予感はコーヒーの香りとともに

 もはや自動で動いている手の動きに合わせて、ごりごりと音が鳴り、耳に留まることなく通り過ぎていく。休日の朝の音だ。
 ミルでコーヒー豆を挽いているこの時間は、昨日までの慌ただしい平日をリセットするための儀式みたいなものになっている。インスタントコーヒーでも、ワンドリップコーヒーでもない、ハンドドリップでコーヒーを淹れるために豆から挽いていく丁寧なこの一連の動作が、ああ、休日がきた。って気持ちになる。慌ただしい平日の朝には絶対にできない贅沢な時間。粉砕された豆がぱちっと弾けるたび、苦いけど甘い、コーヒーの匂いが漂う。うん、いい匂い。昔はコーヒーって好きじゃなかったけど、習慣ってすごい。
 そうして挽いた豆はあらかじめ用意していたドリッパーに入れて、軽く揺らして表面を均一にする。
 豆だったものは粉々に砕かれて、土みたいに見える。ドリッパーの中には丸い大地が創造された。今からわたしはこの小さな世界の神となり、先の細くなったドリップポットから慈雨のごとくお湯を注ぎ入れるのだ。
 沸騰してからちょっとおいて冷ましたお湯を、何もない大地に注いでいく。真ん中を起点に、くるくると円を描きながら満遍なくお湯を注げば、水分を含んだ粉たちはぷっくらと膨らんで、焼き菓子みたいに見える。鼻腔を掠めるのは芳醇なコーヒーの匂いで、口角が上がる。
 蒸らすために時間を置いて、そのあと再びお湯を注ぐ。中心からくるくるとお湯を含ませれば膨らんで、再びお湯を注いで、ぽた、ぽたと焦茶色の液体がサーバーに落ちる。静かな空間に、コーヒーが抽出される音と、芳ばしい香りが満たされていく。休日の朝、今は一人のキッチンは、かつて二人で狭い空間を行き来していた。
 やがてドリッパーには円錐型の穴がぽっかりできて、その穴の出来に、よし、及第点。なんて自己評価を下す。サーバーには二人分のコーヒー。淹れ慣れたその量からわたしは抜け出せずにいる。やり慣れてるし、一人分より二人分の方が美味しく淹れられるし、仕方ない。
 出来上がったコーヒーからは香ばしい豆の香りがした。その香りを楽しみながら、サーバーから大きなタンブラーに全部入れ替える。
 ダイニングテーブル。対面の席には誰もいない。もうすっかり見慣れた光景のはずなのに、休日の朝にこの席に座ると目の前の不在がより際立つ気がする。
 湯気の先、気怠げな黒猫のような男がこの家にこなくなってから、どれくらい経っただろうか。彼は大体黒い服を着ているものだから、ゆらめく湯気の形がよく見えた。あの頃わたしはミルクも砂糖も入れて飲んでいたけれど、彼と別れてからはミルクも砂糖も入れないブラックを飲むようになった。最初は苦かったけれど、今となってはもうその苦味が美味しく感じる。
 彼がまだいた頃は、今日なにする、とか。二日酔いで頭痛い、とか。他愛のない会話をぽつぽつ繰り返し、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んでいた。
 わたしはタンブラーに息を吹きかけて、冷ましながら一口含む。でもやっぱりまだ熱くて、タンブラーをダイニングテーブルに置いた。
 さようならを告げたのはわたしだった。怖かったのだ、プロヒーローと付き合うということが。まだ若かったわたしには結局のところ、覚悟が足りなかった。向き合うことから逃げて、わたしは一人になった。

「元気ですか」

 空白へ、問いかける。当然のように何も返ってこない。アングラヒーローの活躍はネットニュースを探しても残念ながら出てこない。少しは露出しろよ、プロヒーロー。
 あれから少し大人になったわたしなら、あなたとつり合うだろうか。ほろ苦いコーヒーの香りは、奥深くには甘さもあって。そんなことに別れてから初めて気づいた。そういえば、コーヒー豆の説明書きに”ローストナッツを思わせる”だとか書いてあるけど、それを感じ取ったことはない。もっとたくさん飲めば、いつかは存在を確かめられるのだろうか。
 あなたがいなくても、わたしはこれからもコーヒーを飲む。あなたが置いていったものとともにわたしは生きていく。けれどここにあなたがいたら、もしかしたらコーヒーからローストナッツを感じ取れるかもしれない、なんて考える。そしたらきっとあなたは、

「嘘つけ」

 と鼻で笑うだろう。小馬鹿にしたように、でもその裏には親愛を込めて。そう、ローストナッツみたいに分かりにくくて、すぐには感じ取れない愛情。ああ、確かにわたしは愛されていた。
 その時、ダイニングテーブルにぞんざいに置いていたスマホがぶるりと震える。何も考えずにスマホの通知を見て、わたしはヒュッと息を呑んだ。

『コーヒー飲みたい』

 花嵐のような風がわたしの胸の中を吹き抜けていく。期待と不安は、コーヒーにミルクを入れたみたいにマーブル模様で、でも期待の方が大きくて。
 相澤消太と書かれた文字は、コーヒーの湯気が見せる幻かと思って目を擦る。ちゃんと相澤消太だ。ではスマホのバグか? 一度電源落として再起動すれば、なんならもう一通、相澤消太から連絡が来ていた。

『つーか会いたい』

 新しい始まりの予感が、コーヒーの香りとともにやってくる。わたしは奮発してちょっと高いコーヒー豆を買った帰り道みたいに高揚しながら、でもそれを必死に押し留めてスマホに入力していく。
 
『今ちょうど、コーヒー淹れようと思ってたところ』

 新しいわたしと新しいあなたで、もう一度。

2025-01-29