一緒に住むことになったとはいえ、高明の家には客用布団などというものはない。名前に使ってもらう部屋も、今現在は室内干しした洗濯物が干されている。とてもではないが、すぐにきてもらうのは難しい状況だ。今日のところはホテルに泊まってもらい、明日、有休をとって必要なものを買いに行くことになった。
「そんな急にお休み取れるんですか? わたしはいつでも平気ですよ、一度東京に戻って、高明さんのお休みに合わせてまた長野に来ますから」
そう名前は言ったが、一度戻ったら考えが変わってしまいそうで、高明は嫌だった。鉄は熱いうちに打てという。やっぱり東京で頑張ってみます、なんて言われたくない。そばで見守っていないと、今にも溶けて消えてしまいそうで怖かった。
「上からは有休を消化するように言われているので丁度いいです。仕事も一段落ついているところですから」
本当は、今日残してきた仕事の残務もあるし、朝イチから会議も入っている。しかし、残務は明後日の自分が頑張ればいいし、会議は自分が出席しなくても問題のないものだ。それに有給を消化するように言われているのは本当だ。何か事件が起こらない限りは休めるだろう。
「それなら……すみません。何から何まで」
本当に申し訳なさそうに頭を下げるので高明は頭を振った。
「いえ、私がそうしたいんです。……では明日、10時に迎えにきますね」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
長野駅近くのビジネスホテルに到着すると、二人は別れた。“おやすみなさい”、この言葉を久々に言った気がして、不思議な感慨に包まれた。
この後どうしようかと考えて、高明は一度警察本部に戻ることにした。上長がまだいたら明日の休みを申請しようと考えていたのだが、生憎いなかった。その代わりに好奇心を隠しきれていない―――否、隠すつもりのない、幼馴染、上原由衣と大和敢助がやってきた。
「よお高明、俺が外出中に高明を訪ねて女が来たって言うじゃねえか」
「一体どういう関係なの? 二人が消えた後、すごい騒ぎだったんだから」
「皆さんが邪推するような関係ではありませんよ」
肩をすくめれば、ずいと敢助が詰め寄ってくる。
「じゃあどういう関係なんだよ、高明」
彼女のプライバシーに関わることなので許可を得なければならないし、一から説明すれば長くなる。いずれは顔を合わせるようになるのだろうから、二人には会って直接紹介したほうがいいだろう。特に由衣は同性だから、慣れない土地に同性の知り合いがいるのは心強く思うはずだ。それに、今日のところは早く帰って家を片付けたい。
「いずれ紹介しますよ」
由衣はなぜか「紹介!?」とテンションを上げている。これ以上の追求を逃れるために、高明は立ち上がった。
「明日は急用ができましたのでお休みをいただきます。すみませんが、会議はお願いします」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり」
由衣はニマニマと笑みを浮かべて、いかにも楽しそうである。その笑顔を見ていたら、ふと考えが浮かんで顎をさすった。
「由衣さん。一つ、確認して欲しいことがあるのですが……」
+++
熱いシャワーを浴びながら、今日一日を振り返る。夕方突然現れた景光の元彼女名前、景光の失踪、意味深な言葉、残した手紙、ゼロという男。
それにしてもまさかこんなことになるとは、と苦笑いした。同居を提案した張本人だというのに、高明は今この状況が、夢でも見ているようでならなかった。
どうしてあんなにも引き留めたかったのだろう。あのとき、なぜだか強い感情に突き動かされた。気づけば一緒に住もうと言っていた、恋人でもない人間に。東京に帰ってもらって、何か分かったら情報を交換し合うだけでもいいのに。けれど藁にもすがるような思いで高明を訪ねてくれた名前を、どうにか繋ぎ止めたかった。楽しく食事をして、夜はぐっすり眠れるようになってほしかった。
ふとひとつ、心配が首をもたげて、気づけば声に出ていた。
「……臭くないよな」
清潔感については気を遣っているつもりだが、もし臭かったら……。そう考えたら居ても立っても居られなくて、いつもより念入りに身体を洗い、部屋の掃除をした。
+++
高明に送ってもらった名前は、電気もつけずにホテルのベッドに腰掛けると、大きく息を吐いた。本当に色々なことがあった。本当に、色々と。
そのままバタンと後ろに倒れると、目を瞑る。今日起きたことのすべてに現実感が伴わないのは、土地勘のない長野という場所だからだろうか。
いつか景光が、僕の地元に一緒に行こうね、と言ってくれたことがあった。そのとき彼は、なぜ長野を離れることになったか、彼のトラウマにもなっている深い傷の刻まれた過去を教えてくれた。
彼がまだ小学校一年生の時に、家にやってきた男に両親が惨殺された。景光は隠れて生き延びたものの事件のショックで記憶障害や失語症を発症してしまった。環境を変えるために東京の親戚に引き取られて、長野を離れることになった。そこでゼロと出会い、少しずつ回復していった。しかし今でもあの時の夢を見るし、時折フラッシュバックするのだという。犯人はまだ捕まっていなくて、警察になって少しでも情報を集めたいと思っている。
一通り話をし終えた景光は、眉を下げて微笑んだ。
『今まで言えなくてごめんね』
その瞬間、名前の胸がギュッと締め付けられた。そんなの当たり前だよ、と言って、名前は今にもバラバラに砕けてしまいそうな景光のことを抱きしめた。
『辛いこと、教えてくれてありがとう。いつかお線香をあげさせてね』
こんなに優しい景光が抱えている、未だ癒えることのない深い傷。ただ抱きしめることしかできない自分がもどかしかった。悪夢にうなされて震えている景光を、いつか解放できればいいのに、といつも思っていた。
そして景光が警察学校に入ってから、事態は急展開を見せた。警察学校で出会った同期たちが協力して、犯人を見つけたのだ。
それから一度、景光と二人で長野へ墓参りに行った。そのとき、兄である高明にも連絡をしたのだが、確か仕事で行けないのだと言っていた。
『いつか名前ちゃんのこと、兄さんに紹介させてね。……また一緒に来てくれる?』
頬が少し赤くて、それが名前にも伝播したように皮膚の内側がぶわっと熱を持った。
―――ねえヒロくん、わたし
意識がどんどんと暗くて深いところへと沈んでいった。名前の回想は、少しずつ自分の意識から離れていく。
少し吊り気味で澄んだ川面のような瞳、羨望のため息が出るほど長くて均一なまつ毛、耳朶を包む柔らかい声、花の蜜のように吸い込まれる首筋。
『ちょっと、くすぐったいよ名前ちゃん。仕返ししちゃうよ』
首に顔を埋めて大きく息を吸い込んだ時の景光の匂いが大好きだった。
『名前ちゃん、好きだよ』
シトラスみたいに爽やかなのに、時折驚くほど色香を纏って名前を呼んでくれる声が大好きだった。
ううん、違う、大好きだ。これまでも、これからも。
ぱちん、と何かが弾けたように意識が急浮上した。真っ暗闇の世界に一瞬状況が理解できずに焦るが、身体を起こして周囲を見れば、漸く長野のビジネスホテルに泊まってることを思い出す。どうやらホテルに着いて早々、電気もつけずに眠りこけていたらしい。
「夢………か」
ぽつりと呟いた声は、夜の濃紺に溶けていった。
最近はいつも悪夢ばかり見ていたが、先ほどの浅い眠りの海で見た夢は陽だまりみたいに幸せで、だからこそそれが胸を抉って鈍い痛みとなった。
カーテンの外から見える世界はまだ夜の静けさを纏っている。部屋の電気をつけてスマホを見ると、時刻は午前3時。通知欄には“諸伏高明”の名前があり、先ほど見た夢の影響もあって一瞬景光からの連絡かと勘違いして心臓がどきりと跳ねた。高明の連絡は一旦置いておき、景光とのトークルームを開く。送っても送っても既読がつかないメッセージを送り続けて、一体どれくらい経っただろうか。
『今日、ヒロくんのお兄さんに会ったよ。それでまさかの、明日から高明さんと一緒に住むことになったの! ヤキモチ妬いちゃう?』
そのまま暗闇を見つめながらただ呼吸だけを繰り返した。暫くしてから高明から連絡がきていたことを思い出して、トークルームを開く。
『諸伏です。改めまして、本日ははるばる長野まで来て私を訪ねてくださりありがとうございました。また、不躾な提案を受け入れてくださり感謝しております。明日は10時に迎えに上がります。もし何かありましたら連絡してください。それではおやすみなさい』
丁寧な文面は彼自身を表しているようだった。感謝している、なんて。感謝をするのはこちらだというのに。じわじわと胸の中が温かくなっていく。まるで今日渡されたミルクティーのように、じんわりと、優しく。
最近はもう、誰とも連絡をとりたくなくて、メッセージがきても返せずにいた。ただひたすら、読まれないメッセージを一方的に送り続ける日々だった。だから、景光以外の人間にメッセージを打つのは久しぶりだった。
『こちらこそ突然の来訪にも関わらず、何から何までありがとうございました。一緒に住みましょうと言ってくれた件、びっくりしましたけど、嬉しかったです。明日はよろしくお願いします』
送信ボタンを押してから、とんでもなく非常識な時間にメッセージを送ってしまったと後悔したが、送ってしまったものはもうしょうがない。観念してスマホをベッドに放り投げた。
「ねえヒロくん、わたし……長野に来たよ。今度は一人で来ちゃったよ」
窓の外の世界は、まだまだ夜が続いていた。暗い闇の中、ぽつりぽつりと心許ない明かりが見える。うまく眠れず夜に何度も起きるようになってからは、本当に夜は明けるのだろうかと不安になった。ずっとこの世界は暗いままなのではないだろうか、なんて。そんなわけないのに、夜中に目が覚めるたびに考えて怖くなる。
ぐちゃぐちゃな感情はすべて夜に沈めてしまおう。
名前は重い腰を持ち上げて立ち上がった。化粧を落として、風呂に入り、早く寝て、夜から逃げなくては。多分今夜は疲れているから、いつもよりは寝られるだろう。朝が迎えに来てくれたら、新しい一日が始まるはずだ。
