天候は快晴。澄んだ青空には雲ひとつなくて、大きく空気を吸い込めば、冷涼で澄んだ空気が肺いっぱいに広がった。耳を澄ませば水の音に混じって里の方から賑やかな声が聞こえてくる。きっと里ではたくさんのひとが行き交って、笑い声や話声が飛び交っているに違いない。そしてそんな様子を中央広場のミファー像は慈愛に満ちた表情で見守っているのだろう。
ナマエは今、セラの滝で仕事をしているので残念ながらその様子は見る事ができないので想像するだけだが、年に一度の英傑祭が無事に開催を迎えていた。
昨夜シドと作り上げた光景は太陽の下ではお目見えすることができないものの、思ったよりも多い数のゾーラ族が足を運んでくれている。ひとが来たと思ったらまた次のひとが来てと、始まってからだいぶ経つがありがたいことに殆ど切れ目がない。その面々の殆どは若いゾーラ族で、予想通りといえば予想通りだ。そもそもセラの滝の場所柄、それなりに勾配のある坂の上に位置するため足腰が元気でないとなかなかやってくることができない。
ナマエは受付で夜光石を渡して、受け取ったものはそれをセラの滝に沈めていく。ある者は両手を合わせながら、ある者は滝壺に身体を沈めながら、それぞれが英傑へ想いを馳せる。そんな様子を見守りつつ、漸くひとの波が途切れたので、息をついてぐっと伸びをした。
さて、いつ里に行こうかな、と目の前に山積みになった夜光石を眺めながら思案する。シドには、立て看板があるので無人でも問題ないためいつでも休憩が取れると言ったが、そうは言ってもお客さんが絶え間なくやってくる中でそれを放って里に出向くのもなかなかできない。だがこれで、結局里には行けなくて英傑祭は空気だけ楽しみました、といえばシドになんと言われるだろうか。想像すると口の中に苦いものが広がった。
こんなことならマルートに少しだけ店番お願いすればよかった……なんて淡い後悔をしだしたその時だった。草地を踏みしめる音がしたので、里方面へと視線を遣れば、見たことのないゾーラ族がやってきくるところだった。薄緑色の身体で、俯いているので全貌は分からないものの顔つきは平たい。こんなひといただろうか、と頭の中で知りうるゾーラ族を思い浮かべて符合させるものの、該当する人物はいない。里にいるゾーラ族の顔は大体わかっていたつもりだが、まだ知らないひとがいたとは、と一人驚く。
そうこうしているうちに薄緑色のゾーラ族は受付までやってきて、柔和な笑みを浮かべた。
「こんにちは。これが今年から始まった試みなんですね」
声からして、女性らしい。この一言だけで気品が溢れて、とても可愛らしい女性なのだということが伝わってくる。
「はい、おっしゃる通りです。ぜひ、お好きな形の夜光石をお取りいただいて、ミファー様への想いを込めながらセラの滝に入れてください」
そう言ってナマエは目の前の箱を手で示す。
「ありがとう。どれにしようかしら……」
そう言いながら首を傾げ視線を彷徨わせながら悩む姿も嫋やかだ。こんな素敵な女性と話すことができて頭がポワポワと幸せな気持ちで満たされる。ゾーラ族は魅力的な方が多いが、目の前の方は特にお淑やかさを感じる気がした。ウオトリー村という田舎で自然と共に育ったようなナマエとは正反対な気がして、ドキドキとしてしまうのだ。
と、見慣れないゾーラ族の女性に見惚れていると、夜光石を見ていた瞳がナマエを捉えた。これには堪らず心臓が飛び跳ねた。不躾なことをしてしまった、気を悪くしてしまっただろうか、と気を揉んでいるうちに、ゾーラ族の女性は口を開いた。
「これは、あなたが作ったんですか」
「あ、はい。殆どそうです」
なかには破壊神シドの力作もあるが、数が少ないためだいぶレアだ。そのことについて説明をすると少し長くなるので割愛して、敢えて殆どという表現を使わせてもらった。
するとゾーラ族の女性は驚いたように瞠目して、夜光石とナマエとを見比べる。
「まあ。こんなに多く作るのはとても大変だったんじゃないですか」
「そうですね……簡単だったとは言いませんが、でも、手伝ってくれるひともいたので」
脳裏には破壊神が夜光石を粉砕する様子が再生されていて、僅かに笑いが込み上げてくる。が、女性の瞳と目が合うと、破壊神の映像はどこかへと消え去り、心臓がギュッと縮こまった。女性の瞳の色はナマエは今日までの日々を労り、慈しむようなもののように見えたのだ。
「とても凄いです。それに手先が器用なんですね。本当にどれも素敵で選べそうにないので、ぜひ選んでくれませんか」
女性の言葉が耳をくすぐって、ナマエの心はポカポカの実を食べたかのように温まり、幸せな気持ちで満ちていく。そして、誰かの心を同じように温めてあげたいと思わせる、ただただ真っ直ぐで心地よい言葉だった。謙遜するのすら無粋になるような気がして、ナマエは出かかった言葉を飲み込んで女性の姿を見た。
「そんな……でも、そうですね、これなんてどうでしょうか」
ナマエは丸く削った夜光石を手に取って紹介する。
「見たところ、付けられている装飾品の中には丸い形のものが多いですし、醸し出している雰囲気も優しくて、穏やかで、品があって。まさに、丸い形がぴったりかなって思いました」
薄緑色のゾーラ族の女性は、彼女そのものの気質を表すかのように、丸いアメジストのような紫色の宝石が嵌め込まれた装飾品が多かった。
勿論、出会って数分のナマエに彼女の全ては分からないが、今ナマエが受け取った印象の中では最もこの形が適していると判断した。
すると女性は何度か瞬いて、やがて目元を細めた。
「あまりに真っ直ぐ褒めてもらって、なんだか照れてしまったわ。ありがとう。それではこれにしますね」
そういって女性は丸い形の夜光石を受け取ると、会釈をしてセラの滝へと向かっていった。ナマエは周りに誰もいないことをいいことに、しばらくその後ろ姿を見続けた。
(素敵なひと……名前、聞けばよかったわいさ)
聞くタイミングを完全に逸してしまってからふとそんなことを思った。
+++
それからもナマエは暫くセラの滝にいたのだが、時計を確認してついに決心をした。ここを離れて、里へ向かうぞ、と。もうすぐ英傑ミファー像の前で一大イベントが披露されるのだ。多分みんなそこに集まりだしているのだろう。客足はまばらになってきているので、いくなら今がチャンスだ。ナマエは立て看板をわかりやすい位置に置き直すと、里に向かって歩き出した。
案の定中央広場はすごい人だかりができていた。殆どがゾーラ族だが、中にはゴロン族もいて、彼は確かたまに工房にやってくるひとだ。それとなくハイリア人の姿を探すが、やはり見当たらなかった。
ふと、シドは今頃何をしているのだろうか、と考える。忙しく動き回ったり、関係各所に挨拶に回ったりしているのだろうか。ナマエには想像もつかないが、偉い立場のひとは色々とやることがあるのだろうから、きっと大変なのだろう。シドに伝えたいことも話したいこともあるけれど、今は我慢だ。
さてどこで見ようかと観覧場所を探すものの、すでにいい場所は埋まっている。ゾーラ族は背丈が高いので、広場だと恐らく、上手い具合に隙間ができなければ見れなさそうだ。それならば高い場所から見よう、ということで、ナマエは広場の両脇に掛かった上層へと続く階段の途中で見ることにした。
とはいえ階段も結構埋まっている。どこかいい隙間はないかと探していると、見慣れた顔が現れて気が付けば声をかけていた。
「マルートさん!」
階段から広間を眺めていたマルートはナマエの声で存在に気づいて、花が綻ぶように可憐な笑みを浮かべて手を振った。
「ナマエちゃん、よかった間に合ったんだね! もしよかったらここ、どうぞ」
そう言ってマルートは少し後ろにずれてスペースを開けてくれた。ナマエは慌てて両手と首を振る。
「ダメですよ、せっかくマルートさんが取った席なのに、大丈夫です!」
「チッチッチ。ナマエちゃん、よーく見て? マルートさんはナマエちゃんより大きいのですよ」
イタズラっぽい笑みを浮かべてマルートが言う。言われてみれば確かにマルートの前にナマエが入り込んでも、マルートの視界を遮る心配はなさそうだ。しかし、後からのこのこやってきたナマエが、こんなにいい席で見てもいいのだろうか、と申し訳ない気持ちがナマエの心をつついて責める。
そんなナマエの手を、マルートは引っ張ってそのままマルートの前に入れ込んでくれた。次の瞬間には両肩がガッチリと固定されて、マルートの両手が置かれたのだと遅れて気付いた。
「え、あ、マルートさん……!」
「ほらほら、よく見えるでしょー? 楽しみだね!」
首だけ振り返りマルートを見上げれば、楽しそうに目の前の景色を見ている。その瞳は光の粒が散りばめられたように輝いていて、ナマエが言おうと思っていた言葉はその輝きに吸い込まれていく。
暫し見惚れていると、マルートの目がナマエを捉えて、目を丸くする。
「見るのは広間だよ! もー」
「……はあい」
マルートの柔らかな優しさに包まれて、ナマエはついに降参した。やっぱりマルートって、すごい。水遊びをした後に羽織るタオルみたいな、暖かく包み込む優しさだ。そんなことを思いながらナマエは視線を広間へとずらした。
いつもは穏やかなときが流れているそこは、今日は活気に包まれている。たくさんのひとが英傑ミファー像の周りに集まっていて、今か今かとその時を待っている。
そして、ミファー像の後ろから、二人の少女たちが現れた。割れんばかりの拍手が起こって、ナマエもマルートも拍手を送る。
一人はナマエよりも小さな子で、もう一人はナマエと同じくらいの背丈の子だ。その子がロスーリの調整した祭事の槍を持っている。遠くからでもわかるくらい二人の表情は硬くて、その緊張がひしひしと伝わってくるようだった。こんなに大勢の前で歌を、舞を披露すると考えたら緊張しない方がおかしい。
(頑張れ、頑張れ……!)
拍手をしていた手は、気が付けば祈るように組んでいた。二人がミファー像の前に立つと、激励の拍手は波が引くように自然と収束し、辺りはしんと静まり返った。この時ばかりは水の音すらも聞こえてこなかった。
そしてその沈黙を振り払うように、演舞が始まった。少女は身の丈よりも大きな祭事の槍を軽やかに回し、蝶のように優雅に舞う。その様は、まるで水の精が天から舞い降りて、水と戯れているかのようだった。軽やかで、柔らかくて、繊細な身のこなしで、少女が足を踏み締めるたびに飛び散る水飛沫すらも芸術の神様による演出のようだった。何一つ目を離すことができなかった。
誰もがその舞に視線を射止められている中、天使のような可憐な歌声が聞こえてきた。
「天から降りし 光鱗が セラの足元 断ち割れば 光 煌き 試練 現る」
最後に、歌に準えて祭事の槍を振り下ろす。一瞬の静寂ののち、割れんばかりの拍手と歓声が轟いた。二人の少女の織りなす美しき調べは見るものを魅了して、きっと英傑ミファーに届いたに違いない。改めて、この英傑祭の美しさを、目で耳で肌で感じた気がした。
演目が終わった後、ナマエはマルートと一緒に感想を交わし合いながらマルートマートに戻る。萬屋のコーラル・リーフではいつもとは違う食べ物が並んでいた。食べ歩き用に、色とりどりとフルーツが串に刺さったものや、ここらへんで採れた魚を使った魚介の串焼きや海鮮おにぎり、キノコおにぎりなど様々だ。忙しさの中に達成感のようなものを感じる店主の表情を見るに、どうやら売れ行きは好調らしい。
ナマエはおにぎりを買ってお腹に詰め込むと、英傑祭の空気を味わうため少しばかり寄り道をしながらセラの滝へと戻っていく。これくらいはきっと許されるだろう。
いつもは水の音で満ちた里は、今日は賑やかで楽しげな音で満ちている。その音に耳をそばだてながら、里のみんなの表情を見る。誰も彼もが笑顔で、見ているこちらの口角も上がる。子どもたちはひとびとの間を縫うようにして走っていて、ナマエの横を楽しげに通り過ぎていった。彼らの走り抜けた軌跡には金色の尾のようなものが見えて、思わず振り返って彼らを見る。楽しそうな背中と尾鰭はひたすら前に向かって走り続けていて、力強く握った拳を一生懸命振ってどんどんと遠ざかっていく。「走っちゃダメ!」なんて親の声が聞こえてくるが、きっと彼らの背中には届いていないだろう。ナマエは笑みを零して再び歩き出す。
この光景は平和そのものに見えた。これは英傑ミファーが守りたかった景色であり、未来だ。たとえ仮初の平和だろうと、ミファーのためのお祭りで皆が笑っている。それはきっと、幸せなことなのだろう。どうかそれを見守るミファーも笑顔だったらいい、そんなことを思った。それはきっと里の皆の願いであり、シドの願いだと思うから。
里の様子を瞼に焼き付けるようにしっかりと見たあとは、セラの滝に戻り仕事を再開する。用意した夜光石はだいぶ減ってきたものの、なんとか間に合いそうだ。滝にはマルートをはじめナマエと面識のあるゾーラ族がたくさんきてくれて、労いの言葉と共に差し入れもくれたりした。少しずつミファーへの思いが集まっていくことに、ナマエの胸は期待で膨れていく。
それから太陽が傾き、風が少し冷たくなってきたころに、一際大柄なゾーラ族が山道を歩いてくるのが見えた。その隣にはシドがいて、シドを遥かに凌駕した巨躯である。一目見ただけでわかる、彼はこの里の長であるドレファンだ。周りを圧巻するのは圧倒的な王者のオーラだろうか。突然の王の登場に、ナマエは自然と背筋が伸びて、鼓動が早くなるのを感じた。
やがてドレファンとシドがナマエのもとへとやってきた。大きな二人が目の前に立ち、ナマエは萎縮し縮こまる。この里のトップであるということも勿論だが、二人はあまりにも大きいからだ。ドレファンの身の丈はナマエの三倍程はあろうか、ガタイのいい身体に万が一のしかかられたら、ナマエは間違いなくペラペラの紙になってしまうだろう。
「ナマエ、お疲れ様だゾ」
シドがいつも通り気さくに声をかけてくれて、ナマエは緊張で乾いた喉から掠れた「はい」を繰り出すので精一杯だった。シドはナマエへと手を向けてドレファンを見上げた。
「こちらが大切な友人のナマエです。今回の発案者の」
流れるように紹介すれば、ドレファンが目元を細めた。
「シドから色々と話は聞いているゾヨ。ワシはこの里の王、ドレファン。息子がいつも世話になっているようで、感謝するゾヨ」
「は、初めまして。ロスーリ様に師事しています、ナマエと申します。わたしのほうこそお世話になっていて、とんでもない……です」
頭を下げて今にも消え入りそうな声でナマエはいう。声が小さすぎて聞こえないだろうか、変な言葉遣いをしていないだろうか、こういう時は「滅相もございません」というべきだっただろうか、頭を下げてよかったのだろうか、。頭の中ではさまざまなことが思い浮かんで不安に駆られる。いわゆる偉いひとと喋ったことなんてほとんどなかったので、正解がわからないのだ。いや、シドは偉いひとか、でもシドの場合は出会い方が特殊だったから……などと考えていると、ドレファンは「ナマエ」と身体に深く沁み入るような声で名前を呼んだ。ナマエの意識は目の前に引き戻される。
「此度の企画、シドから聞いたときからずっと楽しみにしておった。里を代表して礼を言わせてくれ、ありがとう」
そう言ってドレファンが頭を下げるので、ナマエは大慌てで言う。
「そ、そんな、頭をお上げください! わたしの方こそ、やらせてもらえて感謝してもしきれません。お礼をいうのわたしです、本当にありがとうございます」
頭を下げれば、ジャブフフフ、と特徴的な笑い声が聞こえてきた。釣られるように顔を上げれば、優しそうな眼差しでナマエのことを見ていた。この眼差しは、父が子を見る眼差しと似ている。だからだろうか、ナマエの脳裏には一瞬父の姿が浮かんだ。
ほんの僅かに言葉を交わしただけだが、ドレファンの優しさがよく伝わってくる。言葉の端々に、表情に、ドレファンの優しさが滲んでいるのだ。シドはこの父の大きな背中を見て真っ直ぐに育ったのだろう。
「ワシも夜光石を入れていいかな」
「はい! 勿論です」
夜光石を渡せば、二人は礼を言って滝の方へと歩いて行った。シドが去り際にナマエに視線を遣り、ウインクをしていったのだが、どういう意味のウインクなのかはよくわからなかったが、忙しい時間を縫ってここまできてくれて、大切な友人と紹介してくれて、最後にウインクまでしてくれるのはなんだか嬉しい。
セラの滝へと歩いていく二人の後ろ姿を見守っていると、
「良い娘だな」
そんなドレファンの声が聞こえてきて、ナマエは胸の中はぎゅっと縮こまり、そこに温かいものが注がれる。
「ハイ。ナマエはオレにとってかけがえのない存在です!」
と、きっぱりシドが答える。二人ともナマエに聞こえているとは思っていないのだろうか。特にこちらを気にする様子もなく会話をしている。あまりにも恥ずかしげもなくいうので、ナマエは聞こえないふりをすることにした。目の前に積まれた夜光石を意味もなく持って点検したり、前髪を手櫛で整えたりして、持て余した気持ちを発散させた。
+++
そうして太陽は少しずつ山間の先に姿を消していき、夜の気配が立ち込めてくる。セラの滝には、夜光石によるライトアップを見るためにたくさんのゾーラ族が集まってきた。家族で来ていたり、恋人同士で来ていたり、様々である。ナマエは受付に立ったまま、その様子を俯瞰して見ている。思うよりもたくさんのひとに来てもらえて、万感の思いでいっぱいになる。するとシドとドレファンもやってきて、民は皆、ぜひよく見えるように前へと道を開けた。しかしドレファンは、
「ワシはこの里の誰よりも大きいのだから、一番後ろでも見えるゾヨ」
と言って笑う。するとそれが伝播するように皆が笑う。ナマエは昼間にマルートが似たようなことを言っていたな、なんてことを思い出して、口角が上がる。
「だから気にするでない。ありがとう」
心優しき王の言葉に、隣でシドが嬉しそうな誇らしそうな顔で頷いた。シドはそれから一言二言、ドレファンに何か言うと、踵を返して受付へと一目散に駆け寄って、ナマエの隣に立った。
「ナマエ! いよいよだな」
シドの瞳は黄昏時だというのに、朝焼けを写した水面のようにキラキラと輝いていて、ソワソワを隠しきれていない。まるで少年のようだ。ナマエは目元を緩めて「ですね」と頷いて、
「でも、もっと近くに行かなくていいんですか?」
と、問う。この場所は滝からは離れているため、あまりよく見ることができない。シドにはぜひとももっと近いところで見てほしい。するとシドは首を横に振る。
「オレはナマエの隣で見ると決めているから、ここで見るゾ」
王子がこんな端で見るなんて絶対に良くない。せめて王の隣で見るべきだ。そんな気持ちが表情に出たのだろう、ナマエが何か言う前にシドは人差し指をナマエの唇に押し付けて言葉を封じる。シドの指の冷たさが唇に伝わってくるのと、長い爪がナマエの鼻の上を掠めて擽ったい。
「ここで見るからな。もっと前に行ってください! なんて言わないで欲しいゾ」
先回りして言いたいことを言われてしまった。しかも「もっと前に行ってください!」という言葉は声のトーンが僅かに上がっていて、恐らくナマエの喋り方を真似していた。色々と物申したかったのだが、どこからか歓声が聞こえてきて二人の攻防戦は終わりを告げる。
歓声は波紋が広がるように伝わっていき、一つの大きな波のようになった。その理由はすぐに分かった。シドの指はナマエの唇から離れ、二人は辺りを見渡す。
「……きれい」
ナマエの口から零れるように言葉が出た。
夜に抱かれた大地で、夜光石が煌めいている。滝の中の様子は人だかりで見る事ができないが、その周りは昨日見た通り幻想的な青の世界が広がっている。
しばしこの景色に没入していると、
「滝を見に行かないか?」
そうシドから誘われた。ナマエは頷いて二人は連れ立って滝の見える場所へと歩き出す。滝の周りは変わらず人だかりができていたが、シドの姿を認めると、道を開けてくれる。シドは「ありがとう」と一人一人に礼を述べながら、開かれた道を縫うように歩いていき、ナマエをエスコートしてくれる。
そうして辿り着いたセラの滝で、息を呑む。
浅瀬にも、滝壺にも様々な形の夜光石が沈んでいて、水の中で無数の青緑色の光が水面の揺れに合わせて揺らめいている。滝に落ちる水の粒もその光が反射して輝いていて、生と死の表裏一体の美しさが広がっていた。
この光は里の皆の想いだ。その想いの数だけ、淡く、しかし力強く瞬いている。この光は英傑ミファーに届いているだろうか。空から見たときに、気づいてもらえるだろうか。
滝の周りのひとびとの顔を見渡せば、寄り添い合って微笑むひと、目尻に涙を浮かべているひと、はしゃぐひと、様々だ。
―――ああ、これだ。
ナマエは涙ぐみそうになるのを唇を噛み締めて堪える。
ナマエとシドが作りたかった景色が遂に完成した。亡き英傑への想いの数だけ瞬く大地。それを見守る英傑が守りたかったひとたち。全てが混ざり合う今このとき、これを見たかったのだ。
今にも溢れ出しそうな気持ちは、表面張力でなんとか保っているものの、あと一枚でもコインが入れられたら、きっと―――
「ナマエ」
シドが名前を呼ぶ。静かで、やさしい、夜の水面みたいな声だった。最後のコインが入れられて、ナマエの瞳から光の雫が生まれて、大地に還っていった。
◆◆◆
薄緑色の女性は誰だか分かりましたでしょうか。
