彫刻師と王子14

 そしてついに休みの日がやってきた。里を照らす太陽に見守られながらナマエはスケッチブックを抱えてセラの滝へと続く橋を歩いていた。
 橋の中程に差し掛かった時、里を囲う山々を通り抜けてきた強い風が一陣吹き抜けて、髪の毛が踊るように舞い上がった。
 ゾーラの里は今のような強い風がよく吹くので珍しいことではないが、強い風を感じる度に思い出す言葉が、例に違わず思い浮かんだ。
 ―――この里では強い風に吹き煽られて落とし物が多く、里の下の水の中にはたくさんの落とし物が沈んでいるのだ。
 ロスーリとの日常の些細な会話で、特に深い意味があるわけでもなければ、感銘を受けたわけでもないが、なぜだかナマエの脳裏に刻み込まれた言葉だった。ナマエとて今まで悪戯な風に何度も紙を飛ばされそうになったことがある。
 風が吹き抜けていった先を見つめながら、きっと修行を終えてウオトリー村に帰った後にも強い風が吹いたら今みたいにロスーリの言葉を思い出すのだろうな、と思った。
 この里での出来事は、意図せずとも少しずつ記憶の中に刷り込まれて、いつしか完全にナマエの一部として溶け込んでいくのだろう。そして、人生の中でほんの僅かな期間だが、確かにゾーラの里にいたのだという証となる。それはこれまで小さなウオトリー村でなんとなくで生きてきた人生の中で、不意に見つけた美しい貝殻のようだ。
 少し思考が逸れてしまったので、焦点を現実に戻して歩き出すと、あっという間に山道に入った。この坂を登ればセラの滝に辿り着く。
 少し早めに出たけど、シド王子はついているだろうか、と土と草を踏みしめながら考えていると、心臓が激しく弾みだす。
 ただシドと会うだけだというのに、なぜこんなにドキドキするのだろうか。その胸の高鳴りを持て余しつつ、気を紛らわせるために会った後にやることを反芻する。
 今日はセラの滝で待ち合わせをして、実際に現場を二人で確認したのちに工房で作業をする予定だった。抱えたスケッチブックにはナマエの考えがまとめてある。
 決して楽ではない傾斜を俯きながら歩いていて、あとどれくらい歩くのだろうかとふと顔を上げた時だ。セラの滝の麓に大柄なゾーラ族が立っているのが見えた。彼の紅色の身体は、流れ落ちる滝の澄んだ水色と生命力溢れる緑色が織りなす風景の中に咲いた鮮やかで美しい花のように、よく映えている。
 ナマエは気がつけば、その花に吸い寄せられるように駆け出していた。

「シド王子、すみません、お待たせ、しました!」
「ナマエ、走ったら危ないゾ!」

 なぜかシドまで駆け出して、二人は走りながら落ち合った。ナマエは息を整えながら「だって」とシドの瞳を見つめる。

「シド王子を、お待たせ、しちゃいました……!」
「オレだってつい先ほど着いたのだから、全く待ってないゾ。ああナマエ、急に坂道を走ったから息が乱れている」

 ほら、大きく息を吸って、吐いて。また大きく息を吸って、と、シドの言うとおりに深呼吸を繰り返したら、漸く呼吸が整った。少し坂道を走っただけでこんなに息が乱れて心臓が破裂しそうなほど動いてしまい、日頃の運動不足が露呈したようで悲しさすら感じる。
 すると、シドは跪いて大きな掌をナマエに差し出した。その行為が何を意味するのかいまいち理解できず、掌とシドの顔を見比べれば、シドは行為の意味を教えてくれた。

「滝までエスコートするゾ」
「えっ、いや、そんな、目と鼻の先ですし……!」
「そのような油断が怪我を招くんだ。さあ」

 怪我なんて、と喉元まで出かかったが、先日雨の山道を走って転んだことは記憶に新しい。なんだかおっちょこちょいだと思われているようで複雑な気持ちだが、抱えていたスケッチブックを片手で持ち直して、もう片方の手をシドの大きな掌に重ねた。
 シドが立ち上がれば、親と小さな子ほどの身長差が出来上がり、側から見た様子はきっと、さながら親に手を引かれる子どもといったところだろう。
 とはいえ、慣れないエスコートをしてもらい、むず痒くも幸せな気持ちになりながら少しの距離をシドに手を引かれながら足を動かしつつ、その姿を見上げて改めて思う。
 シドは間違いなく、天然たらしだ、と。
 意図したわけではなく、さらりと本能でやってしまうのがニクいところだ。これはもう、ナマエも親衛隊に入れてもらった方がいいのかもしれない。
 なんてことを考えていたが、セラの滝に辿り着いたら一気に仕事モードに切り替わり、そんな雑念はすぐに頭の隅に小さく縮こまった。
 二人で滝とその周辺を改めて検分し、イメージを共有していく。ナマエは事前にスケッチブックに書いていたイメージ図をシドに見せながら頭の中にあるイメージを伝えると、幸いシドにはナマエのイメージはすんなりと伝わったし、シドのイメージとの齟齬も殆どなかった。あとは調整をしながらひたすら作品を作るだけだ。
 イメージしたものを形にしていく。言葉にしてしまえばただそれだけだが、それ以上に感慨深いものがあった。
 絶対に成功させてみせる、と己に誓った。
 帰りの山道でも、シドは当然のようにその手を差し出した。今度はその意味を図りかねるほど馬鹿ではないナマエであるから、かえって困惑した。
 すなわち、なぜまたシドはエスコートをしようとしているのだ、と。
 その戸惑いは表情に出ていたのだろう。シドは先に答えてくれた。

「山道は下る時の方が危険なんだ」

 だからエスコートする、と。いや、介護か? なんて自虐する。
 シドと一緒にいると、自分がお姫様にでもなったような気分になってしまう。彼は当たり前のようにやってのけるが、これに慣れてしまっては良くない気がする。しかも彼は正真正銘、王子様だ。
 などと戸惑っていると、シドは表情を暗くした。あ、この表情は、とナマエは嫌な予感がした。彼はこの後、大柄なゾーラ族から、大型犬へと変身してしまう。

「すまない。良かれと思ってやったのだが、不要だったか」

 結局ナマエはシドに手を引かれながら里まで下山したのだった。
 里につけばもうエスコートの必要はない。手は離されて、その瞬間まるで冷たい風が胸の内を吹き抜けていくような心地になった。手を重ねた瞬間から、いつかは離れるということがわかっていたはずなのに。
 分かっていたって寂しいものは寂しいのだ。そもそもエスコートしてもらったこと自体がかなり稀有な出来事なのだから、むしろその事を嬉しく思うべきだろう。
 己の中の澱を吐き出すように深く深呼吸をすると、工房へと歩き出した。
 暖かな太陽の光が降り注ぐ里の中を二人で歩いていると、痛いくらいの視線を感じた。好奇の眼差しだ。ゾーラの里の王子と、ハイリア人が並んで歩いていたらそれはそうだよな、と納得するが、居心地が悪いものは居心地が悪い。誰とも目があわないように自然と視線が落ちてしまう。
 だがシドはそんな視線は全く気にしていない様子で、今後のことを話している。彼はいつでも堂々としていて、周りからどう思われようが気にしないように思える。
 だが、それはシドなりに気を遣ってくれているからかもしれない、と思った。彼が堂々としているから、誰も介入する余地を与えないのではないだろうか。これが正しい、これで良い、そう伝えているようだった。
 彼の少し後ろを歩くナマエは彼の後ろ姿を見上げる。その背中は、このハイラルで一番頼もしい存在に見えた。胸がギュッと縮こまって、たまらず唇を噛み締めた。
 好奇の視線はマルート・マートでも当然のように浴びることとなった。事前にナマエが話していたため、シドがくるとわかってはいても、いざ里の王子が工房に住み込みで修行しているハイリア人の女と連れ立ってやってくれると、どうしたって見てしまうのだろう。気持ちは痛いほどわかるというものだ。
 その視線に対して、シドは快活な挨拶で答えながら、ようやく工房へと辿り着いた。なんだかどっと疲れてしまったが、ここからが本番だ。
 まずはナマエがお手本を見せる。夜光石を作業台に置いて、簡単に説明をしながら削っていく。シドはナマエの手元を穴が開くほど食い入るように見つめるので、若干緊張しながらも一通りの工程を終えた。

「……とまあこんな感じです。できそうですか」
「ああ、任せてくれ!」

 やけに自信満々のシドが己の胸をドンと叩いた。彼から自信を感じれば感じるほど不安になるのはなぜだろうか。だがここまできたらやってみるしかない。ナマエは道具を手渡すと、固唾を呑んで見守る。
 そして―――

「……すまない、ナマエ。力の加減が難しいな」

 結局彼は一突きで夜光石を粉砕した。何度かトライしたものの、結果はいずれも同じだった。予想通りと言えば予想通りなので驚きはしないが、当の本人はとても落ち込んでいる。

「加減難しいですよね、わかります。わたしは本業ですからなんとかできていますが、難しいですよ。はい。シド王子でしたら小さなものよりも、大きなものを削る方が向いてるかもしれませんね」

 彼を元気付けたい一心でなんとかフォローをするが、シドは諦めるつもりはないらしく、力加減から練習することとなった。
 ナマエはそんな彼を横目に、ちまちまと夜光石を削っていく。丸型、四角型、雫型と簡単な形から、複雑で手のかかる星のかけらの形。いろいろな形のものを作っていきたいが、ひとまずは数が欲しいので、比較的簡単な丸型を量産する計画だ。そうしてできたものを地面に置いたり、穴を開けてそこに紐を通せば、木や棒に吊るすこともできる。
 そしてなんと言っても削り落とした夜光石は捨てるのではなくて、資材として里の修繕に使われる予定なので、環境にも優しい計画なのだ。
 限りある資源を大切に使う、その考えは厄災後から強くなっていると聞く。厄災で人も資源も焼き尽くされてしまったからだ。
 夜に淡く煌めく夜光石で美しく彩られたセラの滝も、削り落とした夜光石を使ってレトーガンと一緒に里の修繕をするのも、その光景を想像すれば楽しくて、早く実現させたくて、シドのことが気になりつつも結局すぐに自分の作業に没頭してしまった。
 集中していた意識がふっと現実に戻ったのは、シドの歓声が聞こえてきたからだった。

「ナマエ、見てくれ!! ついに成功したゾ!」

 弾かれたように顔を上げれば、彼の大きな掌の上には粗さはあるものの丸型の夜光石が乗っている。一撃で粉々にしてしまっていたスタートから考えると、途轍もない前進だ。

「わ、本当にすごいです! おめでとうございます!」

 正直に言えば、シドは力が強いので無理だろうと思っていたが、とても上手に力をコントロールして夜光石を削りあげた。なんだか感動してしまって、惜しみない拍手も送る。シドも誇らしげで、ナマエは自分のことのように嬉しくなった。

「シド王子が頑張ってると、わたしも頑張りたい、って前向きな気持ちになります。不思議ですね」

 うまく形容する言葉が見つからないが、不思議な相乗効果だった。シドを失望させたくない、シドに少しでも見合う自分でありたいと、自然と己を研鑽させる。
 何者でもないナマエが、何者かになりたいと願うのだ。
 シドは掌の夜光石を優しく握って「実は」と静かに言った。

「オレもキミから今回の話を聞いた時、同じようなことを思ったんだ。あの時のキミの瞳はまるで朝焼けが反射した水面のようだった。眩しいくらい輝いていて、美しかった。それを見てオレは、キミの力になりたいと思った。オレができることならば、なんでもしようと思った」

 ナマエの存在がシドに及ぼす影響なんてほんの僅かだと思っていた。けれど、彼の力強い言葉が心臓に入り込んでぎゅっと締め付ける。

「キミとならどこまでも泳いでいけると思ったゾ。……ん、いや。ハイリア人はこういう時泳ぐとは言わないか。なんというのだろうか」

 なんとなく彼の言いたいことは伝わってくる。文脈から察するに、目標に向かって一緒に頑張れる、と言ったような趣旨だろう。ささやかなカルチャーギャップを感じつつ、頭に浮かんだ回答を口にした。

「走る、でしょうか」
「きっとそれだ! ナマエ、一緒に走っていこう!」
「……光栄です、かけっこなら負けませんよ」
「本当に走るわけじゃないゾ!」

 幸せってなんだろう、と聞かれたら、今この時を思い出すかもしれないと思った。柔らかくて温かくて、ちょっぴり涙が出てしまいそうな今この瞬間を。