巡る軌道は離れる

 彼女と付き合い始めて、それなりの時が経った。非合理的な存在だと思っていた恋人という存在は、今や相澤にとって、合理的・非合理的という枠を超えて、もはやいるのが当たり前の存在になっていた。まさかこんな存在ができるとは、数年前の相澤には想像もつかないどころか、信じられなかっただろう。恋人―――名前―――は、相澤の中で、いるのが当たり前で、何かを考えるときには必ず相澤の内側にいる。

 雄英高校が全寮制になったことから、生徒や教職員は勿論のこと、基本的には雄英に関わるすべての職員が敷地内の寮に住まうことになった。職員に関しては強制ではないが、基本的には入寮という方向で、名前も女子職員寮に入居している。

『職場近いし、寮の方が安いし新しいし、何より消太さんとすぐ会えるのでいいことづくめですよね!』

 そんなことを言っていた。これまでもそれなりの近さには住んでいたが、同じ敷地というのはだいぶ距離が縮まる。いつまで経っても付き合いたてみたいな新鮮な気持ちで相澤のことを好いてくれている様を見るのは、悪くない。
 職場と住まいが殆ど一緒になることによって、プライベートと仕事との棲み分けが曖昧になるというのが嫌という人も多いが、相澤は別段気にしていなかった。しかし、寮ということでそれなりに制限も生まれる。

『学生時代に戻ったみたいでちょっとドキドキしますね。誰にも会わないように消太さんの部屋に忍び込むのとか、楽しそうです』

 全く、能天気で彼女らしい。勿論、異性の連れ込みは禁止、なんていうルールは、自立したいい大人にはないので、あくまでも気持ちの問題だ。
 だが夜の営みについては気を使う部分がある。ないとは思うが、万が一部屋から漏れ出てしまったら色々と終わりだ。何がとは言わないが。

 休日の昼間ではあるが、持ち帰ってきた仕事を片付けて一段落したところで、相澤は気分転換にコンビニでも行こうかと思い、寮の階段を降りている時だった。

「そろそろ限界かなって思ってるんです。だいぶ気持ちも冷めちゃって」

 階段を降り終えた先、一階の共用部であるエントランスから突如聞こえてきた声には聞き覚えがあって、相澤の心臓が嫌に深く脈打つ。それはまごう事なき相澤の恋人の、名前だ。話の内容はわからないものの、あまりいい話ではなさそうだ。階段を降りていた足はぴたりと止まり、気がつけば気配を殺してその場に立ち尽くしていた。

「そうなのか? 意外だぜ、楽しくやってるもんだと思ってたんだが」

 この声は……山田だ。声が小さいから一瞬判断に迷ったが、この教員寮でこの声は山田以外はあり得ない。階段を降り切らないとエントランスの様子は伺えないため、今相澤がいる場所からではどんな様子なのかはわからないが、名前と山田が二人でエントランスで話しているらしい。いったいなぜ? 確かに二人は仲がいいが、休日の昼間に二人で会うくらいか?

「最初はすごく楽しかったです。毎日時間を忘れるくらい夢中でした。でも最近はなんていうか、義務で続いているみたいな感じで……これってあんまりよくないことですよね」 

 これは、名前が山田に相談しているのだろうか。何のことだろうか、と考えるが、嫌な予感が先行してしまう。

「義務感で続けるのも嫌ですし、何より昔と比べて楽しいと思えなくなってしまって」

 聞き慣れた名前の声なのに、まるでよく似た他人の声みたいに聞こえた。頭が痛い。どんどんと目の前が暗くなっていき、視界が狭くなっていく。身体がこの現実に拒絶反応を起こしているみたいだ。

「あー、それはあるよなァ」
「それってもう、潮時なんじゃないかなって思ってまして……」

 この会話から導き出される結論はひとつ。順調だと思っていたのは相澤だけで、とっくに名前はこの関係を義務だと思っていた、ということだ。
 立っていられなくて、壁に背を預けてズルズルと座り込む。どちらかの気持ちが変わってしまえば、どんなに片方が望もうがそれは終わりを迎える。残念ながらそれは抗えない事実だ。

「名前ちゃんがこれ以上は無理だと思うなら、俺ァ止めねぇぜ。まあ、俺としては残念だけどな……」
「わたしから始めたのに、すみません」

 永遠に続くものなんてない。どんなものも、年月を経て少しずつ変わりゆく。有為転変だ、わかっている。わかっているけれど。
 フラフラと立ち上がり、気がつけば階段を降り切って、エントランスへと向かっていた。案の定、エントランス共用部のソファには向かい合うように名前と山田が座っていて、二人は相澤に気づくと驚いたように声を漏らして迎えた。

「相澤先生! 今連絡しようと思ってたんです」

 名前がいつも通り、その顔に笑顔を浮かべていった。その内側に隠された本当の心は、いつから居たのだろうか。幸か不幸か全く気づかなかった。
 山田は「邪魔者は立ち去るぜ」と言って寮から出ていった。
 相澤は山田が座っていたところに腰掛けて、名前と向かい合う。連絡しようと思っていたということは、今、山田にいっていたことを相澤に伝えようとしていたのだろうか。それはそれで構わないが、相澤だって伝えたいことがある。
 以前の相澤だったら、別れたいと言われれば、はいそうですか別れましょうお疲れっしたハイ解散。で終わっていた。けれど今、相澤は、別れたくないと思っている。名前を離したくない。説得できるものならば説得して、たとえ僅かな延命だとしても名前と一緒にいたい。恥も外聞もかなぐり捨てて、名前を繋ぎ止めたい。その一心だった。
 こんなにも強い思いを抱いていたなんて、自分が一番驚いている。きっと、相澤を変えたのは名前のまっすぐな気持ちだ。それなら、相澤のまっすぐな気持ちも名前に届けたい。たとえ何も変わらなかったとしても、やれる限りのことをやりたい。
 名前と向き合いながら頭の中で言いたいことを整理して、相澤は口を開いた。

「悪い、さっきの会話聞こえてた」
「あ、マイクとのですか」

 大して驚いた様子もなく名前は言った。それなら話は早い、とでもいうところなのだろうか。相澤は言葉を続ける。

「名前の気持ち、気づかなくて悪かった。俺たちは同じ気持ちでいると思っていたが、少しずつずれてたんだな」

 共に描いていた軌道は、少しずつずれていて、それは少しだからその時は全く気づかなくて、気がついたときには手が届かないほど遠ざかっている。
 それでも相澤は手を伸ばす。届くまで、何度だって伸ばす。

「だが俺は変わらず名前が好きだ。だからこれからも一緒にいたい。名前の気持ちが離れてしまったなら、引き寄せたいと思っている」

 名前は驚いたように瞠目しているが、その顔も、耳も、赤く彩られている。照れているのだろうか。それはなんというか、反応がおかしいような気がする。

「あ、ありがとうございます。急にびっくりしました。わたしも好きですよ」
「でも、もう俺と付き合うのは義務なのか」

 自分で言っていて、刃物で胸を抉られているかのような痛みが襲う。相澤の言葉に、名前は焦ったようにかぶりを振った。

「そんなことありません! そんなわけないじゃないですか、消太さんのこと大好きなのに、どうしてそう思うんですか?」
「……ん?」
「なんかさっきから話が読めないんですが、わたしたちもしかしたら決定的な何かを勘違いしてたりしませんか?」

 それは相澤も感じ始めていた。どうにも話が噛み合っていないような気がするのは、多分何かが食い違っているのだ。事実を整理するために、相澤はこの話に至るまでの流れを端的に名前に説明した。

「さっき山田に言ってただろ、もう気持ちは冷めてて、俺と付き合うのは義務で続いてて、そろそろ潮時だって」
「……まさか」

 名前は息を呑み、神妙な顔で呟いた。そして次の瞬間には、口元に手を添えて、吹き出すと、腹を抱えて笑い出す。名前はこの噛み合わない会話の原因が分かったのだろうか。大笑いする名前をなんとも言えない表情で見ながら笑い終わるのを待つ。名前はひとしきり笑ったあと、まなじりに浮かんだ涙を拭って、はー、と息を吐くと、ようやく口を開いた。

「マイクと喋っていたのは、ゲームの話です」
「ゲーム?」

 たまらずおうむ返しする。

「はい。わたしがマイクを誘って一緒にスマホでゲームを始めたんですけど、最近は飽きてきちゃって、もう惰性で続けてて、始めた頃みたいに楽しいと思えなくなっちゃいまして。消太さんに会いに寮まできたら、たまたまマイクと遭遇したんで、丁度いいからもうゲーム辞めようかなってことを話してたんです」

 つまり、相澤は勘違いをしていたということか。スマホゲームの話を相澤との関係性だと勘違いしていた、と。タネがわかって、安心感と倦怠感がないまぜになって、どっと脱力した。
 身体の中から負の要素を放出するように相澤は深く息を吐くと、

「…‥紛らわしすぎるだろ」

 かろうじでそれだけ呟いて、目元に手を当てる。なるほど、スマホゲームの話ならば筋が通る。そう言われて思い返してみればすべてスマホゲームの話だ。とても紛らわしいが。

「すみません、まさか聞かれてると思わなくて。でもそのおかげで、急に消太さんから好きって言ってもらえちゃって……不謹慎ながらとても嬉しかったです……」
「勘違いした俺が悪かったが、本当に心臓に悪いな。名前がいなくなるって考えたら、目の前が真っ暗になった」

 一人は快適で、身軽で、安心だったのに、今では二人が当たり前で、一人が欠けてしまえば何もかもが瓦解してなくなってしまうかのように思えた。それは孤独で、言いようのない恐怖だった。彼女はただ相澤の中に棲みついただけでなく、どうやらもう相澤の一部として相澤と混じり合っていて、切り離すことができないらしい。

「さっき俺に会いに来たって言ってたな。丁度いい、なんとなく悔しいから連行だ」

 名前の手を引いて、来た道を戻っていく。コンビニなんてもうどうでもいい。連行先はもちろん相澤の部屋だ。

「えっ悔しいって。消太さんが勝手に勘違いしたのに」

 名前の声色は楽しげで、連行に抗う様子はないどころか、嬉しそうだ。

「そういやさっき、俺に連絡しようとしてたって言ってたがどうかしたのか」
「あ、もう大丈夫になりました。今から会えませんか? って聞きたかったんで、叶っちゃいました」
「何か用事だったか」
「えと、見て欲しいものがあって……」
「なんだ?」

 階段の途中で立ち止まり、手を離して振り返る。すると名前は、もじもじと両手を揉みながら、言いにくそうに視線を泳がせている。相澤が視線で続きを促せば、名前は声を潜めて言った。

「その、新しい下着を買ったんで……見て欲しいなって」
「……」
「あ、呆れました? ごめんなさい、でもすごく可愛くて、わっ!」

 再び名前の手を引っ張って、黙々と部屋へと向かっていく。時間を惜しむように素早く部屋に滑り込むと、あれよあれよという間にベッドの上に組み敷く。

「しょ、消太さん? なんか言ってくださいよ」
「可愛い下着はすぐ脱がせるから、あとでじっくり見させてもらうよ」
「え、わ、―――んっ」

 数日ぶりの食事にありつくみたいに、ガツガツと余裕のない貪るようなキスを繰り返す。やわらかい唇の隙間から漏れ出る吐息すら食い尽くし、やがてその隙間をこじ開けて舌先で侵入すると、名前の舌を蹂躙していく。そうしながら、邪魔な服を脱がせていく。

 名前を失うと思い、真っ暗な絶望の淵に立たされた。それが勘違いだと分かった今、どうしようもなく名前の全てを欲していた。しかも可愛い下着を見せに来たなんて、こんなのはもう美味しく召し上がってくださいと言われているようなものだ。それならば、余す所なく食べ尽くすまでだ。周りに何が聞こえようが構わない。本能のまま、愛する女を味わい尽くす。こんなとき、俺のものだという証を注ぎ込みたいと思うのは、雄の本能だろうか。相澤の遺伝子が名前の中に入り、混じり、やがてひとつになる。……いや、流石にそれはマズイか。と、かろうじで残っている冷静な自分が諫める。

 今日も二人は同じ軌道を描く。多少ズレたとしても、固く手を繋いでいれば引き戻すことができる。その手が緩んだら繋ぎ直せばいい。そうしていつまでも、飽きるほど一緒にいたいと願う。

◆◆◆
スマホゲームをやってて、ふと思いついたまあまあしょうもないネタでした。ああこれもう惰性で続けてるな…でも辞めるのは惜しいな…っていうのを考えてたらふと思いつきまして! 巻き込んでしまいました。相澤先生ごめんね。

2024-08-27