ハイリア人の友はシドのことを、“シド”と呼ぶ。
彼女からしたら何の意図もないその呼び方だが、シドとしてはそれがとても新鮮で気に入っている。初めて彼女から名前を呼ばれた瞬間の、あの痺れるようなのに心地が良い不思議な感覚は今でも忘れられない。目を瞑って彼女を思い浮かべる。
『シド』
彼女の唇が動いて名前を紡ぐ。するとシドの中にじんわりと心地よさが広がっていく。
彼女と出会ったのは偶然だし、まさか友達になるとは思わなかった。一時ではあるが同じ里で住むもの同士、それ以上でも以下でもない、ただそれだけだった。それが、彼女の一言で、二人の関係に名前がついた。
思えば肩書きだとか、立場だとか、外聞だとか、そういったものを全く気にしないで話ができる存在というのはなかなかいない。彼女の前では“シド王子”ではなく、ただのひとりのゾーラ族、“シド”だ。それはなんてことない些細なことだが、シドにとっては僅かな安らぎのときでもあった。
この世界に生まれ落ちた日からこのゾーラの里の王子、“シド王子”である自分だが、“シド”でもある。それは限りなく近く、境界も曖昧だが、やはり違うものなのだと、彼女から名を呼ばれる度に気づく。
このゾーラの里の王子であることは誇りであり、民から頼りにされることは喜びだ。王子としてこの里のため、民のために何ができるだろうか―――気がつけばそのことについて考えを巡らせている。だが時々、無意識に肩肘を張ってしまうときがある。それが、彼女の前だと一時、緊張が解れる気がするのだ。それはきっと、シドのことを王子として見ていないからだと思っている。
彼女は恐らく、と言うか間違いなくシドの正体を知らない。名乗るタイミングを失ったということもあるが、彼女にはこのまま、真っ白な眼差しで見てほしいという思いもあった。
けれど遅かれ早かれいつの日か知ってしまう時が来るだろう。そんな日が来てもどうか今のまま変わらないでほしいと祈らずにはいられない。それはシドのささやかな願いであった。
シドが里の工房を訪れたのは、昨日彼女と交わした話が頭の中に残っていたからだった。彼女が自分の話を聞いてどんな事を考えて、どんなものを作るのか。単純に興味があった。幸い今日は公務がなく、普段ならば里を見て回ったり、鍛錬に励んだりするところだが、そういうわけでシドは工房へと向かったのだった
里には珍しく雨が降っていた。里が見せる表情は晴れの日のそれとはまた違って情緒がある。雨粒をその身で受けながら、友人を訪ねて工房「ハンマーヘッド」を訪れると、いつも通りたがねを持ったロスーリが表情少なで出迎える。彼女のことを聞けば、まだ戻ってきていないと言った。シドはそこに引っかかりを覚えつつ工房を後にして、ゾーラの里からルト山へと繋がる長い橋の袂までやってきて、ルト山を見据える。
『明日はお休みなので、ルト山で食料を確保したら、早速武器素案を作ってみようと思います』
昨夜の彼女が言っていた言葉が脳裏に蘇る。時刻は既にお昼を回って、午後。まだルト山で精を出していると考えられなくもないが、雨が降り出して暫く経っている。もう帰ってきてもいい頃合いだ。
里の入り口で見張りをしているリトバンとドゥンマに、ロスーリに師事しているハイリア人の少女について知っているか尋ねると知っているようで、今日はルト山に食料を取りに行くと言って出ていったことを聞かせてくれた。その流れで彼女が里に戻ってきたか尋ねれば、まだ戻ってきていないとのことだった。
見えないなにかに背中を押されるように長い橋を渡って、ついにルト山の麓までやってきた。ざっと見た限り、人影はない。
ルト山は山道に沿って灯りが置いてあるためそれに沿って歩く限りは遭難したりはしないはずだが、つい夢中になって道を外れてしまった……と言う可能性も無きにしもあらずと言ったところだ。特に今なんかは分厚い雲が立ち込めているため薄暗く、足元が見えづらいだろう。
それから魔物も定期的にゾーラの兵士たちが掃討しているが、すべての魔物を排除できているわけではない。故に、魔物が潜んでいる可能性もゼロではない。
と、考えて、自分がどうにも彼女のことを探すための理由を探しているような気がした。詰まるところ、彼女のことが心配なのだ。
気がつけば、山道へと足を踏み入れていた。
雨で滑りやすくなっている道を慎重に登りつつ、辺りに視線を這わせて人影がないかどうかを確かめる。しかし、悪天候ということもあって誰一人としてすれ違わない。そしてついに山頂まで差し掛かるところで、奇妙な形の“何か“が見えた。その正体に気づいた瞬間、急速に肝が冷えるのを感じた。
それは二つの個体が重なり合った姿だった。一人はリュックを背に地面に倒れ込んだ見慣れたハイリア人―――ナマエ―――で、その上にもう一人が跨っていて、それはリザルフォスだ。リザルフォスは今にも襲いかからんと爪を構えている。
―――失ってしまう。
ひとつの命が今まさにシドの目の前で握りつぶされそうになっている。心臓がざわついて、深く脈打つ。
―――失いたくない。
頭から冷たい水を被ったかのように頭が冷えて、感覚が研ぎ澄まされていく。
失いたくないのならば、今取れる行動は一つだ。
気がつけばシドは彼女の名を呼び、剣を抜き去って走っていた。
リザルフォスはシドに気づいて、一瞬気がそがれた。その隙をついてナマエは何かを取り出して思い切り投げつける。それが命中して、リザルフォスは短い悲鳴を上げて天を仰ぐ。そこに斬り上げれば、リザルフォスは飛んでいく。
こういう時、槍だったらリーチがあるためより早く彼女の身体からリザルフォスを遠ざけられるのに、などと思いつつ、リザルフォスにとどめを刺す。シドの眼下でリザルフォスは絶命した。
剣を抜き去って鞘に納めてナマエの無事を確かめれば、彼女は上体を起こして呆然とシドのことを見ていた。
良かった、生きていた。安心したシドは声をかけようとするも、先にナマエが微かに唇を震わせた。
「……ド」
彼女の口から聞こえてきた声が何を伝えようとしているのか判断できなかった。それは雨音にかき消されてしまいそうなほどか細い声だった。
そして次の瞬間には、彼女の瞳から涙が溢れて雨粒と混じって零れ落ちていく。
「シド……怖かった……死ぬ……かと……思ったわいさ……!」
震える声でシドの名前と、感情を紡ぐナマエ。シドは駆け寄りしゃがみ込んで、彼女のことを抱きしめた。雨でびしょ濡れになっている彼女の身体は冷たくて、どうして自分の身体は冷たいのだろうとこの時ばかりは思う。もしも自分がハイリア人だったらナマエのことを温められるのに。だからせめて、彼女がこれ以上雨粒に晒されないように、己の胸に閉じ込めるように抱きしめた。
「シド……シド……!」
「心配したゾ……!」
ひたすらにシドの名を紡ぐナマエがいじらしくて、堪らずシドは胸に溜まっていた心配を口にした。そしてまるで幼子のようにしゃくり上げながら大泣きするナマエの背中を一定のリズムで叩きながら、シドは腕の中にいる友のことを想いつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。
「シド、怖かった……っ! ほんとにっ、ほんとにっ!」
「ウン」
泣きながらも懸命に自分の感情をぶつけてくれるナマエが澱を残すことなくすべて吐き出せるように相槌を打ち続ける。
「怖かった……怖かったの……死ぬって……シド、助けてって! 思った、わいさッ!!」
「ウン、遅くなってすまなかったな」
死ぬかもしれないと思った時に、自分のことを思い浮かべたと言われて喜ばないものはいないのではないだろうか。腕の中で泣きじゃくるナマエのことを、無事に抱きしめることができて本当に良かった、と改めて思う。
「そしたら……シ、シド、がっ……来てくれてぇ……!」
「ウン、間に合ってよかった」
この体温を守れたことを誇りに思う。
それからもシドの名前を呼ばれたり、怖かったと言ったり、ありがとうと感謝されたり、そんな言葉を取り留めもなくナマエは吐き出し続けた。彼女の言葉を聞きながら、つい昨夜、ナマエのウオトリー訛りが聞いてみたいと言ったことをふと思い出す。そのときは「そのうちぽろっと出ますよ」なんていなされたが、まさか次の日に聞けるとは思わなかった。勿論そんな事は言わずに、シドの胸の内に丁重に閉まっておく。
そうやって徐々に彼女は落ち着きを取り戻していって、改めて礼を述べた。
と、そこでシドは先程ナマエがリザルフォスに何かを投げつけたことを思い出した。それを探すことを申し出て腰を浮かすと、ナマエは慌てたように声をかけた。
「あ、いいんです。それ、初めて作った失敗作の首飾りで、咄嗟に投げちゃいました」
それなら尚更探さなければなるまい。ナマエが初めて作った首飾り、例えナマエが失敗作だと思っても、それは特別なものだ。彼女の制止を振り切って近くの草場を探せば、それはすぐに見つかった。緑の中にきらりと輝いているのは首飾りだった。それを拾い上げれば、ぶつかった衝撃で形が歪んでいるものの、失敗作だとする要素は特に見当たらなかった。シンプルでありながら清らかさもある、手前味噌ではあるがまるでゾーラの里を体現したような首飾りだった。
「どこが失敗作なんだ? とても美しいではないか!」
彼女の前に座り、手に首飾りを乗せて、ナマエを見る。彼女は初めて見るような表情をしていた。唇を噛んで何度か瞬いていて、寒さで蒼白になっていた彼女の血色がほんの少し良くなったように見える。
「し、失敗作ですっ! 拾ってくださり、ありがとうございます」
ナマエはシドの手から首飾りを取ると、リュックのサイドポケットにしまい込んだ。もしかしたらナマエは褒められることが苦手なのだろうか。それならば、と彼女に伝わるように再び噛みしめるように伝える。何度だって何度だって、君の心に無理やりでも溢れんばかりの賛辞を届けてみせよう。
「オレは素敵だと思ったゾ」
ナマエは視線を伏せて、「あんなのでよければいつでも作ります」と小さく呟いた。
「いいのか!?」
まさかそんな事を言ってもらえるとは思わず、思わずシドは声高に言う。彼女の自分のために作ってくれると考えると心が踊るようだった。
ナマエは視線をあげると、彼女は迷いを含んだ表情だった。何を言われるのだろうかと考えている間に、ナマエは言葉を発した。
「あの、昨日言っていた武器の制作のことなんですが……シドのことを考えて作ってもいいですか」
思考が止まって、咄嗟に何も考えられなくなった。
ナマエは武器を作りたいと言っていた。それは彼女がゾーラの里に修行に来る際に立てた目標であり、つい昨夜もそのことについて思い悩んでいた。それについてアドバイスと言うには烏滸がましい、ただの個人的な意見を伝えたら、彼女は目を爛々と輝かせて礼を述べた。
彼女はその武器を、シドのことを考えて作りたいと言っている。 彼女は有名な鍛冶師な訳では無い、それどころか修行中の身だ。けれどそんなの関係なくて、彼女が一生懸命考えて、考えて、考えて、悩んで、また考えて……その果てに作ったものは、どんなものだって宝物だ。ましてそれが、シドのための武器となれば、間違いなく何にも代えがたいものとなるだろう。
シドはややあって、喉を震わせた。
「……本当にいいのか?」
「はい、でもあの、やっぱり気にしないでください。そもそも無名で、修行中のわたしの作った武器なんて―――」
「オレで良ければぜひ作って欲しいゾ!」
「いいん……ですか?」
ナマエの瞳が揺れている。シドは肯定を示すように大きく頷いて、
「あぁ! こんなに嬉しいことないゾ! 昨夜言っていたことだよな?」
今度はナマエが頷いた。シドは言葉を続ける。
「キミが目標としていることを、オレのための武器で達成できるなんて、オレも嬉しい! 惜しまず協力するゾ! あぁとても楽しみだな!」
そう言いながら、ふと目の前のナマエが雨に晒されていることに改めて思い至る。彼女はずぶ濡れで、髪の束から水滴が滴り落ちていて、まるで滝に打たれた後のようだ。胸がチクリと痛む。今するべきことを思い出して、シドは声の調子を落として言葉を続ける。
「……と、すまない。今は里に帰ることが先だな」
「あの、すみません……実はわたし、足を挫いてしまって……」
彼女が負傷していたとは気づかず、シドは思わず彼女の足を見る。服越しで怪我の具合は分からないが、里へ戻れなかったのはそれもきっと噛んでいるのだろう。早く里に帰って手当てをする必要がある。シドは背に乗るように伝えてしゃがみこめば、彼女は礼を述べてシドの背中に身体を預けた。そのとき、背中から伝わる彼女の柔らかな質感に一瞬意識が奪われるも、すぐにそれは頭から振り払って、立ち上がった。こうしてルト山を下山し始めた。
泥濘む道を、ナマエを背負って慎重に歩いていると、背中でナマエが小さな声で喋りだす。
「以前シドは、わたしがルト山を転がる夢を見たと言っていましたね。奇しくも正夢となって足を怪我しました」
以前見たシドの夢だ。それからシドは彼女にたまにお土産として食料を渡していたが、正夢になるとは思わなかったし、彼女も思わなかっただろう。
それにしても、と前方の景色を眺めながらシドは思案する。おんぶというのは物理的にとても近いということを、彼女の声の近さがいやというほど感じさせる。かつてない近さで会話を交わしていることに気づいて、なんだかむず痒い気持ちになる。そしてそんな気持ちを悟られないように、努めて冷静にシドは口を開いた。
「リザルフォスから逃げる時に転んでしまったのか?」
「……いえ。急に雨が降り出したので、走って雨宿り先を探してたら転んでしまいました」
僅かな沈黙の後、ナマエは言う。どうやらシドの想定とは違う理由だったようだ。山道を走るとは、転んでも仕方がない。シドは保護者のような気持ちになり堪らず、
「山道を走っては危ないではないか!」
と子どもに言って聞かせるように言った。
「おっしゃる通りでございます」
「とすると、あの夢は女神ハイリアからの天啓だったのだな」
「む……違うと言い切れないです」
「全くキミは、本当に危なっかしいな。リザルフォスに乗られている姿を見た時は寿命が縮んだゾ」
「うう……本当にシドがきてくれてよかったです」
「食料はオレが届けるから、ナマエは今後ルト山で一人で食料をとりにすることは禁止だ! どうしても行きたいときはオレに相談するように」
シドからすると、一人で山に入ることはもとから心配で、今回心配が現実になったようなものだ。とは言え、禁止と言った後に少し言い過ぎたなと反省する。
「ええ! 悪いですよ」
彼女が背中で身動ぐのを感じる。
「あんなことがあったんだ。今もどこかでキミが危険な目にあっているかもしれないと考える方が、オレの心臓に悪いゾ。もしも、どうしても行くというのなら、すぐに里に帰れる範囲にすること。あるいはオレが同行するゾ」
昼間は公務がありなかなか難しいが、タイミングによっては時間を捻出する事も可能だ。妥協案を示して、彼女の反応を待つ。
「わかりました。そうします」
彼女がすんなり納得したので振り返れば、思ったよりも近いところに彼女の顔があって息を呑む。心にざわざわとさざ波が立ったようだった。すぐに視線を戻して、山道を下ることに集中し始めた。なぜざわめいたのだろうか、と不思議に思うが、その疑問はすぐに意識の隅に追いやる。あまり深く考えてはいけない気がしたのだ。
どちらも口を開かずにしばらく経った時だった。
「シド、見てください……!」
「ン?」
突如ナマエの色めいた声が聞こえてシドは顔をあげると、そこには大きな虹の橋がゾーラの里に架かっていた。気がつけば雨も上がって、雨に濡れた里は橙色の陽光が反射して煌めいていた。その荘厳な光景に、シドは感嘆の声を漏らす。
「おお! 虹ではないか!」
「……綺麗」
「本当だな」
零すようにナマエが言って、シドも同意を示した。まるで一枚の絵画のような光景だった。
「わたし、きっとこの虹を一生忘れません」
しみじみとナマエが言った。
少し前に知り合ったハイリア人の友達のことを寸のところで助けて、背負って、今一緒に、同じ虹を見ている。摩訶不思議で、この先二度と起こることなんてないような奇跡のような一瞬だ。
ふと亡き姉のことが思い浮かんだ。なぜ浮かんだかはシドにも分からなかった。
「オレも、忘れられないな」
シドの呟きは、黄昏時を彩る橙色の中に溶けていくようだった。二人は夕焼けに包まれながら、暫くその虹を眺めていた。
