そして英傑祭は無事に終わりを迎えた。夜も更けたゾーラの里からは賑わいが消えて、セラの滝はナマエとシドの二人だけの静謐な空間となった。
里を通り抜けて行く風の音も、絶え間なく降り注ぐ水の音も、時折聞こえる野生動物の鳴き声も、普段通りの静けさを取り戻したこの場所でより一層鮮明に聞こえてくる。
ナマエは裸足になると、スカートの裾をたくし上げてキュッと結んでセラの滝の中に足を入れた。ひんやりとした水の冷たさが足から伝わってくる。心地よい冷たさだ。水をかき分けて足を進めれば、水面が揺れる。
浅瀬ではさまざまな形の夜光石が淡く光っている。不意に今日までの思い出が蘇ってきて、胸に込み上げてくるものがあった。涙腺が緩みそうになるのをキュッと引き結ぶように、大きく深呼吸した。ナマエは座れそうな岩を見つけるとそこに腰掛けて、改めて見渡す。振り返ればあっという間の日々であった。
「本当に素敵な日でした」
絶え間なく落ちる水の音の隙間にナマエの声は溶けていく。シドへ向けた言葉でもあり、自分への言葉でもあった。
「きっと、今日の景色は皆の心に残ったに違いない。少なくとも、オレの心には刻み込まれたゾ」
シドが浅瀬を歩くたびに水を掻き分ける音が聞こえてくる。ナマエはその言葉に微笑みを浮かべて、つま先を眺める。今、シドの顔を見たら涙がこぼれてしまいそうだと思った。
つま先を見ていた視界に、朱色が映る。シドはナマエの前に跪いた。
「ナマエ、オレと踊ってくれないか」
まさかのお誘いに、ナマエは「えっ」と驚きを零す。
「わ、わたし、踊ったことないです」
「オレがエスコートするゾ」
大きくてハイリア人とは違う掌が差し出された。いつもナマエを助けて、導いてくれる手。言われた言葉の通り、オレに任せろと言われているみたいだった。
どうしようかと悩んだ。したこともない不恰好なダンスを披露するなんて、正直言って恥ずかしい。けれど純粋に、シドにエスコートされて踊ってみたいとも思った。それはこの作り上げられた舞台に背中を押されているのだろう。たった一度きり、今この瞬間はもう二度と訪れない。この里で過ごす最初で最後の英傑祭の夜、シドの手を取って思うままに流れに身を任せるのもいいかもしれない。
おずおずと差し出された手を取れば、グッと引かれてナマエは立ち上がる。するとシドはナマエのことをひょいと抱き上げて、ずんずんと滝壺へと向かっていく。
「あの、踊るのでは?」
「そうだゾ。水の中で、だ」
その言葉を聞き届ける頃には、飛沫の音と共にナマエの身体は一気に胸の辺りまで水に浸かっていた。スカートが水に揺られて、まるでクラゲのようにフワフワと気ままに動いている。海とはまた違う、川の水の澄んだ冷たさに、ここはゾーラの里なのだと再認識した。滝壺は深いが、シドが支えてくれているから沈む心配はなさそうだ。それでもちょっぴり怖い。
「大丈夫だ、オレに身体を預けて、リラックスして」
怖さは実直に身体に表れていて、指先までガチガチに固まっていた強張った身体は、囁くようなシドの言葉でゆっくりと溶けていく。シドはナマエの背中から腰にかけて手を回して密着して抱えながら、もう片方の手はナマエの手をとり、ワルツを踊るように動く。時に優しく、時に激しく、回ったり動いたり、抱き上げられたり。水に浮かんで自由自在に踊り続ける。
音楽はないからこそ、水を掻き分ける音や、時折シドから掛けられる「いいゾ」という言葉が深く身体に沁み込んで、それ以外は全て切り取られたみたいだった。まるで、この世界でたった二人になってしまったかのように思えた。それは怖くなんてなくて、これから二人きりで何をしよう、とワクワクすら感じるものだった。
シドに身を任せていれば、まるでゾーラ族になったかのように水は優しく寄り添ってくれた。泳ぐとはまた違う、水と同化するような感覚。ハイリア人は水の中では生きられないけれど、その身体のほとんどは水でできていると何かで読んだことがある。だからきっと。
―――きっと、なんだと言うのだろう。そんな問いも、シドの情熱さすら感じるリードの中で霧散していく。シドと視線が繋がった時、シドの瞳に宿る色の濃い感情に射止められたからだ。その感情の名前をナマエは知らないけれど、シドは、オレだけを感じろと全身をかけて伝えているように思えた。言われなくたってナマエは今シドのことだけを見て、感じている。
水の中で自由に動き回る中で、シドとの境界が曖昧になっていくような気がした。接した面から少しずつ同化していき、やがて一つになっていく感覚。
そして最後、シドはナマエの手の甲にキスを落として、二人だけの舞台は幕を閉じた。ギュッと抱擁をされて思い出す。どれだけ寄り添ったって結局は二人は別の個体だったのだと。けれどだからこそ、自分とは違う相手の息遣いを、体温を、心の機微を感じることができるのだとも。
「あぁ、とても楽しかった。最高だったゾ」
「わたしも楽しかったです。きちんと踊れてたかどうかは分かりませんが」
本当に、ただただシドに導かれるまま動いただけだから、踊りというには烏滸がましい気さえする。シドはナマエの背中に回していた手を肩に置いて、身体を離す。目と目が合う瞬間は、いつだって心臓が飛び跳ねる。それはいつからだったか。
「とてもよく踊れていたと思うゾ。それに、観客はいないオレとナマエだけのステージなんだから、きちんと踊れていたかどうかなんて気にする必要はない。楽しかったかどうかが重要だ」
「それもそうですね」
誰の目もないシドとナマエだけの世界で、思うまま揺蕩う。ナマエが微笑めば、シドは満足したように目元を細めて、再びナマエを抱きしめた。目の前にはシドの大きくて鍛えられた胸板がある。彼の屈強さを表すようだけれど、その肉体の内側には柔い臓器があるように、シドの内側には柔い部分があるのだろうか。みんなの前では見せない脆さ。それにいつか触れることはできるのだろうか。
そんなことを考えていたら、シドが「そういえば」と静かに紡ぐ。
「ナマエから星のかけらの話を聞いて、思い出したんだ。姉さんは、ハイリア人の剣士のことが好きだった。だがその剣士も、姉さんも、厄災で帰らぬひととなってしまった」
シドの声が、喉を震わせた振動と共に身体に直接響いていく。いつも里で聞く、元気の粒子が詰まっているような溌剌とした声ではなくて、この夜をギュッと濃縮したようなしっとりとした情感すら感じる声だった。
そうか、こんなところにも厄災に散った恋の物語があったのか、と唇を食む。そしてそれには皮肉にも異種族同士の恋で、ミファーを厄災に巻き込んだと憎まれているハイリア人。そのことをどれくらいのひとが知っているか分からないが、胸が痛んだ。きっと、何もかもがこんなはずではなかった。
「そうだったんですね」
英傑ミファーに想いを馳せながら、呟く。会ったことも話したことも見たことすらない遥か昔の英傑に、今までで一番、親近感を覚えていた。英傑ミファーも確かに生きて、この地で恋をしていた。
「ナマエは言っていたな。二人の気持ちがあれば、それが道標になっていつか巡り会えると。オレもそうだったらいいと思った」
「……はい」
「今日のこの景色は、二人に見えているだろうか。二人の目印になっているだろうか」
シドの静かな声に答えたくて、ナマエは腕をシドの身体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
「きっと、届いてると信じてます。だってシド王子がこんなにも願っているのですから」
「……ありがとう」
きっと届いている。だって、誰かのための祈りは、美しくて、強くて、尊い。遙か空の彼方にいようが、深い水の底にいようが、きっとここへ辿り着ける。
やがて回されていた腕の力が抜けるとどちらともなく離れて、向き合う。視線が繋がると、ナマエは途端に身体の自由が奪われた。その瞳がたくさんの感情を湛えていて、射止められたように目が離せなかったのだ。その目に導かれるようにしてこれまでシドと過ごした日々や、様々な思いが水泡のように浮かんできて、心臓が忙しなく動く。
あの日出会って、友人になり……今日に至るまで沢山シドに助けてもらった。振り返ればあっという間で、けれどあまりにも濃密な日々を過ごしてきた。今日でお別れなわけではないのに、感傷的な気持ちになってしまうのはなぜだろう。とは言え、一つの区切りがついたのは確かだ。明日からはまた、英傑祭が始まる前の生活に戻る。きゅうう、と胸が縮こまるような痛みを訴えた。
刹那、ぽろり、何かが頬を伝って水に落ちていく。
「……え?」
それが涙だと気づいたときには、とめどなく雫が流れ出て、顎を伝って水面に波紋を作る。シドは目を瞠ったが、やがて優しく微笑んで柔い抱擁をして、背中を撫でる。
ああ、どうしようもなく寂しくなってしまったのだ、と気づいた。心が寂しいと思う前に身体の方が反応して、涙が溢れ出た。どうしてこんなにも寂しいのだろう。その理由を辿っていけば、そのどれにもシドがいた。
シドと成し遂げたことがもうじき終わりを迎える。それが寂しくて、心も身体も、苦しいほどシドのことを求めていた。もっと一緒にいたい、と。これでお別れなわけでもないのに、それでもどんどんと寂しさと、それとはまた別の感情が募っていく。今シドは目の前にいて、抱きしめてくれているのに、遠くへ行ってしまったように寂しく、心細い。
こんなにもナマエの中でシドの存在は大きくなっていたのだと改めて気づいた。多分それは、ここを切り落とせばナマエの中からいなくなる、という単純な話ではなくて、ナマエの身体の中に満ちている水分そのものみたいに、形はないけれどそこかしこに当たり前みたいに存在している。ナマエを組成する大きな一つだ。
もう誤魔化せない。認めなくてはいけない。この気持ちだけは、友達だから、では片付けられない。ずっと前から本当はわかってて、でも知らんぷりを決め込んでいた。だってあまりにも烏滸がましい気持ちだから。
シドのことが、好き。
そうだ、わたしはシド王子のことが、好きなんだ。
認めてしまえば肩の荷が降りたように軽くなった。そうか、認めてあげればよかったのか、と今になって思う。見ないふりをして、なかったことにしようとするから、苦しかったのだ。
なんて愚かなのだろう。異種族の、しかも王子様を好きだなんて。
でもきっと、好きにならないなんて無理だった。何度やり直したって、何度でもシドに恋をしてしまうに違いない。異種族だということも、王子様だということも、好きな気持ちを妨げるものにはならない。
何も望まず、この気持ちを胸に抱えて留めておけば、誰にも迷惑をかけない。己の中で花咲いた思いは、伝えなければ誰にもわからない、ナマエだけのもの。いつかは萎れるのだろうか。それとも形を変えてナマエの中にあり続けるのだろうか。あまり経験が豊富ではないナマエには分からなかった。しかし、ナマエの中で咲いてしまった以上は、それはもうナマエの一部だ。いつかシドの手で手折られるのを待ちながら、一緒に生きていくのもいいかもしれない。
でもいつかはこの胸を飛び出して、シドに知って欲しいと思うのだろうか。差し出した花は絶対に受け取ってもらえないとわかっているのに、それでも渡すのだろうか。まるで渡すこと自体に意味があるみたいに。あるいは、渡さなければ息ができないくらいの質量になってしまうのか。やっぱりナマエには分からなかった。
