笑ってくれたら嬉しくて、泣いていたら悲しくて。困っていたら助けたくて、傷つけられていたら守りたくて。
勿論、王子として民の皆に思うことだが、一個人のシドとして、どんな姿も一番最初に見せて欲しいと強く思ったのはいつだったか。
姉の像の前で雨の中、老齢なゾーラ族に理不尽な理由で罵倒されていた時だろうか。あの時、しとしと降り注ぐ雨の冷たさが身体の内側にまで到達して、身体中が凍てついた。けれど頭は沸騰したように熱くなり、気がつけば彼女の前に躍り出ていた。彼女を傷つけることは、誰であろうとも許さない、と強く思った。
でもきっと、それより前からずっとそう思っていたのかもしれない。ただ気づかなかった、或いは気づきたくなかっただけで。振り返れば、ルト山でリザルフォスに襲われていた時だって、ハート型の彫刻をもらった時だって、彼女の包帯をヘオンが巻いたと聞いた時も、数え切れないくらいシドの心は動いていた。
ずっと朧げな霞のようなものだったその思いは、時折熱を持って確かな感触となったと思いきやすぐに霞に戻っていたのに。気づいたその時からシドの中で生を受けたみたいに実体を持ち、時に暴れ、時にシドを突き動かすようになった。
地上から水面へと飛び込み、深い水の底へぐんぐんと潜っていくような高揚感を感じる一方で、それ以上行ってはいけないという警鐘も確かに聞こえていた。
理由は幾つだってあるし、きちんと分かっているつもりだ。けれど、彼女の瞳が涙に濡れているのを見れば、その瞬間はどんな理屈もシドの気持ちの妨げにはならなかった。
―――どんな姿でも一番に見せて欲しいというこの思いは、なぜなのだろう。どこからくる思いなのだろう。
それはきっと、“友達”だからだ。きっとそうだ。そう自分を納得させるが、でも本当にそうだろうか? と囁く自分もいた。その囁きに導かれるまま感情の源流を辿ろうとして、その度に本能がストップをかける。その繰り返しだった。
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英傑祭も終わり、セラの滝にはシドとナマエ、それから二人を包み込むように淡く光る無数の夜光石。瞳を閉じれば、沢山のひとで賑わっていたセラの滝の情景がすぐに浮かぶ。
あまりに美しく、尊い光景であった。それが想像したものよりも遥かに荘厳で、それでいて儚くて、それらを通してこれまでの日々が泡のように浮かんでは消えていった。色鮮やかで充実した日々は振り返ればあまりにもあっという間で、気がついたら終わりを迎えていた。
踊ろう、と誘ったのはシドからだった。今日このときこの時間はもう二度と戻ることができない大切な瞬間で、だからこそ少しでも触れていたくて、本能の赴くまま身体を重ねて水の中を揺蕩いたかった。
思うまま水中を漂いながら、夜光石の淡い光を通して亡き姉のことを思った。姉はハイリア人の剣士のことを慕っていた。住む場所も、温度も、姿形も、生きる早さすら違う彼のことを姉はどんな気持ちで見ていたのだろうか。誰も着ることなく飾られている、姉が作ったゾーラの鎧だけが知っている気がした。
二人だけのステージを終えて、その余韻に浸りながらナマエを抱きしめる。ナマエの心臓の一生懸命動いているのが肌越しに伝わってくる。百年前、姉とハイリア人の剣士が思い合っていたとしても、命を散らしてしまった二人はもうこうして体温を交えることはできない。
「ナマエは言っていたな。二人の気持ちがあれば、それが道標になっていつか巡り会えると。オレもそうだったらいいと思った」
「……はい」
「今日のこの景色は、二人は見えているだろうか。二人の目印になっているだろうか」
この祈りの光、想いは届いているだろうか。空の果てからも、水の底からでもこの光を目印にして巡り会えるだろうか。どうか、届いてほしいと願わずにはいられない。
ナマエがシドの身体に腕を回す。か弱い力、波がさざめく音、水と混じり合った彼女の匂い。そのすべてがシドの五感を直に刺激する。
「きっと、届いてると信じてます。だってシド王子がこんなにも願っているのですから」
「……ありがとう」
ナマエの声が身体に溶けていく。お礼を述べたシドの声は、王子の鎧を脱いだ“ただのシド”の声になっていた。ナマエこんなにも近くにいるという事実がまたシドの胸をくすぐって、暫しその心地を楽しんだ。今だけ許されるこの距離は、明日には元通りだろうから。
それから離れがたかったものの、ナマエが身じろいだのをきっかけに離れて見つめ合えば、ナマエの瞳から光る粒が落ちた。それが涙だと最初は気づかなくて、何粒も何粒も、まるで水の中へと還っていくみたいに涙を零すさまは、あまりに美しかった。心臓が、ぐっと掴まれたように痛んで、気がつけばシドは再びナマエを抱きしめていた。
この胸の内にある小さくて、あまりにも細く頼りない身体が、今日のこの景色を作り上げた。
―――キミには本当に、敵わないな。
英傑祭が、終わる。ナマエと過ごす最初の最後の英傑祭は、ナマエのおかげで忘れられない日になった。きっと来年も、その次の年も、ずっとずっと未来でも今日の日を思い出してしまうんだろうな。でもその時、隣にナマエはいない。それが今はとても寂しい。この夜をぎゅっと抱きしめて、閉じ込められればいいのに。そしたら、いつまでも……
ああ、だめだ、もう無理だ。と諦めにも、降参にも似たような思いが波のように押し寄せた。
―――好きだ、キミが好きだ。
好きだから、どんな姿も一番に見せてほしいと願っていた。好きだから、彼女を前にすると心が忙しなく動いていた。友達だからじゃない。痛いくらい心惹かれて、気づけば彼女のことを考えていた。
けれど、シドには彼女を好きでいることは許されない。伝えることだって許されない。だというのに、心は今にもシドの中で生まれた想いを伝えたいと暴れ、もがき、苦しんでいる。
鎮まれ、心。そう念じながら、言わなければならないことを強く意識した。途端に胸は重く、沈んでいく。でも、誰かの口から聞かされることだけは絶対に避けたかった。王子であることを自身の口で伝えられなかったことは今でも悔いている。だからせめて、このことは自分の口から伝えたかった。
「……オレには、許嫁がいるんだ」
まるで自分で、自分に言い聞かせているみたいだった。そうだ、シドには許嫁がいる。シドより年上で、他の里に住む薄緑色のゾーラ族の顔が脳裏に浮かぶ。
ナマエの目がかすかに揺れ動いている。ナマエからしたら聞いてもないのに突然許嫁の話をされて戸惑ったかもしれない。彼女は唇を薄く開いて、逡巡するように視線を巡らせる。なんて言えばいいか迷っているようだった。やがて何かを飲み込むように一つ頷いた。
「そう、でしたか。王子様ですもん、将来を約束したひとはいますよね。きっと、素敵なひとなんでしょうね」
ナマエは笑顔を浮かべていた。しかしそれはふっと息を吹き掛ければ消えてしまうような心許ないもののように見えて、シドは身体の内側から様々な思いが迫り上がってくるのを感じた。
「だがオレは……ッ!」
気づけば何やら口走りそうになり、慌てて口を噤む。
シドはいつだって真っ直ぐに、己の心の赴くまま、正直に生きてきた。けれど今、それは許されない。この気持ちを認めて、貫いたら一体どれくらいのひとを悲しませる? 迷惑をかけてしまう? 王子としての自分が自制をかけて、シドは息を呑んだ。好きなものを好きだと言えないことがこんなに苦しいとは思わなかった。胸が軋み、鈍い痛みに蝕まれる。それでも、それでも。
「……なんでもない。突然すまなかった。帰ろう、すっかり冷えてしまったな」
言おうとした言葉はシドの中、奥深くの箱に閉じ込めて、永遠に浮かんでこないように水底へと沈める。これでいい、これが正しい。
―――こんな気持ち、伝えてはいけない。オレの中だけにしまって、いつか消さなければいけない。
思い返せば彼女とはとても短い時間の中、濃密に過ごしてきた。それこそ運命に導かれた二人みたいに。
だがそれは運命ではないことをシドはわかっている。シドには決められた川を泳いでいく義務があって、その川を共に行くものは、既に決められている。それはナマエと出会うずっと前から決められたものだ。シドがシドである以上、とても覆せるものではない。
それでも、友達という関係ならば、そばにいることが許されるだろうか。
