「キスしないと出られない部屋?!」
わたしたちの閉じ込められた部屋には、今しがたわたしが叫ぶように言った言葉がA4コピー用紙に明朝体の書体で印刷され、壁に貼られていた。
ぐるりと周囲を見渡せば、部屋は正方形で、窓や扉の類はない。家具は三人掛け程度の革張りソファがあるだけで、それ以外にはなにもない、閉塞感の漂う部屋だった。
隣に立っている消太さんを見上げれば、いつも通りの無表情でじっとその文言を見据えている。その姿に冷静さを感じてとてもカッコよく見える。さすがはプロヒーロー、場馴れしている。
と、頼もしいプロヒーローの横顔を見ていると、消太さんはぽつり、
「困ったな」
と、大して困ってないトーンで言った。
「全然困った感じありませんけど」
「困ってるよ。だってキスしないと出られないんだろ」
消太さんは困った感じもなければ、なんなら少し楽しんでいるような様子も見受けられる。
「そうですよ。どうしましょう」
キスをすれば出られるわけだが、じゃあしましょう、とサラッとできるほど肝が据わっているわけではない。とはいえ解決策はキスをする以外ない。
消太さんは身体ごとこちらを向き、腰を屈めて膝に手をついて、幾分近づいた目線で言った。
「んじゃあ、はい、どうぞ」
「えっわたしがするんですか?!」
「頼むよ」
ニヤリと笑んだ姿を見てわたしは確信を得る。
「ちょっと楽しんでますよね?」
「まぁね」
愛するプロヒーローはもはや楽しんでいるようだ。中腰をやめて立ち上がった消太さんが改めて貼り紙に目をやった。
これが経験の差か、なんて軽くショックを受けつつも、二人してオロオロするよりかは全然良いか、とポジティブな結論に至った。
そもそもこの状況は、放課後の雄英高校で、生徒の個性が暴発してしまったことによって引き起こされた。仕事を終えて消太さんと合流したのちに正門まで歩いていたところ、放課後特訓をしていた生徒の個性が紆余曲折あり、二人に直撃。そしてこのような部屋に閉じ込められてしまったのだ。
「周りはプロヒーローだらけなんだから、俺たちが慌てて出ていかなくてもなんとかなるだろ。そこまで慌てる必要はない」
「まあ……それもそうですね」
これがヴィランによる攻撃で、周りに民間人がいるというのならば急いで脱出しなければならないが、ここは天下の雄英高校の敷地内だ。
でも意外だ、とわたしは思った。周知の事実であるが、消太さんはドがつくほどの合理主義者だ。だから、ここに無意味に拘束されることをよしとはしないと思ったのだ。
「……こんなところにいるのは非合理的だからすぐにでも出ていくべきと思ったか」
もはや心を読み当てられることにも慣れてしまい、正直に話した。
「読心術使うのやめてください。非合理的とまでは言いませんが、ちょっと意外だなーとは思いました」
消太さんはわたしの心の中を読むのが上手だ。もしかしたら心の中で考えていることが文字となって顔に浮かび出てくるのかもしれないと思うほど、大体的を得ているから怖いくらいだ。消太さんには嘘なんてつけないし、サプライズなんかもバレてしまいそうだ。
「お前と出会ってから、非合理的だと思ってたことが実は合理的だということもあるって知ったからな。たまには回り道だって悪くないってことだ」
わたしはその言葉を咀嚼する。それはつまり、非合理的だと思っていた彼女という存在も、いた方が合理的ってこと……? つまり、わたしという存在が消太さんの価値観を変えたってこと……!? なんて、超訳しすぎだろうか。でも、だとしたらなんて嬉しいことなのだろうか。
「相変わらずだらしない顔してるな」
「そんなことは……えへへ」
「ったく。俺以外にそんな顔見せるなよ」
「えっ、なんでですか」
「なんでも」
どうやら説明する気はないようだ。もしかしたら、だらしなさすぎて引かれるような顔をしているのだろうか。流石にそう伝えるのは憚られるから濁したのだろうか。
ちょっと落ち込み出した折、消太さんがぽつりと言った。
「まあでもあれだな」
消太さんはわたしの正面にやってくると、顎を掬い上げた。充血した瞳と視線がかち合って、どきりと心臓が跳ね上がる。
「色々と我慢ができなくなるかもしれんから、出るか」
次の瞬間には視界いっぱいに消太さんの顔が広がって、程なくして唇に何か柔らかいものが触れた。
え? というわたしの言葉は、吸い取られていった。
何が起こったのか理解する間もなく、消太さんはわたしから離れた。唇に残る感触、これは―――
「……っ!」
消太さんが目元を細めている。
わたし今、消太さんにキスされたんだ、と状況を理解する頃には、視界が暗転して、何か大きな渦に巻き込まれたかのような感覚に陥った。
+++
気がつけば再び正方形の部屋にいた。キスをすれば出られると書いてあったのに、また同じ部屋に来てしまったのだろうか。正面の壁には、やはりA4用紙に“キスしないと出られない”と明朝体の文字で書いてある。
先ほど消太さんとキスをしたにも関わらず、また同じ部屋にいる。まさか、一生出られないのでは? なんて薄ら寒い心地になりつつも、ひとつ異変に気づく。
その文言の下段には、米印を頭にした別の文言が付されてあった。
『エクストラステージ この部屋の出来事は結果だけが残り、やがてそれさえも消えていく』
エクストラステージ? 結果だけが残る? 何やらよくわからない一文である。
消太さんに相談しようと思い、口を開きながら隣を見る。
その瞬間、わたしの脳天には雷が落ちた。
なんと、消太さんがいると思われたわたしの隣には、雄英の青いジャージを着た男の子がいた。彼もまた、目の前の文言を見据えている。
彼がわたしの知る人物であるとするならば、正真正銘雄英の生徒だというのはわたしが一番よく分かっている。だがまだ彼の横顔を見ているだけで、確信したわけではない。
やがて青いジャージの男の子もわたしを見て、わたしたちの視線が一本の糸のように繋がった。わたしは喉を震わすことができない。彼の正体を確信したものの、それがあまりにも非現実的で、あり得ないものだったからだ。
この部屋からの脱出条件は、キスをすること。
……神様、これは浮気になるのでしょうか。
「どうも」
彼は小さくお辞儀したので、止まっていたわたしの時間が動き出して、慌てて頭を下げた。
「こんにちは。あの、えと、わたし……」
何か言わなければと口を開くものの、頭は真っ白になってしまい何も言えないでいた。自己紹介をするべきか、だとすると怪しいものではないと言う証左のために雄英の事務員だというべきか、しかし今職員証を持っていないので証明する術はない。
なんて頭の中でぐるぐる考えながら何も言えないでいるわたしに対して彼は高校生だというのにどっしりと構えていて、慌てた様子一つ見せない。
わたしもそんな彼を見て少しだけ冷静さを取り戻したので、結局自己紹介はせずに伺うように言った。
「……どうしましょうか」
わたしの声は、本当に頼りない響きを持っていた。わたしの方が年上なのにこんなザマでいいのかと思うが、相手が彼だと思うと自分の態度が妙なものになってしまう。
年上だからしっかりしなきゃと言う気持ちはあるものの、本能が彼に頼りたいと願っている。結果、この二つの相反する気持ちがわたしの中でないまぜになり、ぐらぐらと足元の覚束ない頼りない大人の完成だ。
彼の視線もまた、頼りない大人を見る目だった。そんな目で見ないで、胸が痛いです。
「どうもこうも、するしかないんじゃないですかね」
何という落ち着き様だろうか。これがヒーロー科の凄みというやつだろうか。
淡々と、でもわたしがいつも聴いている声よりも僅かに幼さが残るその声に、場違いながら口元が緩んでしまいそうになる。
「相澤……くんは、いいの?」
彼に伺いながらも、少しだけ余裕を取り戻したわたしは彼のご尊顔を拝見しながら心の中で合掌する。
(消太さんだ……高校生の消太さんだあ……可愛すぎる)
そう、彼はわたしの恋人の高校生の頃の姿だ。諸々の状況から鑑みて、個性で若返ったわけではなさそうだ。もしそうであれば、わたしに敬語なんて使わない。
緩く癖のかかった黒い髪に、髭の生えていないつるんとした白い肌。猫背なのは今も変わらないけど、顔からはやっぱり弾けんばかりの若さが漲っていた。わたしたち大人がいつの間にか無くしてしまったものを彼の顔から感じとる。
「いいも何も、しなきゃ部屋から出られないって言うなら」
高校生にしてこの割り切り方、人生は何周目なのだろうか。
けれどひとつひっかかる点がある。高校生の彼はわたしのことを知らないだろう。言ってしまえば、よくわからない場所で出会った見知らぬ年上の女。
消太さんが若返って高校生になったと言うのなら何の問題はないが。(いやしかし未成年とキスをすると言うのは問題か。いやいや、同意のもとだし)
だが、今隣にいる高校生の相澤少年はわたしのことを知らないから、そんな女とキスをさせるというのが心苦しかったりする。
わたしが一人悶々としていると、「てか」と相澤少年が口火を切った。
「何で俺の名前知ってるんですか」
あ、とわたしは口をあんぐりと開ける。どうやら早々に墓穴を掘ったらしい。
「…‥少し、お話ししませんか。時間はありますし」
「まあ……」
少しだけ、かつての彼と話したい。そんな願いが叶って、相澤少年はひとつ頷いた。
わたしたちは三人掛けの革張りのソファの端と端に腰掛けた。僅かに身体を内側に寄せて、わたしは口を開いた。
「改めまして、わたしは名字名前です。雄英高校普通科の出身で、今は雄英高校の学校事務として勤務しています」
今は、と言いながら、厳密に言えば相澤少年の“今”とは異なる点について後ほど言及しなければならないな、と考える。だが、あまり詳しく話しすぎると彼の未来に影響を及ぼすかもしれないので、話す内容は慎重に吟味する必要がある。
わたしは考えを巡らせながら、ぽつりぽつりと喋り始めた。
―――わたしは、相澤少年からすると未来の時間軸を生きていると言うこと。なぜそう思うのかというと、その時代の相澤消太と知り合いだからだということを端的に伝えた。
「わたしは本当は相澤君の二つ下で、高校生の頃にその姿を見ていたから、きっと相澤君じゃないかなって思ったの」
仕方ないとはいえ相澤君と呼んでいることをむず痒く感じつつも、一通り説明を終えた。
「なるほど……そう言うことでしたか」
相澤少年は納得してくれたようだ。
「にわかには信じられませんがね。でも名前聞いて、話聞いて、嘘ではなさそうだと判断しました」
「信じてくれてありがとう」
時空を超えて出会ったなんて普通に考えればあり得ない話ではあるが、状況が状況だけに納得はしてもらえたようだ。
相澤少年の言った言葉を無意識に巻き戻して反芻していると、“名前が判断材料になった”と言う旨のことを言っていた。つまり、今隣に座っている相澤少年はすでに高校生の時のわたしのことを知っていると言うことで、そこから導き出される結論は、今隣にいる彼は高校三年生だと言うことだ。
この頃の相澤少年は、わたしのことをどう思っていたんだろう、なんて興味がむくむく湧いてきたが、どうせ「名前くらいしか知らない」といわれるのが関の山なので、自分の心の平穏のためにも聞かないことにした。
「あんまり変わりませんね」
「ん?」
「見た目。面影あります」
つまり、相澤少年はわたしの名前だけでなく、姿も認知してくれていると言うことだろうか。それを符号させた結果、あまり変わらないと。
途端に胸がキュッと縮こまって、たくさんの言葉が飛び出しそうになったのを、寸のところで押し留める。
面影なんて、相澤君の方がありまくりだよ! 見た目も肌艶もほとんど変わらないし、言葉少なだけれど、きちんと自分の言いたいことは伝える。そんなところも、変わっていない。
「視線がうるさいですね」
と、どことなく懐かしいことを言われて呆けていると、
「あ、年上の人にすみません。後輩だと思うとつい。後輩だけど年上って変な感じですね」
と相澤少年が大して申し訳なさそうな様子も見せずに言った。
「すみません」
ほとんどうわ言のようにわたしは言った。ああ、消太さんだ。改めて実感する。
わたしは高校生の時、このヒーロー科の先輩のことをかっこいいな、と人並みに憧れていた。でもただそれだけだった。
恋愛においては三つのingが重要だと前に何かで読んだことがある。そのうちの一つが確か、タイミングだ。わたし達の場合は、大人になって再会したからこそ恋人同士になれたのだと思う。
当時のわたしが相澤先輩と付き合うなんて夢にも思わなかったように、彼もまた隣にいる女と未来で付き合うなんて思いもしないだろう。
さて、いつまでも高校生の頃の消太さんに胸をときめかせているわけにはいかない。若人のキラキラしたアオハル時間を奪うことは罪深いことである。
身体を、より彼の方へと向けて切り出した。
「お喋りに付き合ってくれてありがとう。それじゃあそろそろ、部屋から出よっか」
と、平静を装いつつも、内心は心臓が破裂しそうなほど早鐘を打っている。いよいよわたしたちは部屋を出るためにキスをするのだ。
「わたしからキスするから、事故にでも遭ったと思って。無かったことに―――」
と言いながらも、貼り紙の文言を思い出した。『ここでは結果だけが残り、やがてそれさえも消える』。もしかしたらここでキスをしたと言う結果だけが残って、他の記憶も消え去ると言うことだろうか。そうであればここでの出来事が互いの人生に干渉することはない。
「もしかしたらここでの記憶は全てなくなるのかもしれないね。だったら一安心かも」
「……まァそんなところでしょうね。よかったですね、こんなガキとキスなんて嫌ですよね」
「そんっっ! な、わけ、ないじゃないですか……」
脊髄反射で全力否定をしかけて、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「寧ろわたしの方が申し訳ないというか……や、もうやめよう、うん」
この後社交辞令で「ソンナコトナイデスヨ」、「イエイエソンナ」なんていうやり取りを繰り返すのは合理的ではない。すっかり合理的か否かを気にするようになっている自分がいて内心で苦笑いしつつ、覚悟を決める。
「じゃあ、いきます」
「待って」
腰を浮かせて相澤少年の近くへと赴こうとした時、短く相澤少年が制止して言葉を続ける。
「こう言うのは男からするもんでしょ」
白い肌にかすかに朱が混じっている。わたしにも伝播したように顔が熱くなった。やばい、と危機感を抱く。好きが今にも溢れ出てしまいそうだ。
それにしても、未来の! 消太さんに! いってやりたい!!
未来の消太さんは、『んじゃあ、はい、どうぞ』なんて言ってしゃがみ込んで、わたしのことをからかってきたと言うのに。でも高校生の消太さんは、一生懸命リードしようとしてくれている。胸のときめきが止まらない。
わたしはおずおずと尋ねる。
「いいんですか……?」
「はい」
短く返事すると、相澤君が腰を浮かせて、わたしの隣、肩が触れるか触れないかくらいの近さまでやってきた。
わたしの鼓動が彼に聞こえてしまうのではないかと思うくらいの距離と、静寂だった。
相澤君がわたしの肩に手を置いた。いつも見ている消太さんと根幹は変わらないものの、幼さの残るその顔に惹きつけられる。不思議な引力を持った消太さんに、わたしはいつだって引き寄せられるのだ。
肩に置かれた手からは温かな体温が伝わってきて、僅かに震えている。緊張しているのだろうか。
わたしは目を閉じて、相澤少年の唇が重なる瞬間を心待ちにする。呼吸さえも躊躇ってしまう静寂の中で、自分のまつ毛が震えているのを感じた。わたしもまた緊張しているのだ。
肩に置かれた手に微かに力が込められて、布が擦れる音がした。
そして、柔らかくて温かいものが音もなく重なった。
喜びと、充足感と、少しの背徳感と、寂寥感がわたしの頭の中でないまぜになった。
脱出の条件を満たしたのでこれでお別れだ、と思ったら、最後に一目相澤少年の顔を拝みたくてわたしは目を開いていた。ここで確かに高校生の相澤少年とキスをしたのだ、と刻み込みたかったからだ。
そしたら相澤少年と目が合って、わたしたちは、ふっと笑い合った。彼の口が動いて、何かを言っている。見間違いかもしれないけど、『名前さん』と言っているように見えた。
『名前さん、またね』
その後は世界は暗転し、再び大きな渦に巻き込まれる感覚に陥った。
+++
目が覚めた時には、白を基調とした見慣れない部屋のベッドの上にいた。中途半端に閉められたカーテンの隙間から覗く世界は暗闇に包まれている。ここは? 何をしてたんだっけ? 夜? 脳をフル回転させて今の状況を理解しようと努める。
「目覚めたか」
聞き慣れた声が聞こえてきて、わたしはほっと胸を撫で下ろす。声のした方を見やると、扉の近くに消太さんが立っていた。
「ここは保健室だ」
言われて、確かにこんな場所だったかもしれないと思い出す。保健室にお世話になることなんて殆どないものだからこの場所がどこか判然としなかったのだ。この部屋の主、リカバリーガールの姿は見えない。
保健室だと分かれば、こうなるに至った経緯も糸を手繰り寄せるように少しずつ思い出してきた。そしてその答え合わせをするように、消太さんはわたしのベッドまで歩み寄りながら言葉を紡いだ。
「放課後の帰り道に生徒の個性事故に巻き込まれて、俺たちの精神が例の部屋に閉じ込められたらしい。肉体はそのままだったんで、意識が戻るまで保健室に寝かせてもらってたんだとよ」
「そういうことだったんですね」
ではあの部屋での出来事は夢みたいなものなのか。
消太さんはベッドに腰掛けて、その重みでスプリングが沈み込んだ。
とそこに、まだ微かに残っていた甘やかな記憶の断片が、穏やかな波のように押し寄せてきた。
記憶を辿れば胸が甘く疼いて、あの場での出来事が微かに思い出されるが、いずれも残り香のような儚くて朧げで、実体のないものだ。
そしてわたしは、わたしの中に残った一つの“結果”を思い出す。言っていいのか悪いのか、その判断をする間もなく気がつけば口走っていた。
「わたし……高校生の消太さんとキスしました」
「は?」
消太さんは目を瞠り驚いている。無理もない、突然何を言っているのだと思うだろう。見た夢の話を言って聞かせるようもので、「はいはい。その話は帰り道で聞いてやるから帰るぞ」、と一蹴されると思った。しかし、想像の斜め上をいく言葉が返ってきた。
「俺も、高校生の名前としたんだ」
「へ!?」
わたしたちは呆然と見つめ合う。
どうやらわたしたちは、高校生の時のお互いとキスをしたらしい。狐につまれたような気持ちになった。
と、いうか高校生の時のわたし? 何か変なことしてないだろうか、会話とかしたのだろうか、気になることが次から次へと噴水のように溢れ出てくる。けれど、きっとわたしと同じように消太さんの中にも輪郭のぼやけた記憶の欠片しか残っていないだろう。
実体のない殆ど夢の中みたいな世界だけど、その世界で高校生のわたしとキスをした。なんだかちょっぴり高校生のわたしに妬けてしまう。消太さんとキスをしていいのはわたしだけだというのに。
「そんな目で見るな。名前だって俺にしたんだろ」
「まあ……おあいこですね」
「それじゃあ帰るか」
「はい、でもその前に少しだけ」
両手を広げてじっと見つめる。消太さんはあたりを見渡して誰もいないことを確認すると、わたしを抱きしめた。大好きな匂いに包まれて、安心感に包まれる。消太さんはすぐに離れると、流れるような動きで唇にキスを落とした。
「上書き」
そう言って照れくさそうに視線を逸らすと、サイドテーブルにあったわたしの荷物を持ってスタスタと扉の方へ向かった。
ぼうっとしていたわたしははっと我に返って、急いで消太さんの後を追った。
「今日、お泊まりしていいですか」
「いいよ」
このあと、お互いが高校時代の自分に嫉妬して燃え上がったと言うのはまた別の話である。
