彫刻師と王子6

 雨と泥でぐちゃぐちゃになりながらも立ち上がるが、右足首が痛くてまともに歩くことはできなさそうだ。手や腕が無事だったことにホッとしつつ、右足を庇い歩いてなんとか岩の下へと身を寄せる。岩の下はナマエが立っても余裕なくらいの高さがあった。漸く雨がしのげたことにホッとしつつ、座り込む。
 ざあざあと激しく雨が打ち付ける音が聞こえてきて、まさかこの岩が落ちてくるなんてことないよね……と不安に思いつつも、腹を括る。足を怪我して全身ずぶ濡れのナマエが現状取ることのできる最善手はここで雨が止むのを待つことだ。
 雨具もなければ、手当をする道具もない。完全に油断していた。念のためリュックの中身を探るが、何度探しても今日採った食料と、先日作ったダサいアクセサリーしかなかった。これには思わず大きなため息をついた。手慰みにダサいアクセサリーを手に持って、なんとなしにその質感や形を確かめながら、思考を巡らせた。
 そういえば以前シドがナマエがルト山を転がる夢を見たと言っていたが、まさか正夢になるとは誰が思っただろうか。少なくともナマエは思わなかった。次シドに会ったらこの話をして、笑ってもらおう。などと取り留めのないことを考えて、ふと、その前に、どうやってここから帰ろうか、と考えて痛む足首を見て頭を悩ませる。足を引きずって下山をするしか選択肢はないが、かなり時間がかかりそうだ。都合よく力持ちと言われているゴロン族が通りかかったりしないかな……なんて淡い期待を抱くが、こんな雨が降りしきる中で、ゴロン族どころか誰一人通りかからない。

「……寒い」

 段々と濡れた衣服がナマエの体温を奪っていき、寒さを紛らわすために自分の体を抱くように擦るが、気休めにもならない。雨は激しさのピークは超えたが、未だ止む気配もなく降り続いている。何もすることがないナマエは、雨を眺めながら自然と昨夜のシドとの会話を思い出していた。
 使い手の数だけ理想の武器があると彼は言っていた。それならばシドの理想の武器はどんなものなのだろうか。彼は長身で巨躯なため、短剣ではないだろう。いつも剣を携えているが、やはり剣がしっくりとくるのだろうか。それともゾーラ族に馴染みのある槍か。いずれにしろ、彼の大きな身体ならば、それなりの大きさのものになりそうだ。それから装飾は華美な方が彼に似合う。どれだけ絢爛な飾りを入れても、それが彼自身の輝きを上回ることは絶対にない。それくらい彼は華やかだ。しかしあんまり装飾を入れすぎてもゾーラの武具に共通する、洗礼された澄んだ美しさが損なわれてしまう気がする。
 などと、時に今日狩ったキノコや山菜を食べながら、ああでもないこうでもないと考えを巡らせて、はっと時計見る。お昼はゆうに超えていて、もうしばらく経てば夕暮れ時だ。考え込んでしまうとつい時間を忘れてしまうのは自分の悪い癖だ。さらに曇天ということもあり、常に世界は薄暗く、時間の経過を感じさせなかった。
 このまま夜まで止まない可能性もあると考えたナマエは、細心の注意を払いつつ重い腰を上げた。それからお手製ダサい首飾りはリュックのサイドポケットに無造作に突っ込んで、手についた土を払うためにパンパンと叩いた。
 ルト山は勾配がきつい箇所も多く、普通に下山するだけでも足腰を使う。右足を庇いながらではかなり大変な道のりとなるだろうから、ナマエは雨は降り続いているものの、ゾーラの里へと戻ることにした。
 雨に直接打たれるのは少々不快ではあるが、ゆっくりと下山を始めれば、眼下にゾーラの里が広がった。思わず足を止めてじっと見つめる。いつもここからの眺めは陽の光を浴びた荘厳な姿だが、今日は薄暗く雨が降っているのに、その姿はやはり美しい。寧ろ雨に濡れて、それはそれでしっとりとした美しさを感じる。
 そんなことを考えながらも再び足を動かそうとしたその時だった。雨音に混じって微かに草が擦れるような音が聞こえて思わず動きを止める。なんとなく嫌な予感がした。
 背筋を這い上がってくるその悪寒に導かれるように、音のした方へと視線をやれば、緑色のリザルフォスが草に身を隠すように屈んでこちらを見ていた。心臓が凍りつき、悲鳴にならない悲鳴が喉奥でヒュッと鳴る。
 リザルフォスはトカゲに近似した魔物で、とても俊敏な動きで襲ってくる。足を怪我した状態の今のナマエならば、追いかけられたら間違いなく逃げられないだろう。しかも仲間とともに行動していることも多いため、この一匹だけでなく、周辺にはまだリザルフォスが潜んでいる可能性もある。
 二人は見合ったままで動かない。その間も雨はひたすらに降り注いでいて、まるで二人の時だけが止まってしまったようだった。ここで少しでも身動げば、それが合図になって時が動き出すことだろう。
 心臓が早鐘を打ち、頭が真っ白になっていく。リザルフォスの手には幸い武器は握られていないものの、その鋭い爪で切り裂くことはできるだろう。対するナマエは護身用に装備している短刀だけだ。相当近づかなければ攻撃を与えられない。
 ナマエはボコブリンやチュチュ、キースくらいの魔物ならば追い払ったり倒したりすることもできる。けれどリザルフォスを倒したことは一度だってない。だからかもしれないが、このリザルフォスを倒す、あるいはこの場から逃げ切ることができる未来がうまく想像出来ないのだ。
 ここで死ぬのかもしれない。この逃れようのない運命に、じりじりと心が絶望に満ちていく。
 そして先に動き出したのはリザルフォスだった。機敏な動きで左右に蛇行しながら間合いを詰めてくる。

―――殺される

 あっという間にナマエの前にやってきたリザルフォスが、長くて太さのある尻尾を振り回してナマエの横腹に打ちつけた。その勢いのまま吹き飛んだナマエに、一拍遅れて痛みが襲いかかる。倒れたナマエの上にすかさずリザルフォスが乗る。その重みが、逃れられない死を予感させた。
 ナマエの上には無機質な瞳でナマエを覗き込む魔物の姿があった。細く長い、先が二股に分かれた舌を出し入れして、まるで舌なめずりしているようだった。

―――死にたくない

 父や母の姿が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。怒られたこともあったけど、優しい二人。最後に交わした会話は、なんだっただろうか。ウオトリー村の入り口で見送りに来てくれたとき、母は泣いていて、それを見て父は困ったような顔をしていて。すぐ会えるよ。そんな言葉をナマエは言った。

―――死にたくない

 一年経って立派な職人になって帰ってくるはずだったのに。こんなところで死にたくない。死ねるわけがない。どうしてリザルフォスに殺されて、食べられなければならないのだ。こんな魔物の血肉になるために生まれてきたわけじゃないのに。けれども現実は非情で、どれだけナマエが心の中で生きたいと叫んでも、それは叶わない。

―――生きたい

 生きたい生きたい生きたい。願いを唱える度に頭の中が、頭の中が恐怖で塗りつぶされていく。

―――助けて

 ふと、ゾーラ族の友の姿が浮かんだ。お洒落で、大きくて、いつもナマエにたくさんのことを教えて、与えてくれる。笑顔が素敵で優しさに溢れるゾーラ族の友。

―――助けて、シド!

 そう叫びたかったが、恐怖で喉が閉まってしまい、そこから音が出ることはなかった。
 リザルフォスの鋭い爪が構えられた。もう駄目だ、と死を覚悟してぎゅっと瞳を瞑った。
 その時だった。

「ナマエ!!」

 初めは幻聴が聞こえているのかと思った。ナマエも、ナマエの上に乗っているリザルフォスも声のした方を見遣る。
 ナマエとリザルフォスの二人しかいないと思われたこの世界に、静寂を切り裂いてそのひとは現れた。

「シド……!」

 雨の降り注ぐ曇天の大地に、鮮やかに光彩を放つ紅色のゾーラ族が見えた。彼はこちらに向かって走ってきている。それが光明に見えて、恐怖と絶望で塗り潰されていた心が、一気に希望に塗り替えられていく。
 急速に思考が働き出したナマエは、リザルフォスに目を遣った。シドの相手をするか、ナマエをこのまま攻撃するか考えているようだった。この隙にナマエはリュックのサイドポケットに入れた首飾りを取り出して、無我夢中でリザルフォスの身体に投げつける。本能の赴くまま咄嗟にやったことだが、見事それは命中して、結果的にリザルフォスの意識が一瞬削がれて、悲鳴を上げて天を仰いだ。

「うおおおおおおおお!!!」

 雄叫びが聞こえてきて、不意にナマエの上にかかっていた重みが消えた。一瞬何が起こったかわからなかったが、リザルフォスが天を仰いだその一瞬の隙をついてシドが剣で斬り掛かって、リザルフォスが吹き飛んだのだ。ナマエは上体を起こして事の顛末を見守る。
 シドは間髪入れずに間合いを詰めて、お腹を上にしてのたうち回るリザルフォスにとどめを刺した。
 そうして再び、雨音だけが世界を支配する。

「……ド」

 無意識に喉が震えて、声を出していた。生きている。その事実に、身体の底から喜びが溢れ出て、視界が滲んでいく。ナマエは殆ど何も考えずに、言葉を口にしていく。

「シド……怖かった……死ぬ……かと……思ったわいさ……! シド……シド……!」

 涙で溢れたナマエの視界ではすべてがぼやけてしまって殆ど分からないが、優しい紅色が近づいてきたと思ったら、身体に腕が回されて暗闇に染まる。けれどこの暗闇は全く怖くなくて、寧ろ安心感をくれるものだった。シドはまるで雨からナマエの身体を隠すように、包み込んでくれたのだ。

「心配したゾ……!」

 シドの声が頭のすぐ上から聞こえてくる。シドの胸の中でナマエは、しゃくり上げながら大泣きをした。シドは幼子をあやすようにポンポンと背中を優しく叩いて、ナマエが落ちつくまでずっと抱きしめ続けた。彼の大きな身体がナマエを包み込むから、冷たくなった身体も僅かに温かくなる。

「シド、怖かった……っ! ほんとにっ、ほんとにっ!」
「ウン」
「怖かった……怖かったの……死ぬって……シド、助けてって! 思った、わいさッ!!」
「ウン、遅くなってすまなかったな」
「そしたら……シ、シド、がっ……来てくれてぇ……!」
「ウン、間に合ってよかった」

 ナマエがなにか言えばシドは優しく相槌を打つ。それを繰り返しながら暫く経ち、漸く落ち着きを取り戻したナマエは呼吸を整えて、涙を拭って大きく息をついた。シドはナマエから離れて、改めてナマエの顔を見た。ナマエの顔は泥と涙と鼻水で、文字通りぐしゃぐしゃになっていた。
 ナマエは命を救ってくれた恩人の顔を見ると、心の底から礼を述べた。

「……シド、助かりました。本当に、本当にありがとうございました」
「いや、いいんだ。キミがまだ帰らないと聞いて、嫌な予感がして慌てて来たんだが……間に合ってよかったゾ」

 心底ホッとしたような表情でシドが言う。ナマエは胸がギュッと締め付けられるのを感じた。この気持ちは一体……と不思議に思いつつも、再び「本当にありがとうございました」と礼を述べる。
 と、そこでシドが何かを思い出したように「あっ」と声を出す。

「そういえば先程、リザルフォスに何か投げつけていたな。探してくるゾ」

 そう言ってシドは投げつけたものを探しに行こうとするので、ナマエは慌てて制止の言葉を投げる。

「あ、いいんです。それ、初めて作った失敗作の首飾りで、咄嗟に投げちゃいました」
「ナマエが作った初めての首飾りなら、それだけで価値があるではないか! あ、見つけたゾ」

 事もなさげにシドが言ってのけた後、シドは草むらからそれを拾い上げてナマエのもとへと戻ってきた。シドが手に持っているそれは紛れもなく、ナマエが先日作ったダサい首飾りであった。全力でリザルフォスに投げて命中したものだから、形が歪んでいる。

「どこが失敗作なんだ? とても美しいではないか!」

 ナマエと首飾りとを見比べたのち、シドは真っ直ぐな視線をナマエへと向けた。その瞳はいつも通り嘘なんて感じさせない美しい琥珀で、ナマエの頬に朱が差した。

「し、失敗作ですっ! 拾ってくださり、ありがとうございます」

 気恥ずかしくてナマエはシドの手からそれを受け取ると、そそくさとリュックのサイドポケットに押し込んだ。するとシドは残念そうな声色で、

「オレは素敵だと思ったゾ」

 と言うと、笑みを浮かべた。ナマエは、彼は実直で嘘をつかないと思っている。だとすると今の言葉も、嘘ではないということになる。なんだか恥ずかしくて、ナマエは視線を逸らす。

「あんなのでよければいつでも作ります」
「いいのか!?」

 ナマエはシドの嬉しそうな声を聞きながら、ふと頭に思い浮かんだことがあった。それはルト山の岩の下で雨宿りをしているときに、何度か考えたことだった。少し迷った後に、躊躇いがちにそれを口にした。

「あの、昨日言っていた武器の制作のことなんですが……シドのことを考えて作ってもいいですか」

 シドはナマエの言葉を聞くと、ほんの僅かに目を見開いて固まってしまった。その様子を見たナマエは瞬時に後悔した。これは間違いなく迷惑に思われたに違いない。そう思ったら、どんどんとネガティブな方に考えが転げていく。先程の首飾りだって本当はダサいと思ったけど、魔物に殺されかけて九死に一生を得たナマエの心情を慮って、お世辞を言ったのだ。武器の制作を許可したら、お付き合いでそれを使わなくてはならなくなる。そんなの迷惑に決まっている。
 ナマエは顔面蒼白になりながらも撤回を口にしようと唇を開いたその時、シドが先に口火を切った。

「……本当にいいのか?」

 まだ呆気にとられたような様子で、シドは問う。

「はい、でもあの、やっぱり気にしないでください。そもそも無名で、修行中のわたしの作った武器なんて―――」
「オレで良ければぜひ作って欲しいゾ!」

 ナマエの言葉を遮って言ったシドの目が、まるで無邪気な少年のような輝きを灯している。声も心なしか大きくなっていて、今度はナマエが呆気にとられた。

「いいん……ですか?」
「あぁ! こんなに嬉しいことないゾ! 昨夜言っていたことだよな?」

 彼の言う通り、昨夜「サカナのねや」からの帰り道でばったりと出くわしたシドに話したことで間違いない。―――達成したい目標の一つが新しい武器を作ること、けれど煮詰まってうまく行っていないこと。―――ナマエが肯定を示すため、躊躇いがちに頷けば、シドは言葉を続ける。

「キミが目標としていることを、オレのための武器で達成できるなんて、オレも嬉しい! 惜しまず協力するゾ! あぁとても楽しみだな! ……と、すまない。今は里に帰ることが先だな」

 シドに言われて、ナマエもハッとする。ルト山を覆っていた分厚い雲は徐々に薄れてきたものの、今もまさに雨に振られ続けているのだ。シドの言う通り、話は里に帰ってからでも遅くはない。そしてそれと同時に、足を怪我していたことも思い出す。思い出した途端、まるで主張するかのように右足首が痛みだした。

「あの、すみません……実はわたし、足を挫いてしまって……」
「そうだったのか!? すまない、なおさら早く里に戻らねばなるまい! さあ、帰ろう」

 帰ろう、と言われて不思議な気持ちになる。しかし少し考えればその通りで。ナマエは今シドと同じゾーラの里に住んでいて、二人が帰る先は同じ。ただそれだけのことだけど、なんだかそれがとてもくすぐったくて、嬉しくなった。

「オレの背中に乗るといい」

 そう言ってシドはくるりと向きを変えると、ナマエに背を向けて乗れるようにした。ゾーラ族は上半身を使って泳いだり滝を登ったりするため、下半身に比べて上半身が大きい。特にシドくらいの大きさになると、とても大きかった。

「ありがとうございます」

 右足を使わないようにして慎重に立ち上がり、彼の背中に跨ると、首に抱きつくように腕を回した。シドの頭から伸びている長い尾鰭はナマエの背中に垂れてきて、その硬さと柔らかさを兼ね備えた独特の質感に、彼はゾーラ族であることを改めて認識する。
 シドは両手をナマエのお尻を支えるように組むと、立ち上がった。誰かにおんぶをされるのはとても久しぶりだった。急に高くなった視線で景色を見れば、いつも見ている景色よりも高くて、それだけのことなのにいつもの景色がガラリと変わる。

「よし、行くゾ」
「お願いします、シド」

 彼が歩みを進める度にその振動が伝わってきて、とても心地よかった。昔、父におんぶされたことを思い出した。と、そこで、シドに伝えることを思い出して口を開いた。

「以前シドは、わたしがルト山を転がる夢を見たと言っていましたね。奇しくも正夢となって足を怪我しました」
「リザルフォスから逃げる時に転んでしまったのか?」

 それだったら仕方ないと思ってもらえると思って、事実の捏造を図ろうと僅かに逡巡した末、結局正直に打ち明けることにした。

「……いえ。急に雨が降り出したので、走って雨宿り先を探してたら転んでしまいました」
「山道を走っては危ないではないか!」
「おっしゃる通りでございます」

 シドの言うことは至極真っ当なことで、ただただ平伏を示すかのように同意した。

「とすると、あの夢は女神ハイリアからの天啓だったのだな」
「む……違うと言い切れないです」
「全くキミは、本当に危なっかしいな。リザルフォスに乗られている姿を見た時は寿命が縮んだゾ」
「うう……本当にシドがきてくれてよかったです」
「食料はオレが届けるから、ナマエは今後ルト山で一人で食料をとりにすることは禁止だ! どうしても行きたいときはオレに相談するように」
「ええ! 悪いですよ」

 まさかの提案に思わず身じろぎつつ言う。そして単独でのルト山の入山を禁じられるとは。けれどシドの立場からしたらそう言うのも無理はない。一人で山に行って、怪我をして、挙げ句死にかけたのだから。シドはそんなナマエの心情を知ってか知らずか、言葉を付け加えた。

「あんなことがあったんだ。今もどこかでキミが危険な目にあっているかもしれないと考える方が、オレの心臓に悪いゾ。もしも、どうしても行くというのなら、すぐに里に帰れる範囲にすること。あるいはオレが同行するゾ」

 シドが心配をしてくれていることに対して温かい気持ちになる。と同時に、胸がきゅっと締まったような気がして、内心で首を傾げる。
 それはさておき、彼の譲歩案には賛成だ。ナマエとしても暫くは怖くて山に行けるような気がしない。一頻り頷いて返事をする。

「わかりました。そうします」

 彼がチラと振り返ると、琥珀色の双眸がすぐ近くに迫った。改めて顔の近さや密接具合を感じてナマエは顔に熱が集中するのを感じて、何度か瞬いた。先ほどからシドのことを意識している自分がいて、それが不思議で仕方なかった。
 シドはすぐに視線を前方へ戻したが、それきり彼は何も言わなかった。
 ズンズンと下りの山道を進んでいき、ルト山の中腹に差し掛かろうとした時だった。突如目の前に現れたそれに、ナマエは息を呑んだ。そして気がつけばシドに声をかけていた。

「シド、見てください……!」
「ン? おお! 虹ではないか!」

 黄昏が迫り橙色の光が雲の隙間から差したゾーラの里の上空に、大きな虹色のアーチが架かっていた。シドは足を止めて、二人でしばらくその虹に見入っていると、ルト山に降り続いていた雨もいつの間にか上がっていった。

「……綺麗」
「本当だな」

 虹だったら何度だって見たことがある。ウオトリー村はスコールが多いので、雨上がりにまるでご褒美のように美しい虹の橋が架かっているところを幾度となく見ている。
 けれども今ここで見た虹は、心に強く迫る美しさがあった。それは彫刻作品のごとく美しいゾーラの里に架かっているというのもあるし、九死に一生を得たあとということもある。けれど何よりも、ナマエの命を救ってくれたシドの背中で、シドと一緒に同じ虹を見ているということが、きっと一番大きな理由だろう。
 美しいものを見て、心の底から震えるような感覚を初めて味わった。

「わたし、きっとこの虹を一生忘れません」

 網膜に焼き付けるように、その虹を見つめながら呟くようにナマエは言った。これからきっと、虹を見る度に今日のことを思い出すだろう。痛くて、怖くて、苦くて、でも甘い、そんな一日。そしてナマエの命を救ってくれた大切な友達のことを。

「オレも、忘れられないな」

 しみじみと呟きを落としたシドの表情は、窺い知れない。彼がどんな表情で、どんなことを思っているのか興味が湧いたが、それには蓋をして、じっと虹を眺める。二人は夕焼けに照らされながら、その虹を暫く見つめ続けた。

◆◆◆

シド王子って、生まれ育った環境や立場的に“友達”と呼べる存在が少ない、もしくはいないのではないかな……と考えています。王子様だと思えば、年が近くて仲が良くても自ずと対応も、一線引くようになります。生まれたときから王子で、根っこから王子の、王子オブ王子のシド王子ですが(王子王子うるさくてゲシュタルト崩壊しますね)、そんなシド王子も、“シド”としての人格も勿論あると思っていて、それはブレワイでミファー像を眺めているときのシド王子が近いのかなと思っています。何事にも熱いシド王子の、ほんの僅かにフラットな瞬間。それを見せられるのが、“友達”。だから、ヒロインの前では「シド王子」としての振る舞いではなく、「シド」の振る舞いが多いようにしています。(こんな突然の長くてよく分からない解説に目を通していただいてありがとうございます……!)