すっかり暗くなった外の世界は、しかし積雪によって仄かに明るい。都内ではあまり見慣れない雪というものに、少しだけ浮かれる。頬を撫でる空気は鋭いけれどその分澄んでいて、改めてここは長野県なんだと思い知る。到着して早々に長野県警に向かったので、ここが長野県だということがイマイチ馴染んでいなかったのだ。
高明に、車を回しててくるので正面玄関で待っているように言われたので、正面玄関を出て手持ち無沙汰に沢山の足跡とタイヤ痕がついた雪の積もった道路を見る。息を吐けばたちまち白くなり、名前の息が可視化される。
こんなところまで来てしまった。その事実に、景光の喪失が改めて突きつけられるようだった。
景光にフラれて、行方がわからなくなってから、名前の生活は一変した。別に男に執着するタイプでもなく、どちらかと言えば自立した恋愛をしてきたつもりだ。けれど、一方的な別れと、別れ際の言葉と、彼が残した手紙と、景光の不在によって、名前の心は不安に蝕まれていった。それより前から景光の仕事についても不安に思うことがあったから、尚更だ。もう、景光とは会えないのだろうか。
思考が泥濘へと沈んでいきそうになった時、ライトに照らされて思わずそちらを見る。クラシカルな車が一台名前の前に停車した。ナンバーは「も624」。日本では珍しい、左ハンドルの車だった。
「てっきり中で待っているものだと。寒空の下、お待たせしてしまい申し訳ございませんでした」
高明は運転席から出てそういうと、助手席のドアを開けた。スマートな振る舞いに、名前は心臓がぽっと熱くなるのを感じながら、ぶんぶんと頭を振った。
「いえ。勝手に外で待っていたのはわたしなので。それより車、左ハンドルなんですね。そしてナンバーは『も624』……諸伏ですか?」
「ええ。ご名答です」
ニッコリ微笑むと、その笑顔の奥で景光を見つけて胸がきゅっと締め付けられる。まるで景光とドライブするみたいだ。
『名前ちゃん』
記憶の中、甘い笑顔で景光が笑いかける。
この笑顔には、どこへ行けば会えるのだろうか。
「どうぞ、名前さん」
高明の言葉にハッと我に返る。時々、今みたいに時間や空間から切り離されて景光のことを夢想してしまう。名前は振り切るように助手席に乗り込む。高明はドアを静かに閉めて運転席に戻ってきた。
「お待たせしました。では行きましょう」
「よろしくお願いします」
助手席から見える景色は、雪も降り、見慣れない建物ばかりで不思議な感じがした。高明の運転は丁寧すぎるほど丁寧で、もしかしたら気を遣ってくれているのかもしれないな、と思った。
ぽつりぽつりと会話をしていると、やがてお店に辿り着いた。ログハウス風のお店が、今日の雪景色とマッチしていた。平日の夜にもかかわらず盛況なイタリアンレストランに入ると、いい匂いが鼻腔をくすぐって途端に空腹を思い出す。
席に通されると、名前はメニューをめくりながらしみじみとつぶやいた。
「ここのところずっと食べたいって気持ちがなかったんですが、久々に何か食べたいって思いました」
「やはりそうでしたか。とてもやつれて見えたので。どうぞ、今日はドルチェまでしっかり召し上がってください」
高明は、景光と似ているけれど違う顔で微笑み、景光とはまた違った、深く、体の奥底に染み入るような声の持ち主だった。今日初めて会った男性と向かい合って食事をすることに、ドキドキはするものの、それでも景光の兄と考えればどこかホッとした。
「……ありがとうございます。高明さんのおすすめはなんですか」
「私のおすすめは、トマト系ならこちらで、クリーム系なら―――」
結局名前は高明のおすすめのトマト系のパスタを頼んだのだが、これがまた絶品だった。何度も美味しいと伝えて、その度に高明は表情を柔らかくして「それはよかった」と言う。
高明のことを最初に見たとき、名前は彼のことを雪のようだと思った。白くて、冷たくて、美しい。でも今は彼のことを冷たそうだなんて思わない。もらったミルクティーみたいに、温かくて、ほんのり甘い。
「高明さんは、優しいですね。急にきた得体の知れない女の話を最初から最後まで真剣に聞いて、心配して食事まで連れてきてくれるなんて」
思わずそう言えば、高明は困ったように眉を下げた。
「正直なところ、初対面の女性を食事に誘ったことについては自分でも驚いています。立場上、断りづらかったですよね」
「い、いえ! 誘ってくれて嬉しかったです。それに、誰かと食事をするの、すごく久々で楽しいです」
名前の言葉に、高明の表情が安堵に包まれる。高明は一貫して相手のことを考えて行動してくれている。それは変に恩着せがましくなくて、とても自然で、きっとこれが彼の性格なのだろうと思った。
やがて運ばれてきたパスタを食べ終えて、ドルチェの自家製ティラミスを待っていると、「ところで」と高明が切り出した。
「今日は東京に帰られる予定ですか」
「あ、いえ。今日はもう遅いし、どっか泊まろうかなって思ってます」
そうなってもいいように、一泊分の用意はしてあった。今日は平日なのでホテルも空いているだろう。
「そうでしたか。仕事は差し支えないのですか。もし明日仕事なのであれば送っていきますよ」
「いえいえそんな! ……実は今休職中で、お休みなんです」
あまり言いたくなかったが、送っていくと言われてしまった以上、仕方がない。案の定高明の表情が変化した。名前は心配をかけたくなくて、慌てて言葉を重ねる。
「そんな大したアレじゃないんですよ。会社に行ってもヒロくんのこと考えちゃって、夜も寝られないしご飯もあんまり食べられなくなって、そしたらちょっと会社で倒れちゃって、それで……」
言いながら、高明の表情がどんどんと強張っていくのを感じて、やっちまった、と後悔する。心配をかけたくなくて軽い感じで事情を説明したのだが、これは完全に墓穴を掘った感じだ。
「……名前さん」
「はい……」
「私と一緒に暮らしましょう」
「へ!?」
高明のとんでもない提案に素っ頓狂な声を出したところで自家製ティラミスが運ばれてきたので名前は居住まいを正す。ちらり、自家製ティラミスを見れば、とても美味しそうだ。
そして改めて高明を見れば、迷いなんて一つも感じないしっかりとした顔付きだった。初対面の人を食事に誘ったことを申し訳なく思っていた人が今、初対面の人に一緒に暮らそうと言っている。正気の沙汰ではないが、こちらとしても軽率に話して心配をかけてしまったと言うのも確かだ。
高明はややあって言葉を紡いだ。
「勿論、名前さんが嫌でなかったら、という前提の話です。しかし、話を聞く限り、今、一人で暮らしていくのは得策ではない気がします。心に余裕がないと、暮らしも余裕がなくなります。気力がなくなってしまうからです」
思い当たる節はいくらでもある。今、名前は衣食住すべてを疎かにしている状態だ。食事だけでなく、部屋も散らかり、殻に籠るように友人からの連絡もシャットアウトしている。高明の目はそのすべてを見透かしているようだった。刑事の隻眼は伊達ではない。
「勿論、休職中の間だけでも構いませんし、名前さんが良ければ仕事を辞めてこちらにきていただいても構いません。景光の彼女というのならば、私にとっては妹のようなものですし」
「彼女と言っても、元、ですけど……。でも高明さん、その、恋人とかはいらっしゃらないんですか。その人からしたらわたし、とんでもない邪魔者ですよね」
もし高明に恋人がいたら、それは大問題というものだろう。妹といっても、弟の元彼女だとなればどう考えても妹とは呼べない。そもそも婚約だってしていないのだから、妹と呼ぶには無理がある。名前が高明の彼女の立場だったら、そんな女と一緒に住むなんて絶対に嫌だ。
高明は肩をすくめた。
「生憎、私にはそのような存在はいませんのでその点はご安心を」
どうやら恋人はいないらしく、ホッとする。が、次の瞬間にはハッとする。
―――って、なんでわたしホッとしてるんだ。一緒に住むこと、すっごい前向きに考えてるみたい。
などと一人で悶々としている間にも、高明は流れるように説明を続けた。
「私が住んでいるマンションは2LDKで、一部屋をほとんど使っていない状態なので、その部屋を自由に使っていただいて構いません。プライバシーに関しては鍵をつけていただくことも可能です。お金についてもご心配なく。それなりに蓄えも稼ぎもありますから、名前さん一人が増えたくらいでは全く問題ありません。名前さんが過ごしやすいよう―――」
「あの」
説明を遮る形になってしまったが、矢も盾もたまらず名前は切り出していた。
「高明さん、どうしてそこまでしてくれるんですか」
純然たる疑問が口をついて出た。今日初めて会った自称弟の元彼女に、一緒に住もうと提案するなんてあり得るだろうか。こんな高待遇、いっそ詐欺なのではないかと思うほどだ。寧ろ、詐欺だというなら納得できる。
高明は少し考えるように顎に手を添えて、やがて静かに言った。
「……景光が私を頼れと言ったならば、私は全力を尽くして応えるまでです」
それは兄弟の絆なのだろうか。弟のため、見ず知らずの女を迎え入れてくれるなんて、いくらなんでもやりすぎだ。捨て猫を拾うのとは訳が違う。
―――でも、ヒロくんが同じ立場だったらどうかな。
名前の中にいる景光を思い描く。優しくて、正義感が強くて、周りにいる人をいつも大切にしていた景光。
きっと景光も全力を尽くして高明の願いに応えたに違いない、と思った。そう考えたら、とても不思議だけど高明の言動がすべて、すとんと腑に落ちたのだ。
「景光から聞いているかもしれませんが、私たち兄弟は幼い頃に離れてしまいました。兄らしいことをあまりできなかったからこそ、尚更そう思うのかもしれません」
名前も二人が離れて暮らすことになった事情は聞いている。高明は兄らしいことをできなかったと言うが、景光から聞く高明の話はいつだって尊敬と憧憬で満ちていた。
お願いしてもいいのだろうか。頼って、いいのだろうか。名前の脳裏に、景光の残した手紙が思い浮かぶ。
「……わかりました。高明さん、お願いしてもいいですか」
「ええ、勿論です。名前さん、改めてよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げて、二人は微笑みあった。これでいいのだろうか、こんなに甘えてしまっていいのだろうか、という気持ちは拭えないものの、それでも燻り続けていた名前の中に、新しく何かが切り開けて、そこから一筋の光が差したような気がした。
ふとテーブルを見れば、時間が経ち、すっかり形が崩れてしまったティラミス。二人はどちらともなく笑って、「食べましょうか」と高明が言い、「ですね」と名前が頷いた。
缶のホットミルクティーは冷めて、ティラミスは崩れてしまったけれど、その時間はすべて高明の優しさだ。優しくて、見かけによらず大胆なひと。
―――ヒロくん。ヒロくんが残してくれた言葉通り、お兄さんのこと頼らせてもらうね
男性と二人で暮らすということも、慣れない土地に住むことも、今はなんとかなるだろう、と楽観的に考えられている。こうやって物事を悲観的に見ないでいられるようになったのも、進歩かもしれない。
―――ヒロくんに繋がる何かが、見つかりますように。
長野にきて本当によかった、と最後に笑うんだ。今日はその記念すべき第一歩なのだ。
