風が通り抜けるようにふと聞こえてきたのは、女子生徒たちの噂話だった。
「名字先生ってなんで独身なんだろうね」
話題の主はどうやらマイクの同級生で、雄英高校で同じく教鞭をとっている名前のことらしい。マイクは何気なく足を止め、スマホを操作するフリをしながら女子生徒たちの噂話に耳をそばだてた。
「イレ先と実はデキてるって噂だよ」
「あー確かに、あの二人仲良いもんね」
あー、惜しいぜ。なんて心の中でマイクは呟く。確かに相澤と名前は仲がいいが、付き合っているわけではない。ただ、その親密さについて生徒に噂をされるのはあまりいいことではない。後でそれとなくいっておくか、なんて思っていると、「でも」と女子生徒は言葉を続けた。
「忘れられない人がいるって話も聞いたことあるよ」
「えーそうなんだ、名字先生拗らせちゃってるのか。どっちなんだろうね」
それはビンゴ、とマイクは再び心中で呟いて、歩き出した。
名前には高校時代から忘れられない人がいて、その人に思いを告げることなくその恋は永遠に叶わないものとなった。ただ、その人―――ミッドナイト―――が生きていたとしても、彼女は生涯思いを告げなかっただろう。もし伝えたかったとしたら、とっくのとうに伝えているはずだ。自分たちはもういい年なのだから。
きっと名前はこれからもその胸にミッドナイトへの思いを抱えながら生きていき、相澤はその隣で彼女のことをじっと見守っているのだろう。同級生たちの恋のベクトルは、いつだって一方通行で、交わることはないのだ。
と、思っていた。
驚天動地という言葉がある。マイクの頭の中はまさにその四文字が相応しい状況になっていた。
「は!? 結婚する!?」
休日、一人でショッピングを楽しんでいたところ、名前から『今消太と一緒にいるんだけど、報告したいことと、お願いしたいことがあるからもし暇だったらお昼一緒に食べない?』と連絡がきたのだ。ちょうどお昼をどうするか考えていたところだったのでちょうどいいと思い指定されたイタリアンに向かえば、すでに店に入っていた二人が迎えてくれた。そこまでは特段変わったところはない。
マイクが座ってAセットランチを頼んだところで、名前が天を驚かせ、地を動かすような発言をしたのだ。
「実はわたしと消太、結婚することになったんだ」
そして、先ほどのマイクの発言につながる。
正直に言えば、ずっとこの二人のことを見守っていたからこそ、それだけは絶対にあり得ないと思っていた。だからこそマイクは、不躾であることは百も承知で一言、名前に尋ねた。
「香山先輩のことはいいのかよ」
すると名前は、今日の秋晴れみたいなすっきりとした表情で微笑んで肯いた。
「うん。もういいの。これからも睡さんはわたしの中にいるよ、でも前に進んでみることにした。それで、それは消太と一緒がいいなって思ったの」
一体どんな心境の変化があったのだろうか。何かきっかけやそこに至るまでの道のりがあるのだろうが、それを聞くのは今ではないと思った。マイクはそこまで野暮ではない。今、名前が前に進もうとしていて、その道を相澤と手を取り一緒に行きたいと思ったなら、それがすべてだろう。
「全く、人生ってのはなにが起こるかわからねえな。それが報告したいことね。んで、頼みたいことってのは何よ」
名前からは報告したいことと、お願いしたいことがあると言われていた。それには相澤が答えた。
「婚姻届の証人欄にお前の名前を書いてほしい」
「婚姻届!?!? は、もう結婚するの!?」
もう今更驚くことはないと思ったが、まだまだこの二人には驚かされるらしい。
「お前さっきからうるせぇな。声のボリューム下げろよ」
相澤が充血した瞳を鋭く細めた。いや、仕方なくない!? とマイクは猛抗議をしたくなった。先ほどからとんでもないことの連続で、冷静でいられるわけがないというものだ。
「お前、俺の立場になってみろよ! 驚くに決まってんだろうが!」
絶対にあり得ないと思っていた二人が、恋人の過程をすっ飛ばして結婚するという報告を受けて、更には婚姻届の証人欄にサインをしろという。そんなにすぐ結婚ってするものなのか。いや、しない。
名前はからからと笑って、「驚くよねえ」とまるで他人事のように言った。
「実はさっき、婚姻届書いて提出しようと思ったんだけど、証人欄があることに気づいてさ。マイクと、あともう一人は休み明けにオールマイトさんに頼もうかなって思って」
一度決めたらこんなにも早いものなのか。この二人の勢いに若干気圧されつつ、名前が差し出した婚姻届に目を落とす。すでに二人の欄は記入済みで、本当に結婚するのか、と改めて実感する。それならと、マイクも覚悟を決めた。
「オーライ。書くぜ、ペンを貸してくれよ」
「ありがとうひざし」
礼を述べて、名前はボールペンをマイクに渡した。この感じだと、どこにでも売っているようなこのボールペンはコンビニで調達でもしたのだろう。
証人欄に名前を書くなんて人生でそうそうあることではないため多少緊張するものの、これから夫婦になる目の前の男女はそんなことはどこ吹く風で、記名するところを見るでもなく、「飲み物先に持ってきて貰えばよかったね」「店員呼ぶか?」「いや、そこまでじゃない」「なんだそりゃ」だなんてのほほんと会話をしている。
マイクはやれやれと思いながらも、木製テーブルの上で記名をする。木目のせいででこぼこするが、多分二人は気にしないだろう。
「ほらよ。俺のサイン、書いといたぜ」
名前に婚姻届とボールペンを返す。
「やったーありがとう! あとはオールマイトからもらってコンプリートだ!」
「ヘイ、なんかノリがスタンプラリーみたいだな!」
マイクももうすっかり慣れてしまって、その気楽さにツッコミを入れる。何はともあれ、マイクの友人二人がめでたく結婚するのだ。今日は記念すべき日であり、二人の門出でもある。そんな日に立ち会えることを友人として嬉しく思う。
「ウェディングセレモニーのスピーチは任せろよな」
「式は挙げるつもりはないよ、わたしたちもういい年だしさ」
「年は関係ねえっつーの! イレイザーヘッドと名字の結婚だぜ? やるしかねえだろーが!」
「お前が騒ぎたいだけだろ」
相澤がピシャリと突っ込む。
「シビィー! でもよぉ、生徒たちの間でもお前らくっつくくっつかないって噂されてんだぜ? ここはド派手にぶち上げて、世間に知らせてった方が良いって!」
二人の性格的にも結婚式をやらないという選択肢は頷けるが、やはり友人としてはやってほしいというものだ。もちろん、相澤が言う通りマイクが騒ぎたいと言うのもあるが、長い道のり、紆余曲折あった二人の門出をたくさんの人に見てもらい、祝福してほしいという思いもある。
「そんな噂あるの? まあ、検討するよ」
と名前が言ったところで頼んだパスタが三人分運ばれてきたので、食べ始めた。マイクは「イレイザーが食べるなんて珍しいな」と言えば、「こういう時は食べてくれるよ」と、名前が説明してくれた。だがそれはきっと、名前だからだ。マイクと一緒にランチに行ったって、飲み物だけで済ませるに違いない。なんならランチに付き合うと言う選択肢すら怪しい。相変わらず相澤は、名前だけが特別らしい。
「そんで、消太はなんていってプロポーズしたのよ」
パスタを食べ終えて食後のコーヒーを待っていたところで何気なくマイクが聞けば、相澤はしかめ面になる。名前は「あー」と言い、こともなげに言った。
「わたしがプロポーズしちゃったの」
相澤の渋面の意味がわかった。マイクは思わず片手で顔を覆って、「HA!」と笑ってしまった。
「おいおいマジかよ消太。そりゃまずいんじゃねーの。まァお前たちっぽくていいけどよ」
「俺は納得いってない」
「そんなこといったって、プロポーズしたのはわたしだもの」
二人のやりとりを微笑ましく思いつつ、マイクは全面窓から外の景色を見た。銀杏並木の葉は黄色に染まっている。すっかり秋めいた街並みは、少し経てばすべてが冬に染まってくすんでいくだろう。
相澤は名前を見て、名前はミッドナイトを見ているだけだったこれまでの冬。それが、名前が振り返り、見つめ合う冬になる。
視線を前の二人に戻せば、まだプロポーズのことについてああでもない、こうでもないと話している。その姿は、まるで幸福の象徴のように思えた。やっとベクトルが混じり合うことができたんだな、と思うと、不意に鼻の奥がツンとなるのを感じた。年をとると涙脆くなるというけれど、これもその一種だろうか。
「改めておめでとう。消太、名前」
二人はマイクを見やると、同時に「ありがとう」と言って似たような顔で微笑んだ。
店を出ると、秋晴れの空に白雲が漂うように浮かんでいる。「なんかあの雲、朧の髪型みたいだね」と名前が笑った。
+++
週明けの学校で、案の定オールマイトが素っ頓狂な声を上げた。
「えっ!?!?!? 相澤くんと名字くんってアベックだったの!? 私、全然気づかなかったよ! 水臭いじゃないか! なんだ、言ってくれよな!」
「そういうのいいんで早く書いてください」
「ちょっと消太。すみませんオールマイトさん。わたしたち、付き合ってたわけではないんですけど、結婚することになったんです」
オールマイトがますます混乱したのは言うまでもない。
