背中越しに伝わってくる揺れはとても心地よい。シドの身体は冷たいけれど、それでも触れ合っていればそこで微かな熱が生まれた。加えてシドの背中は広くて、安心感があった。今日一日を通して心身ともに疲れ切っていたナマエは、その安らぎにウトウトと微睡み、居眠りしそうになりながらも、なんとか意識を保って里に辿り着いた。
―――はずだった。
「ナマエ、ついたゾ」
その一言ですうっと意識が浮上するのを感じて、そこで自分が眠っていたことに気づいた。はっと顔を上げれば薄闇が立ち込めていた。辺りを見渡せば、見慣れた工房だ。やってしまった、と内心で焦燥と罪悪感にかられながらもすかさず謝罪を述べる。
「すみません、寝てました」
「知っているゾ。重みが増したと思ったら、寝息が聞こえてきたからな!」
穴があったら入りたいとはこのことだろう。恥ずかしくて、申し訳なくて、ナマエは喉の奥で悲鳴が上がりそうになるのをなんとか飲み込んで、ひたすらに謝罪する。
「ぐっ……すみません本当に……」
「ハハッ。色々あったんだ、無理もないゾ。では下ろすゾ」
シドがしゃがみ込んだので、ナマエは着地すると、右足に鋭い痛みが走って怪我していたことを思い出す。噛み殺せなかった悲鳴が僅かに口から漏れ出ると、シドは慌てて振り返って「大丈夫か!?」とナマエを心配そうに見遣った。ナマエは安心させるようにひとつ頷いて、
「大丈夫です。大丈夫です。大丈夫です」
「そんな繰り返されると逆に怪しいゾ。嫌でなければ部屋まで運ぶが」
「嫌じゃないですけど、大丈夫です。自分で歩けます」
ひょこひょこと右足を庇いながら歩けば、おたおたとシドが追いかける。
「なんだか見ていられないゾ!」
「だーいじょうぶですって」
資材庫の扉にやってきて、それを開ける。見慣れた資材の山に、生活スペース。そして嗅ぎ慣れた石材の匂いに、一気に安心感に包まれる。このまま布団に倒れ込みたかったが、ずぶ濡れな上に泥だらけだ。ひとまず着替えて、その後に洗濯をしなければならない。
「身体の芯まで冷えているだろうから、よく温めること。あ、オレが何か温かいものを持ってくるゾ!」
これは彼の良いところだが、真っ直ぐである上に行動力がとても優れている。相手のために自分ができる最大限の努力を惜しみなくしてくれるひとだと思う。
今にもナマエのために飛んでいきそうなシドを止めるべく、ナマエは掌を突き出して静止をかける。
「いい! いいです! ここまで運んでもらった挙げ句、居眠りしてたってことで罪悪感がすごいので、自分でやります! やらせてください! やりたいです!」
「だがその足では動くのに不自由ではないか? オレたちは友達なのだろう、頼っていいんだゾ!」
「ま、まあそうですけど……でも……」
尻すぼみになっていく声はナマエの心情を表しているようだった。
シドは狡い。友達だと言って、何かとナマエのことを助けようとしてくれる。友達になって欲しいと言ったのはナマエだが、彼に助けてもらってばっかりで、対等ではない。これではとても友達を名乗れないような気がするのだ。
否、シドは狡くない。シドは誠実だ。誠実で、眩しくて、かっこいい。
「サカナのねやなら旅人向けに何かあるだろう! ちょっと待っていてくれ!」
「あっ、ちょ!」
結局シドは返事も待たずに資材庫を飛び出ていった。「もう……」なんて呟きはバタンと閉じられた扉に吸い込まれていくようだ。
とは言え、ナマエとしても着替えをしたかったので、この隙に服を着替えてしまおうと、慎重に服を脱いでいく。当然のように下着まで濡れていて、ちらと閉ざされた扉を見る。まさかこのタイミングでシドが帰ってきたりしないよな、などと思いつつ、下着も脱いでいく。右足を怪我しているのでパンツを脱ぐのに手間取りつつも脱ぎとると、全裸だが靴だけは履いているという変な格好になる。新しいパンツに手繰り寄せて足を通して、次にブラジャーを付けて、と着替えを済ませていくと、何の前触れもなく扉が開け放たれた。
「ナマエ! 待たせたな、温か―――ッ!?」
「ギャアアアアア!!」
きっと少しでも早くナマエに温かい何かを渡したかったのだろう。ノックすら忘れて弾んだ声とともに登場したシドに、ナマエは瞬時に屈み込み、両手両足と、使える限りを精一杯使って身体を隠して、まるで夜中に幽霊と出会ったかのような悲鳴を上げた。
シドはさっと扉を閉めて、
「すまない! その、本当にすまない!! 大丈夫だ、ほんの少ししか見えてないゾ!」
「それ全ッ然大丈夫じゃないさね!」
何を以って大丈夫なのかと聞きたい。下着をつけていたことが不幸中の幸いと言ったところか。尤も、ゾーラ族のシドにとってハイリア人の下着姿を見たところでなんの感情も抱かないかもしれないが、ナマエとしてはたとえ異種族だろうと異性に下着姿を見られたと言うことはかなりの大事件だ。今日はシドに立て続けに様々な種類の恥ずかしい姿を見せている気がして、えも言われぬ気持ちになる。
そそくさと服を身に纏って布団に座り込み、「お待たせしました入って大丈夫です」と扉に向けて声をかければ、今度は控えめに扉が開かれて、シドはそろそろと顔を覗かせた。
「失礼するゾ」
そう言って静かに資材庫に入ってきた。シドの手には湯気の立ち上るマグカップがあった。それは普通のマグカップだが、シドが持つととても小さく見えた。そのマグカップから甘い匂いが漂ってきて、ナマエの鼻腔くすぐる。どこかで嗅いだことのある匂いだが、それはすぐには思い出せなかった。
「これはハテノ村のフレッシュミルクを温めたものだゾ。きっと内側から温まるはずだ」
「ハテノ村の!? 大好きです、ありがとうございます」
合点がいった。思いがけず大好物がやってきて、ナマエは先程のことなど忘れて声を弾ませる。ハテノ村のフレッシュミルクは、父がハテノ村に武器を卸しに行く時にたまにお土産で買ってきてくれるものだった。そのまま飲んでもいいが、温めるとミルクの素朴な甘さが際立って、とても美味しいし、ホッとするのだ。
「先日サカナのねやに泊まった行商人が宣伝にと置いていったらしいのだ」
言いながらシドは跪いてナマエにマグカップを渡した。そういえば、おそらく同じ行商人がコーラル・リーフにも来ていて、同じように宣伝にフレッシュミルクを置いていった。その時はマルートマートのみんなで試飲をして、ナマエは嬉々としてミルクを飲んでその懐かしい味に顔を綻ばせたが、ミルクを飲む習慣のないゾーラ族は独特のその味に不思議な顔をしていたのだっけ、と回顧する。
シドから受け取ったマグカップを両手で包めば、掌から暖かさがじんわりと伝わっていく。そして一口含めば、大好きなホットミルクが口いっぱいに広がって、思わず息をついた。ホットミルクは確かに内側から温めてくれた。
「とっても美味しいです。ありがとう、シド」
「礼には及ばないゾ。……先程の無礼、許してくれるか?」
おずおずとシドが言う。どうやら気にしているらしい。こんな表情もするのだな、とナマエはシドの初めて見る表情を興味深く見つめつつ、
「それとこれとは別です」
と、敢えて意地悪を言ってみた。途端に苦い顔になるシド。
「ウッ、そうだよな」
「嘘です。許すも何も、シドには感謝しかしてないです。何から何までありがとうございました」
「本当か! よかった」
ぱあっと明るくなるシドの表情に、ナマエもつられて笑顔になる。
ナマエの危機を救ってくれたということもあり、今日一日で彼との心理的距離がぐっと近づいた気がした。勿論これはナマエの一方的な思いだが、今日の収穫は間違いなくリュックいっぱいのキノコや山菜ではなく、シドとの思い出だ。そしてあわよくば彼も同じようにナマエとの距離を昨日よりももっと近いものに感じてもらえたらいいな、と思った。
シドは緩んでいた表情を僅かに引き締めて、口を開いた。
「これからも、いつでもオレを頼るんだゾ」
「はい」
ナマエは頷いて、程よい温度になった残りのホットミルクを飲み干した。冷えた身体の中を温かいミルクが喉を通り、重力に従って身体の中を伝っていくのがわかった。「ご馳走様でした」と言ってマグカップを置こうとすると、すかさずシドがそれを受け取って、「オレが返しておくゾ」と言う。例によってナマエが「大丈夫です!」と口を開こうとしたところに、突如シドの手が近づいてきて、そして塞がれた。思わぬ出来事に、ナマエは目を白黒させる。
「む!?」
「ナマエの“大丈夫”はもう聞き飽きたゾ。いいから今日くらいはオレに甘えるんだ、分かったか?」
「む……むむ」
じっとナマエを覗き込む琥珀色の瞳は眩しくて、力強くて、ナマエは数度瞬く。今日は彼にペースを乱されまくっている気がする。ナマエの抗議は結局、言葉になることはなく、シドの掌に吸い込まれていった。
シドはナマエが観念したのを見計らうと、口から手を離して「返してくるゾ」と言ってマグカップを片手に資材庫を出ていった。
扉が閉ざされたのを見届けると、先程までシドの掌が触れていた唇をそっと指で撫ぜた。すると僅かに心臓の動きが早くなって、たまらず胸をぐっと抑え込む。一体どうしたというのだろうか。シドがナマエの口を塞いだ、ただそれだけのことなのに、それに意味を見出そうとしているようで、愚かな自分を胸の中で一蹴した。自分の常識は他人の非常識という言葉がある。ナマエだったら異性の口を塞ぐなんてこと、よっぽど仲が良くないとやらない。これまでの人生でされたこともなければ、したこともない。けれどシドにとってそれは、会えば挨拶を交わすのと同じくらい、何ら普遍的な行動なのかもしれない。そう考えれば胸のざわめきもやがて凪いだ。
そんなことより足の具合を見なければ、と靴と靴下を脱げば、右足首は赤く腫れていた。本当は冷やしたいところだが、今から川に行くのは少々骨が折れる。救急セットから包帯を取り出してなんとなくで足をテーピングするも、不格好なのはお愛嬌と言ったところか。あとはできるだけ安静にするくらいしかやれることはなさそうだ。手当も終わって一段落ついていると、シドが再び戻ってきた。
「怪我の具合はどうだ?」
シドは巻かれた包帯を一瞥すると、再びナマエの前に跪いて問うた。ナマエは肩を竦めて答える。
「腫れちゃってました。安静にしてます」
「ハイリア人の身体のことはよく分からないのだが、患部を冷やしたりはしなくていいのか?」
「冷やしたほうがいいと思うんですけど、川に冷たい水を汲みにくのが―――」
「大変なので」と、言いかけて思わず口を噤む。次のターン、シドは「オレが行ってこよう!」と名乗り出る気がしたからだ。
しかしシドはナマエの予想とは違った言葉を紡いだ。
「そういうことなら、オレの力が役に立つかも知れないゾ! この包帯、一度解いてもいいか?」
「え? はい」
今から何が起こるのか全く分からなくて、ただただシドの成すがままにされる。彼は丁寧に包帯を取り払うと、手をそっと患部に翳した。すると驚くことに、ナマエの足を包み込むように球体型の水の塊が現れて、右足首から先だけが水の中に入っている状態になった。ナマエはまるで理解ができず、「へ? え?」と突如現れた球体型の水とシドとを見比べていると、シドは顔を上げて爽やかな笑みを浮かべた。
「これはオレの力、水を操る力だゾ」
「えええええッ! すごい、すごい、シド、すごいです! そんな特別な力があったなんて!」
「時間が経つと消えてしまうのだけどな! これで少しはマシになったか?」
気のせいかもしれないが、冷やしたことにより痛みが和らいだような気がして、ナマエは何度も頷いた。
「はい、とっても。ありがとうございますシド。すごいです、さすがです、そんなことができるなんて」
「そんなに褒められても、水くらいしか出ないゾ」
「それがすごいんです!」
シドの言った通り、時間が経つと球体型の水は弾けて消えた。すると再びシドが水を生み出してくれる。そうやって暫くシドの生み出す水で足首を冷やしてもらって、更には用途としては絶対に間違っているが、タオルをその水につけて、泥で汚れた顔や身体まで拭かせてもらった。
そうして最後にシドは足首に包帯を巻いてくれた。シドの手さばきはとても手慣れていて、さすが兵士だ、とひとり感心する。と、そこで、彼が兵士だというのは、ナマエが聞いたわけではなく、勝手にそう思っているのだということを思い出す。それを確認しようと口を開いたときには、包帯を巻き終えたところだった。どうやらタイミングを逸したようだ。彼は「ヨシ」と零すと、視線を上げた。琥珀色と視線が混じり合う。包帯を巻くために近くにいた彼の瞳は思ったよりも近いところにあって、心臓が飛び跳ねる。シドは一瞬視線を泳がせるも、すぐに視線を戻して安心させるような心強い笑顔を浮かべた。
「これでオッケーだ。あとはオレにできることはあるか?」
逡巡するも、特にシドにお願いしたいことはなかった。それくらい彼は先回りして色々なことをやってくれたのだ。ナマエは首を小さく横に振った。
「もう充分すぎるくらいしていただきました。あとはご飯食べて寝るだけです。本当にありがとうございます」
「ご飯はあるのか?」
「昨日作ったものがまだ残ってます」
「わかったゾ。汚れた服は? 洗うのか?」
「今日はもう暗いんで、明日汚れを見ながら洗ってみます」
「あとは……そうだな、風邪を引かないように、暖かくして寝るんだゾ」
「わかりました」
「もし明日起きてみて、体調が悪かったらすぐに休むんだゾ」
「はあい」
シドはまだ何か掛ける言葉を探しているようだった。心配性ですね、と思いつつナマエは目元を細める。
恐らくこのやり取りが終われば、流れ的にシドは帰っていく。そしてそれは寂しいな、と思う自分がいた。かと言って、彼と一緒にいる時間を引き伸ばすだけの無駄な話をして彼の時間を浪費させるのは本望ではなかった。今日と言う日の大半をナマエに付き合わせているのだから、充分すぎるほど一緒にいてもらった。
ナマエは己のうちで膨れていく物淋しさを無理やり奥へと押しやって、自分にできる最大限の力強い笑みを浮かべる。
「改めまして、今日は本当にありがとうございました。シドは命の恩人です。それに武器制作のことも引き受けてくれて本当に嬉しいです。これからもどうぞ、よろしくお願いします」
本当は後ろ髪を引かれる思いだが、それはきっと言葉には乗らなかったと思う。「武器のことはまた改めてご相談させてもらいますね」と付け加えれば、シドは「わかったゾ」と言い、言葉を続けた。
「オレの方こそ、キミのことを守れて誇りに思う。こちらこそ、これからもよろしくお願いするゾ。……それじゃあ、おやすみ、ナマエ」
「おやすみなさい、シド」
シドはナマエの頭に手をぽんと置いて、優しく撫でた。途端、甘く痺れるような衝撃が身体に広がっていく。身体を触れられるというのはナマエの物差しで測ってみたら距離の近いスキンシップのように思えたが、全然嫌ではない。寧ろ心地良いと思うのは、今日一日を通して感覚が麻痺しているからだろうか。
最後にシドは微笑むと、資材庫を出ていった。彼が出ていった扉はいつも見慣れている扉のはずなのに、なぜだか全く別のものに見えた。
