。お返しします。それからこの手紙を頼りに長野まで来てくれたこと、御礼申し上げます。さぞ心細かったでしょう」

 そう言って手紙を返すと、「こちらこそ、何の連絡も差し上げずに突然すみませんでした」と頭を下げられた。それから高明の顔をじっくりと見つめた。人によっては居心地が悪いと思うような観察するような目だ。だが、高明はちっとも嫌じゃなかった。その視線は、高明の目を、眉を、鼻を、輪郭を、記憶の中の景光と照らし合わせ、結びつけているように思えた。
 やがて名前は固く結ばれていた糸がするすると解けていくように、顔中の筋肉の強張りを解いていく。

「高明さん、やっぱりヒロくんに似てますね。一目見てお兄さんだってわかりました。ここに来るまで不安でしたけど、高明さんの顔を見たらなんだかホッとしました」

 出会って初めて見た名前の笑顔に、高明の胸には一陣の風が吹いたかのようだった。水面には水紋ができ、さざめいていく。

 ―――なるほど、景光。

 やがて高明は、名前の手を握りしめた。その手は温かくて、いつまでも触っていたくなるような心地良さがあった。

「名前さん。私が貴女の力になりましょう」

 名前、景光の大切な人。痛いけど、辛いけど、切り離してでも守りたかった人。それを託されたというのならば、答えは決まっている。

「私が貴女を守ります」

 名前の瞳が揺れる。期待か、戸惑いか、高明にはわからなかった。

「私としても景光のことが気がかりです。微力ではありますが、一人よりも二人の方が得られる情報も多いでしょう」
「……ありがとうございます」

 名前の双眸には、一瞬で泉のように水が溢れて重力に従ってこぼれ落ちた。大粒の涙は、まるで透明な宝石のようだった。高明はハンカチを差し出そうと名前から手を離したが、彼女が涙を流す様を見ていたら涙を拭うことは無粋に思えて、ひたすらに見入る。この世界で今、高明だけが見ることができる涙の形をした宝石。
 彼女はひとしきり涙を流すと、大きく深呼吸して無造作に涙を拭き取って微笑んだ。再び高明の胸を風が吹き抜ける。なんなんだ、この不思議な感覚は。

「すみません。嬉しくて」

 名前の言葉に高明は魔法が解けたように自由を取り戻すと、名前が涙を拭ったその指先がほっそりとしていることに気づいて、高明はずっと気になっていたことを口にした。

「ところで名前さん、きちんと食べてますか、寝れていますか。どうも私の目には貴女はそのどちらもできていないように見える」

 図星、と彼女の顔にデカデカと書かれているようだった。気まずそうに目を泳がせている。それならば、と高明は続ける。

「名前さん、パスタは好きですか」
「え、あ、はい、好きです」
「もうすぐ私の勤務時間は終了しますので、美味しいパスタの店に行きましょう」

 名前は一瞬逡巡したものの、すぐに頷いた。

「……ありがとうございます」

 高明も頷き返すと、すっかり冷めてしまった缶コーヒーのプルタブを開けて呟きを落とす。

「すっかりぬるくなってしまいましたね」
「この温かさが、ずっとわたしに力をくれました」

 ありがとうございます、再び呟いて、名前もプルタブを開けた。

2025-07-13