ソファに座ってスマホでネットニュースを見ていたら、不意に目の前に人影が現れて相澤に影を落とした。それは言わずもがな相澤の妻で、彼女は座っている相澤を見下ろしながら相澤の唇に指を押し当てた。
「消太くん、唇乾燥してるね」
そして乾燥の具合を確かめるように右へ左へと指を動かした。乾燥してめくれた唇の皮が指に弄ばれる感触で、唇が荒れていることに気づいた。その指を口に含んで歯を立てたらどんな反応するだろうか、と考えたら、何か不穏な気配を察知したのか指は離れていった。
「言われてみればそうだな」
相澤は何食わぬ顔で言う。特に気にしていなかったが、冬は乾燥してどうしても唇が荒れがちだ。だがそのせいでなにか非合理的なことにはならないため、殆どケアはしていない。毎年ナマエからキスするたびに「唇ガサガサ!」と文句を言われるくらいか。
ナマエはソファのサイドテーブルの小物入れからリップを取ると、相澤の隣に座って自分の唇にリップを塗った。
「明日消太くんのリップ買ってくるね」
リップを塗って薄い膜が張ったようになったその唇はてらてらと鈍く光って、どことなく妖艶に思えた。それに導かれるように一つの考えが浮かんで、相澤は気がつけば口を開いていた。
「それで塗ってよ」
「これで? はちみつの匂いするけどいい?」
「うん」
「人にリップ塗るのって初めてかも」
そういって妻はキャップを取ってリップの底をクルクルと回して繰り出すと、相澤の唇に塗ろうとしたので(当然だが)、相澤は「違う」と言ってリップを持っていた手を握り、そのままナマエの唇まで持っていった。
「ナマエの唇に塗って、その唇で俺に塗ってよ」
「……えっ」
少しの間があって相澤の言いたいことを理解したらしい妻はギョッとしたように目を見開いて、けれど「それってだいぶ合理的ではないよね」と笑った。
「ナマエとならそれでいいの」
妻とすることならば、何事も非合理的なぐらいが丁度いいのだ。寄り道も、時間のかかる手の込んだ料理も、寄り添って一つの傘で雨を凌ぐのも、全部全部丁度いい。
相澤の言葉に、ナマエは照れくさそうに「ふうん、わかったよ」と言って「じゃあ消太くんが塗って」と、唇を突き出した。さながらキスをせがむようなそれは、妻としてもそれを期待しているのかもしれない、と思うのは相澤の思い過ごしだろうか。少なくとも相澤はキスをしたいと思っている。相澤は吸い寄せられるように己の乾燥した唇で妻に口付けた。柔らかな感触が伝わってきて、相澤の身体の奥がスイッチを押されたかのように熱を持ち始めた。
「……甘い」
相澤は唇を離して、囁くように呟く。妻の唇からははちみつの甘い香りを感じた。今なら蜜に吸い寄せられる虫の気持ちがわかる。もっともっとと強い衝動が身体の内側から迫り上がってきて、それに抗うことはできない。はちみつを纏った蠱惑な唇を食べてしまいたくなる。しかし相澤は虫ではない。なんとか理性でそれを押し留める。我慢すればもっとイイコトがあるのだから、と。
「リップ塗ってって言ったのに」
妻が拗ねたように囁きを落とす。
「悪い。つい、な。今から塗るよ」
顔を離して妻の手からリップを受け取ると、今度こそ妻の唇にリップを塗る。塗りながら、確かに人にリップを塗るって初めてだな、なんて思ったりもした。加減が難しい。気持ち厚めにリップを塗ると、キャップを閉めてソファの前のローテーブルに置いた。
「これね、パッケージに体温で溶けるって書いてあったんだ。ちょっとエッチだよね」
妻が世間話の一環と言った顔で笑う。今日は雨らしいよ、傘持っていったほうがいいね。と天気の話でもするように。けれど相澤からしたら誘われているのだろうかと勘繰ってしまう。妻は無自覚に煽ってくる時があるので、もしこれを他の男にもしているのかもしれないと考えたら、気が気でない。
そんなことを考えていたら、仄暗い占有欲がむくむくと湧き上がってきた。結婚して、妻は名実共に相澤の伴侶となったのに。それでも蜃気楼のような存在に思える。いつか風に攫われて消えてしまいそうで、そうならないようにいつでも目の届くところに縛りつけて、触れられるようにしていたい。なんて相澤は柄にもないことを考えている。勿論、そんなことを相澤はおくびにもださない。
「それじゃ、よろしくお願いします」
相澤はわざと恭しくお願いして、ぽんぽんと自分の太ももを叩いた。
「え、そこに座れってこと?」
「察しが良くて助かるよ。ほら、おいでナマエ」
「もう、猫じゃないんだから」
などと言いながら、ナマエは相澤の上に跨ると、太ももの上に座り込んだ。柔らかな体の感触と、そこから感じる妻の重さが愛おしい。
ナマエは相澤の頬を両手で包み込み、そしてゆっくりと顔を近づけて相澤の唇と重ねた。瞬間、満ち足りたような気持ちになる。ただ唇が触れ合っただけなのに、ナマエの唇には何か不思議な力があるみたいだ。
はちみつの香りが鼻腔を掠めたと思ったら、ナマエは相澤の唇にリップを塗り込むように唇を啄む。柔らかな感触が気持ちよくて、いかにも美味しそうで、相澤はナマエの唇を食むようにキスをし返して主導権をあっという間に奪う。ちゅっ、ちゅっ、と音を立ててキスをするのは、ナマエを“その気”にさせるために。
はちみつ味のリップはキスしているうちに二人の体温と唾液で溶けてしまったようだ。キスをやめて顔を離せば、ナマエの瞳ははちみつを垂らしたみたいにとろんとしていて、唇は妖しく光っている。
相澤の頬に添えられていた手を握って、自身の下半身へと誘う。そこでは既に固く勃ち上がった性器がスウェットを持ち上げている。それを触らせて相澤の欲望の程を知らせれば、ナマエの物欲しそうに唇を薄く開きながら、スウェット越しに優しくそれを掴んだ。愛する妻に触られていると思えば、相澤の欲望のメーターはぐんと上がって、それに比例して性器は硬さを増していく。愛しい愛しいナマエ、俺のナマエ。繋いで、刻んで、もうどこにも行かせない。
相澤はナマエの耳元に口を寄せて、
「ナマエ、シよう」
と囁くと、耳朶にキスをした。ぴくりとナマエの肩が跳ね上がり、「あっ」と甘やかな声が漏れ出た。
今度は相澤がナマエの両頬に手を添えて、正面から向き合う。欲望にまみれた濡れた瞳、相澤を欲しているような表情に、わずかに残っていた理性は消し飛んでいった。早く、シたい。妻とひとつになりたい。
「返事は?」
分かっているけれど、妻の口から聞きたくて催促する。
「……する」
「いい子」
相澤は猫が戯れるみたいに鼻先を擦り合わせる。
「だから猫じゃないってば」
「そうだな。猫とはこんなことできないもんな」
妻の体に腕を回して抱き上げると、リビングを後にする。あとは二人の体温でなにもかも溶かし合うだけだ。はちみつの匂いを漂わせながら、二人は寝室の暗がりに溶けていった。
