Side He.
それは二人だけの秘密だ。決して口外することは許されない、二人しか知らない行為。時にユージンはそのことを大声で叫んで沢山の人に知ってほしい衝動に駆られるのだが、秘密の共有者に知られた時、後が怖いのでこれまでずっと約束を守り続けていた。
秘密の共有者であるナマエが目の前を通り過ぎる。その目は一瞬ユージンを見たが、すぐに興味なさげに視線を戻した。一言二言交わしてもいいものの、ナマエはまるでユージンなど最初から存在していなかったかのように通り過ぎていくのだ。もはや見慣れた光景ではあるものの、胸がチリチリと焦げ付くのを感じる。
ユージンは立ち止まり、無意識に彼女の後ろ姿を目で追う。そして彼女との間にある秘密が生まれたときのことを思い出していた。
記憶の中で、今よりも僅かに幼いナマエが呆れたような顔でユージンを見ている。
―――ユージンはCGSでの仕事を終えると、シノから今日はナマエが遊びに来ていると聞いたので様子を見に来た。ナマエは今日も三日月から借りているジャケットを着て、モビルワーカーの整備を黙々としている。雪之丞を除く大人たちはナマエが夜な夜な潜り込んで整備していることを知らないが、ユージンたちからしたらもはや見慣れた光景だ。だが不思議なもので、彼女の姿はうまくCGS社員に擬態できているのに、なぜか光り輝いたオーラのようなものが見えるのだ。だからすぐにモビルワーカーのそばにしゃがみ込んでいるのはナマエだと分かる。
ナマエは女で、CGSの社員ではない。だから今彼女がやっていることは、賃金の発生しないボランティアのようなものだ。何が楽しくてモビルワーカーの整備をしているのかユージンには分かりかねるが、それでもユージンからしたらたまにナマエがこの男しかいない地獄のようなCGSにやってきてくれることは僥倖だ。彼女の顔が拝めて、声が聞けて、たまに笑顔を向けられて、それだけで嫌なことをすべて忘れられる。
日中にアトラと一緒にHABA’S STOREの商品の配達に来ることもあるが、光り輝いて見えるのはなぜかナマエだけで、目で追ってしまうのもナマエだ。勿論、ナマエにはそんなことは言わないが。
「よぉ、やってんな」
ユージンが声をかければ、熱心に整備をしていた顔が弾かれたように上がって振り返った。途端、眩しい笑顔が花咲いて、ユージンは胸がぎゅっと締め付けられたような心地がした。
「ユージンだ、お久しぶり」
「一週間ぶりくらいか。ほんと物好きなー」
「別にいいでしょ」
ナマエは眉根を寄せると、視線をモビルワーカーに戻して再び手を動かした。そこへシノがやってきてユージンの隣に立つと、他愛のない世間話を始める。そうこうしているとヤマギもやってきて、四人で他愛のない話をして束の間の安らぎの時間が過ぎていく。
やがて整備が一段落して、ナマエとヤマギは雪之丞に整備報告を入れる。その後に戻ってきたナマエは「あー疲れた」と首を回している。ユージンはふと思いついたことがあり、それを口にした。
「なんか飲むか」
「えっいいの? 飲む!」
「んじゃ行こうぜ」
目を輝かせたナマエと一緒に自動販売機まで歩き出す。シノが「抜け駆けずりーぞ!」なんて後ろでヤジを入れているが、そこはヤマギはうまく諌めていて、内心ユージンはほくそ笑んでいた。
「何飲もっかなー」
ナマエは嬉しそうに言っていて、この嬉しそうな表情を自分が引き出したのだと思うと誇らしい気持ちになった。ジュース一本でナマエのこんな顔を見られて、なんなら二人きりになれるのならば安いものだ。
と、そこに正面から三日月がやってきて、ナマエを認めると「ナマエ」と短く名前を呼んだ。するとナマエは今までの表情を一だとしたら百にしたくらい嬉しそうな顔をして
「三日月」
と呼び返した。ナマエが足を止めたので必然的にユージンも足を止める。それにしてもユージンからしたらなんとも面白くない光景だった。三日月にはモビルワーカーの模擬戦でも勝てたこともないのに、こんなところでも負かされている気分だった。だが一方で、ナマエは三日月との方が付き合いが長いので、それは仕方ないことだとも理解している。彼女がCGSに立ち入るようになったのも三日月の影響だし、彼女の着ているジャケットだって三日月のものだ。
三日月はまるでこの世界にはナマエしか存在していないかのように、ナマエだけをまっすぐに見て言う。
「来てたんだ、気づかなかった」
「わたしも三日月のこと探したんだけど見当たらなかったんだよね。今ね、一仕事終えたからユージンにジュース奢ってもらうんだ」
「そうなんだ。俺も奢ろうか」
「そんなに飲めないよ。でもありがとう」
ナマエが笑い、三日月も目元を細める。三日月は基本的に表情の変化が乏しいので、こんな表情を普段のCGSでは見ることができない。
二人の間のなんとも親密な空気が無性に腹立たしくて、その空気を切り裂くようにユージンは「ほら」と催促する。
「いくぞナマエ、ジュース全部売り切れちまうぞ」
「そんなわけ無いじゃん、もう。じゃあね三日月」
「またね」
見事三日月との引き離しに成功した。そうして自動販売機にやってくると、「どれでも好きなもの選べよ」と言い、ナマエが「どれにしよっかなあ」とラインナップに目を走らせる。そして指差したものを自分の分を含めて二本買うと、ユージンがいつもサボる時に使っている場所に向かった。
辿り着いたサボり場所には、先客は誰もいなかった。二人で「お疲れ様」と言って乾杯し、ナマエは美味しそうにジュースを一口、二口飲むと、顔を上げた。
「美味しい。ユージンから奢ってもらったジュースは格段に美味しいですなあ」
「そーかいそーかい。そりゃあ良かったな」
言いながらユージンはチラと隣に並び立つナマエの様子を伺う。相当喉が渇いていたのだろう、いい音を鳴らしながらジュースを嚥下していき、おそらく飲み干した。ナマエが喉を動かしている様がなぜかとても妖艶に見えて、ユージンはごくりと生唾を飲む。そしてそんな邪念を振り払うように残りのジュースを飲み切った。
と、そこでユージンは改めて認識する。今、二人きりだということを。途端にユージンの心臓が急速に動き出す。どう足掻いても意識してしまう自分が情けない。
だが、とユージンは思う。ナマエはどうせ三日月のことしか見ていないのだ。だからナマエはユージンのことなんてなんとも思っていない。彼女からすればユージンなんて路傍の石ころと一緒だ。その事実に、大きくため息を吐いた。途端にナマエが片眉をあげてユージンを見やる。
「何よユージン、ため息なんてついちゃって」
まさか、『俺が隣にいるのにも関わらずナマエが三日月のことしか見えていないのが悲しくて思わずため息を吐いた』なんて言えるわけもなく、慌てて言い訳を考える。
「えっ! あ、いや……ええと」
だがすぐにそれらしいものが思い浮かばない。言い淀んだ結果、たった一つだけ思い浮かんだそれらしい言い訳を口にした。
「……あれだ、あれ。シノがよ、女とキスとかしてえなって言ってたのを思い出したんだよ」
「シノってば、そんなこと言ってるの。ていうか、ユージンじゃなくて?」
ナマエが呆れたように言う。本当はそんなこと考えていなかったが、口にはしないものの心の奥底では日常的に思っていることではあるので、ナマエのこの表情も言葉も胸にくるものがあった。ユージンとて年頃の男なのだから、女子に触れたくて仕方ないわけだ。その下心が見透かされているかのようで堪らず大声で否定する。
「お、俺じゃなくてシノだ! 別に俺はそんな―――」
「キス、してもいいよ」
「だか……は?」
聞き間違いだろうか。ついに幻聴まで聞こえてしまうほど女に飢えているということなのだろうか。飢えているのは確かだが、しかしこんな都合のいい聞き間違いをするなんて、あり得るのだろうか。ナマエは何食わぬ顔をしてユージンのことを見つめている。ますます自分の耳に自信がなくなってしまって、ユージンは聞き返す。
「今、なんつった?」
「え、だから……キス、してもいいよって。嫌ならいいよ」
「い! 嫌じゃ、ねえよ! んなわけねぇだろうが! てててか本気で言ってんのか? その、キ、キス……って」
情けないほど声を震わせているが、正直今の自分に余裕はゼロだった。ナマエは例えるならば、このジュース一口あげようか? くらいの気安い感じで、キスをしてもいいよ、と提案をした。まるで理解が追いつかない。けれど、もしかしたら揶揄われてる可能性もあると思った。しかし冗談ではなかった場合、一世一代のチャンスが急に舞い降りたということになる。あの、ナマエと。そばにいると目で追ってしまうナマエと、今日は来ないのかと待ち侘びているナマエと、三日月のことばかりを見ているナマエと、キスができる。
ユージンはナマエの出方を伺っていると、ナマエは僅かに目線を泳がせて言った。
「別にいいけど」
「じょ、冗談って言うなら今だぜ」
「冗談じゃないってば。そんなに言うならもういいよ」
「ま、待てよ!」
立ち去ろうとするナマエの腕を掴んで引き留める。その拍子にナマエの手から空き缶が落ちて、虚しい音を立てて転がった。
ナマエは振り返ると、ユージンと向き合った。今、ユージンの心臓は爆発してしまうのではないかと思うくらい早鐘を打っていた。
この後どうすればいいのだ、と必死に考えを巡らせていると、手汗で手に持っていた空き缶を滑らせてしまった。静寂を湛えたこの空間に再び缶が転がる音が響いて、そして水を打ったように静まり返る。
ユージンはひとまずナマエの両肩に手を置いた。ナマエの瞳がじっとユージンを見据えている。ユージンにはその瞳が、キスを待っているように見えた。
次にユージンは誰もいないことを確認するためにあたりを見渡した。この空間にはナマエとユージン以外誰もいない。空き缶が二つ転がっているだけだ。舞台は整っている。意を決して、ゆっくりと顔を近づけていく。少しずつ距離が縮まっていき、ナマエが受け入れるかのように目を閉じた。ユージンは無意識に呼吸を止めていた。ユージンの手も、唇も、情けないくらい震えていて、ナマエのまつ毛も小刻みに震えていた。
そして、CGSの片隅で二人の唇が音もなく重なった。
ナマエの唇は、ユージンが知る限りで世界で一番柔らかくて、味なんてするわけないのに溶けてしまいそうなほど甘かった。その甘美な感触に浸るのは束の間で、初めてしたキスに下半身が反応するのを感じて、慌てて顔を離して目を逸らす。ユージンにはもう何も言えなかったし、何も考えられなかった。顔が熱くて、ナマエのことを直視できない。
「ふうん」
やがてナマエが意味深に呟いたので、堪らずユージンはナマエを見て声をあげる。
「な、なんだよ!」
「別に。……ユージン、このこと絶対二人だけの秘密だからね。バラしたらただじゃおかないから」
「わ、わぁったよ。絶対に言わねえ」
“二人だけの秘密”という甘美な響きにユージンの脳が蕩けてしまいそうになるが、後半はだいぶ穏やかではないことを言われた気がする。
「じゃあ、わたし帰るから、おやすみ!」
そう言ってナマエは逃げるように帰っていった。
この時のユージンは、正直な話をすれば浮かれに浮かれていた。キスを許したということは、ナマエはもしかしたら自分に気があるのではないか、いやむしろユージンのことが好きなのではないか、と。
だがそれからナマエは、まるであのキスはユージンの妄想だったのかと思うくらいいつも通りだった。目が合うたびに人差し指を立てて、「しーっ」なんて甘美で意味深なやり取りも勿論ないし、なんなら段々と避けられているような気さえした。
こんなはずではなかった。ユージンの頭の中では、もう付き合って然るべきだと思っていた。だがユージンは自分からアクションを起こすことができなかった。
あの日、どうしてキスをさせてくれたんだ、俺のことをどう思っているんだ、と聞きたかったが、拒絶されるのが怖かった。もしも拒絶されたら二度と立ち直れない気がした。
そしてフラれると分かっていて告白することもできなかった。だから、大きく膨らんだナマエへの想いは宙ぶらりんのままどうすることもできず、燻り続けた。
それから数年経ち、鉄華団としてクーデリアを護衛し地球へと向かっている今も、ナマエとの関係は変わらないままでいる。近くて遠い、混じり合わない関係。二人は同じ空間にいても殆ど喋らない存在になってしまった。
Side She.
やってしまった、ただその一言だった。正直に言えばナマエは浮かれていたのだ。ユージンがジュースを奢ってくれて、しかも二人きりだったものだから、嬉しくてあんなことを言ってしまったのだ。
『キス、してもいいよ』
半分冗談、半分本気で言えば、ユージンは目に見えて狼狽えたが、やがて本当にキスをした。生まれて初めてした好きな人とのキスは心臓が潰れてしまうのではないかと思うくらい苦しくて、同時に息が止まるほど幸せなものだった。
ナマエは期待していた。この後ユージンから何かしらのアクションがあるのではないか、と。キスをしたということは、ナマエにとっては、ユージンのことが好きですと好意を表したようなものだった。しかし、ナマエの期待は虚しく、ユージンからなんのアクションもなかったどころか、喋ることすらなかった。つまり、ユージンにその気はないということだ。
ナマエは次第に己のしたことを激しく後悔した。好意を表したと思っていたその行為はその実、付き合っていない男とキスをする軽い女だと捉えられてしまったのではないだろうか、と。そんなことないのに、ユージンだからしたのに。しかし、付き合ってもない男とキスをしたのは事実だ。
本当に、自分は何をしてしまったのだろうか。と改めて自己嫌悪する日々だった。
それからナマエは自分の気持ちに蓋をすることにした。すべてをなかったことにして、予防線を張って、傷つくことから逃げた。こちらから遠ざかればユージンは追ってくることはないし、それでよかった。
けれど、シノがする女の話を本当は興味あるくせして興味のないふりをして聞いている姿も、通りすがるたびに感じる何か言いたげな眼差しも、でも結局何も言わないことも、全てが悲しかった。
Side He.
名瀬の案内で鉄華団は歳星にやってきた。テイワズの代表であるマクマードとの謁見を終えた後、名瀬が仲介して売却してくれたギャラルホルンからの鹵獲物品の売上金を教えてくれた。すると、想定以上の利益が出たので、その利益でオルガが家族サービスがしたいと言った。酒を飲めない子どもたちにはお菓子を振る舞って、それ以外は夜に街に繰り出してこれまでの苦労を労うためにパァッとやることになった。
ナマエは最初、女一人だしちょっと、なんて遠慮していたが、オルガから、お前が整備士としていてくれるから鉄華団は云々と説き伏せられて、結局行くことになった。
PUB SOMEDAYというバーにやってくると、小ぢんまりとして落ち着いた店内は鉄華団によりほぼ貸切状態になった。
ユージンはシノたちと同じテーブルで、ナマエとは別の席になった。ナマエはやっぱり三日月と同じテーブルにずっと一緒にいて、もはや見慣れた光景だが、それがなぜだか今日は無性に腹が立った。少し酔っているというのもあるだろう。三日月も、ナマエの好意に気づいているならさっさと告白してくっついてしまえばいいのに、とユージンは思うが、いつまでも二人は近い距離のまま関係性を変えないで居続けている。それもずっと気に食わないことだ。その気がないのなら、さっさとその場所から立ち退いてユージンに譲るべきだ、と思っているが、勿論思っているだけだ。現実は、ナマエに話しかけることすら侭ならない格好悪い男だ。
と、物思いに耽っていると、突如シノの大きな声が聞こえてきた。
「飲んで食ってじゃ物足りねえよ。やっぱここは女だろ女! タービンズが一緒になってストレス溜まってるんだよ! 乳ブラブラさせてる女が目の前にいるのに手が出せないんだぜ、なあユージン!」
シノは両手を自分の胸の前にやり、乳を表現したと思ったら、最後ユージンに話を振ってきた。突如名前が上がったユージンはたじろぎつつも、もごもごと返す。
「お、俺は女なんて別に……」
興味がないとは言わないが、別に女なんて……と己の心の中でも同じようなことを考える。今はそれよりも、ナマエのことが気になった。
そしてユージンは決断した。場がだいぶ温まってきたころに、酒の力を借りて二人の間にやってきた。割り込むように身体を押し込んでしゃがみ込むと、ユージンはナマエに言う。
「なあ、ナマエ。ちょっとツラ貸せよ」
「なんで」
返事をしたのは、三日月だ。ナマエのガーディアンよろしく、目元を鋭くして問う。お前に言ったんじゃなくてナマエに言ったんだっつーの! などと心中で叫びながらも、ユージンは酔った勢いのまま負けじと立ち向かう。
「別になんでもいいだろ。三日月には関係ねぇよ。俺とナマエの秘密の話だ」
「秘密? 何の話」
やっぱり三日月が間に入ろうとするのでユージンはカチンときた。口を開いたその瞬間、ナマエが三日月の名前を呼んで、いつもよりも血色のいい顔で続けた。
「ユージンに付き合ってくるよ」
「無理に付き合わなくていいんだよ」
「いーのいーの、たまには」
まあまあ失礼な会話をユージンを挟んで交わされたがそれにはグッと堪える。晴れてナマエを三日月から引き離すことに成功したユージンはナマエを連れてカウンター席に移動すると、新しい飲み物を注文した。すぐにそれがマスターから手渡されると、「で?」とナマエは促すような視線を寄越す。
「どうかしたの」
「俺たちの秘密の話だよ。わかんだろ」
「……さあ、忘れた」
「惚けんなよ! 俺たち二人の秘密って、お前が言ったんだろうが!」
「そうだっけ」
飄々と宣うナマエがどれくらい本気で言っているのか分からなかった。
「お前、俺がどんな気持ちでお前を……」
「ユージン、お前もいくだろ!」
突如シノがやってきて、ユージンの首に腕を回した。この大事な場面でなんて邪魔をしてくれたんだシノ、という目でシノを睨むが、酔っ払った彼には伝わっていなさそうだ。仕方なくユージンは尋ねる。
「あ? どこにだよ」
「どこってお前、さっき言ってたろ、女のとこだよ! 決まってんだろ!」
「はあ!? いや、俺は、その……」
すぐ隣にナマエがいるというのに、シノときたらなんとデリカシーがないのだろうか。どうしてもシノが行きたいと言うのならついて行ってやってもいいが、ナマエが隣にいる以上そんなことは言えない。チラとナマエの様子を伺い見れば、凍りつくような冷たい眼差しでユージンを見てて、眼差し同様に凍てつく声色で淡々と言った。
「行ってくればいいんじゃないですか。そこでキスもその先もできるといいですね」
言い切ると立ち上がり、ナマエはスタスタと立ち去っていく。三日月のところに戻るのかと思ったら、彼女は脇目も振らず真っ直ぐに店を出ていった。チラと三日月の反応を確認すると、ナマエが店を出たことは気づいたものの、酒に呑まれ始めたオルガに付き合っているためどう動くべきか判断に迷っているようだった。
ナマエが出ていった扉を見て、シノが不思議そうに言う。
「どしたんだナマエ。てかナマエとユージンが二人でいるなんて珍しいなぁ」
「お前のせいで台無しだ! クソッ!」
シノの腕を振り払うと、ユージンはナマエのことを追いかけた。弾かれたように店を出て左右を確認すると、少し先に下の階層が見渡せるバルコニーのような場所がある。その手摺りに腕をついたナマエの後ろ姿があった。やっぱり彼女の姿は光り輝くオーラに包まれていて、ユージンには一目で分かった。
背中に背負った鉄華団のマークに吸い寄せられるように走って、ナマエの隣へと赴いた。ナマエはユージンの存在に気づくと、逃げるわけでもなく、だからといって歓迎するわけでもなく、その場に佇み続けた。ユージンは彼女の名前を呼んだ。
「ナマエ」
「……ん?」
「本当に覚えてねえのか? 俺たちが、その、キ、キキスしたこと」
俺なんて、ナマエの唇の感触を何度も何度も思い出しては色々とお世話になったと言うのに、なんて思ったが、もちろん心の中だけだ。酔っていたって、そんな情けないことは口にしない。
「覚えてるよ」
きっぱりとナマエは言った。ホッとしたのも束の間、「でもさ」とナマエは言葉を続けた。
「事故みたいなものじゃん。若気の至りって言うのかな。わたしたち、付き合ってるわけじゃないし。だから忘れようよ、お互い」
ナマエはなんて勝手なことを言うのだろうか。あのキスがきっかけで、ユージンの想いはもう戻れないところまで来てしまったと言うのに。
「はぁ!? 忘れられるわけねぇだろ! 俺がどんな気持ちでいたと思ってんだよ!」
「知らないよ。ユージンがどんな気持ちだったかなんて知らない。だって何も言われてないもの」
そう言われてユージンは言葉に詰まった。確かにユージンは何も言わなかった。最初こそ浮かれていたユージンは、ナマエは自分と同じ気持ちだと思っていた。だが避けられていると気づいてからは、ナマエの気持ちがわからなくなって向き合うことから逃げていたのだ。
それにナマエは結局、三日月が好きなのだと思い込んでいた。
「だってよ……ナマエは三日月が好きだろ。俺が入り込める隙間なんて、ねえじゃねえか」
口をついて出たのはプライドも何もかも取り払ったなんとも情けない男の独白だった。普段の自分だったら絶対に言わないような本音が、まるで何者かに操られているかのようにスラスラと吐き出された。
対するナマエは、本当に不思議そうに「へ」と間の抜けた声をあげた。
「わたし三日月のことは好きだけど、そういう意味じゃないよ」
告げられた事実はあまりにもユージンの理解を超えていて、ユージンもまた間の抜けた声が出た。
「は? ……え、そうなのか? でもみんな暗黙のリョーカイってやつでそう思ってるぜ」
誰も何も言わないが、二人の間には誰も入り込めないというのが男たちの間では共通の認識だった。
「え、何それ。勝手に決めつけないでね。三日月とはきょうだいみたいなもんだよ」
―――ナマエは自分と同じ気持ちだ。いいや、ナマエは三日月が好きだ。
今思えば確かに、すべて自分で決めつけていた。彼女の気持ちを勝手に決めつけて、勝手に落ち込んでいた。
だが、ナマエの気持ちは、ナマエにしか分からない。それと同じでユージンの気持ちも、ユージンにしか分からない。あの時、ユージンが勇気を出して一歩踏み出して自分の気持ちを伝えていたら、未来は変わっていたのではないか。
「そうだな。俺は決めつけてたのかもしれねぇ」
ナマエの目は今、まっすぐにユージンだけを見ている。ナマエがユージンのことをどう思っているか、もう考えるのはやめた。そうではなくて、自分の気持ちをまずは伝えたいと思った。
今ならまだ間に合うだろうか。ユージンの気持ちはナマエに届くのだろうか。情けなくて、格好悪くて、ナマエ以外には絶対に聞かせたくない、ユージンがずっと抱え続けた気持ちだ。
「ナマエ、俺の気持ち、聞いてくれるか」
「……うん」
ナマエが頷いた。鼓動が早くなるのを感じながら、ユージンは深呼吸をして気持ちを整えると、思いの丈をぶちまけた。
「俺、ナマエとキスできて、まじですっっげー嬉しかった! 誰にも言うなって言われたけど、ほんとは大声で全員に言いふらしてやりたかった!」
ナマエが受け止めるようにはにかんだ。そしてここからが一番伝えたい気持ちだ。ぎゅっと拳を握りしめ大きく息を吸うと、震える唇を開いた。
「俺はナマエのことがずっと、ずっと、好きだ。俺の女になってくれねぇか」
ずっと言いたくて、でも言えなくて。燻り続けた思いが今、言葉となってユージンの口からナマエに届けと飛び出した。どんな反応が返ってくるのが怖くて今すぐ逃げ出したいような気持ちが顔をのぞかせるので、すぐに押しやる。あとはもう男らしく、ナマエの言葉を待つだけだ。
ナマエはユージンを見上げて、そして微笑んで言った。
「はい。よろしくお願いします」
繋がった。ユージンとナマエは同じ気持ちだった。身体の奥底から噴火するように湧き出てきた思いが自然と口から飛び出ていた。
「うおおおおおお!!! よっしゃああああ!!!!」
拳を握って雄叫びのような歓声を上げればナマエは嗜めるように「ちょっと」というが、ユージンは構っていられなかった。間違いなく今、この世界の主人公は自分たちだ。
もっと早く自分の気持ちを伝えていれば、こんなにすれ違った日々を過ごさずに済んだのかと思うと、あの時のヘタレな自分を殴ってやりたいと思った。
と、そんなユージンの腰回りに、何か柔らかいものが纏わり付いた。見ればナマエが抱きついていて、その事実に気づいた途端ユージンは我に返って狼狽える。
「えっあ、ナマエ」
「わたしたち、彼氏と彼女?」
ユージンを見上げたナマエがおずおずと問いかける。彼氏と彼女、その響きを口の中で確かめれば、なんと素敵な響きなのだろうと感動する。
「あぁ、そうだぜ。俺はナマエの彼氏だ」
こういう時は、背中に手を回してもいいのだろうか。ぎこちなく回せば、小さな身体がすっぽりとユージンの中に包み込まれた。そんなところからもナマエは女なのだと感じ取って、自身の雄がどうしようもなく反応してしまい、気持ち腰を引いて気づかれないようにした。
何はともあれ、いま腕の中にいるナマエと恋人同士になることができた。ユージンの頭の中であの日のことが思い返されて、やがてひとつの願いを口にした。
「キス、してぇ」
「キス、してもいいよ」
そういうとナマエはユージンから一歩離れると、瞳を閉じる。夜の朧げな明かりに照らし出されたナマエが、ユージンの唇を待ち侘びている。なんと耽美な光景なのだろうか。
ユージンはあの日のことを思い出しながら、ナマエの肩に手を置いた。やっぱり手は震えてしまっているけれど、ゆっくりと顔を近づける。
そして、歳星で二人の唇は再び重なり合った。やっぱりナマエの唇は世界で一番柔らかくて、溶けてしまいそうなほど甘かった。
「ちょ! おい!! あれユージンとナマエじゃねーか!?」
遠くから喚くようなシノの声が聞こえてきた。二人はどちらともなく顔を離して声のした方を見やれば、お開きになったらしい鉄華団が皆店の外に出ていて、二人の姿を見ている。
ユージンはナマエと目を合わせると、
「どうする」
と問うた。ナマエは悪戯っぽく目元を細めると、
「逃げちゃおっか」
「だな」
ユージンはナマエの手を取って、夜の歳星を駆け出した。行く宛なんてないけれど、今の二人ならばどこへでも行ける気がした。
