誰もいないベッドに手を這わせて、わたしは小さく息をついた。シーツの皺を伸ばすように手を動かせば、そこには微かに温もりが残っている。それは、消太さんは確かにここにいて、今はいないということの証左のように思えた。
『そんじゃ、行ってくる』
最後にいってらっしゃいのキスをして、出張に行く消太さんを先ほど玄関で見送った。
消太さんが出張に行くことはたまにある。教師の研修もあれば、プロヒーローとしての出動要請もある。日帰りで済むものならばまっすぐ帰ってくるが、今回は些か遠い場所での出動要請のため、一泊してから帰ってくる予定だ。
玄関の鍵を閉めて寝室に戻る。朝早い時間のため、太陽はまだ地上に姿を出していなくて部屋は薄暗く、夜の気配を色濃く残している。
家主のいない部屋の、家主のいないベッドはとても広くて殊更寒々しく感じだ。わたしは好きなタイミングで帰ってもいいし、ここにいてもいいと言われているので、とりあえず二度寝をすることにした。誰もいないベッドに手を這わせ、彼がいた痕跡をなぞりながら、眠りの世界へと向かう。
そして再び目を覚ますころには薄明かりが部屋に差し込んでいた。
消太さんがいない消太さんの部屋に一人でいると、急に全てがよそよそしく感じる。ベッドだって、枕だって、毛布だって、すべてが他人行儀だ。だからとても居心地が悪くて、あまり長居はせずに帰ろうと思った。
けれど、消太さんのいた痕跡が残っているうちは、この家にいたい。雪が溶けていくように少しずつ消えていく消太さんの跡も、溶けきる最後の瞬間まで手のひらに乗せて味わっていたいのだ。
と、そこでわたしはベッドの端に置いてあるトレーナーの存在を思い出した。さっきまで消太さんが着ていたものだ。わたしは体を起こしてそのトレーナーに手を伸ばして、手繰り寄せた。
「消太さんの着ていたトレーナー……」
大きな黒いトレーナーに目を落として、わたしは無意識に呟いていた。このトレーナーに顔を埋めて、消太さんの匂いを感じたい。
自分がしようとしていることの変態性については重々承知しているからこそ、かろうじで残っている冷静な自分が、警鐘を鳴らしている。
まて、自分。冷静になれ。こんなことしたら変態が確定してしまうぞ。それでいいのか。
トレーナーを両手で持ち、広げる。するとその拍子に消太さんの匂いが漂ってきた。その瞬間、わたしの中の本丸が陥落した音が聞こえた気がした。
もう無理だ。気がつけばわたしは消太さんのトレーナーに顔を埋め、それだけでは飽き足らず、そのトレーナーを着ていた。途端に大好きな消太さんの匂いに包まれる。控えめに言って天国に行ったような気がした。こんなに幸せな気持ちになるのなら、もっと早く着ればよかったと後悔さえし始めた。
わたしは再びベッドに横たわり、目を瞑る。消太さんの匂いに包まれて横になると、まるで抱きしめられているような錯覚に陥った。自分を抱きしめるように腕を回せば、図らずも昨夜の行為を思い出して身体が熱くなり、たまらず嘆息した。
このまま眠れたら、もしかしたら夢の中で消太さんに会えるかもしれない。彼との逢瀬を願って、わたしは再び微睡の海に身体を沈めていった。
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眠りの海を漂っていたわたしの意識はゆっくりと浮上して、それと共に瞼が開いた。
視線の先には男が眠っていた。柔らかくうねる癖のかかった黒髪が頬にかかっていて、その顔は不健康なほど白い。そして今は閉ざされている瞳はきっとドライアイだろう。
わたしは彼に擦り寄り、抱きついた。消太さんの引き締まった身体が腕の中にある。その感触を確かめるように手を這わせた。
夢の中では自由だ。自分から抱きついても、キスしても、何も恥ずかしくない。
と、そこでわたしは違和感を抱く。
あれ、さっきわたし―――
「随分と積極的だな」
揶揄うような色を持った消太さんの声が降り注いで、急速に目が覚めていく。そうだ、さっきわたし、起きたんだ。だから今は現実で、今目の前にいる消太さんも現実のはずだ。でも消太さんはさっき出張に向かったので、ここにはいないはずだ。頭が混乱してきた。慌てて手を離して、いるはずのない消太さんの姿を見やる。これは夢なのか、現実なのか、混迷極める頭で見定めようとした。白い肌も、そこに生えた無精髭も、わたしを見つめている充血した瞳も、全て本物のように見える。
「え、あれ、本物?」
「寝ぼけてるようだな」
「だってさっき、え、なんで」
まるで本物だと証明するように、消太さんはわたしの頬に手を添えた。その手はいつも通り冷たくて、ああ消太さんだ、と安心感すら覚える。
そして消太さんは事の成り行きをわたしに説明をしてくれた。
「出張の予定だったんだが、急遽キャンセルの連絡が来たんだ。それで戻ってきた。昨日のうちに連絡もらえれば時間を無駄にせずに済んだんだけどな」
「て、ことは今日は一緒にいられるんですか」
「そういうことだ」
「やったあ」
果報は寝て待てと言うが、読んで字の如く寝ていたら果報がやってきた。一人寂しく休日を過ごすところだったが、消太さんが一緒にいてくれる。なんて幸せなのだろう。
頬に添えられていた消太さんの手が優しく髪を撫で付けて、わたしは目を瞑ってその感触を堪能する。子猫を撫で付けるような慎重で優しい手つきは、彼の人間性を表しているかのようだといつも思う。
すっかりその手つきに魅了され、安らいでいると、突如言葉のブローが飛んできた。
「で、なんで俺のトレーナーきてるんだ」
わたしは頭が真っ白になっていくのを感じながら、反射的に目を見開いた。すっかり忘れていたが、今わたしは消太さんのトレーナーを着ている。消太さんはニヤリと揶揄うような笑みを浮かべていて、わたしは今すぐ透明になりたいと心底願ったが、生憎そんな個性は持っていない。代わりに寝返りを打って、消太さんに背中を向けて毛布を頭まで被った。
「名前はいつも澄ました顔してるけど、実は変態だよな」
毛布越しに消太さんの言葉が聞こえてきた。実は変態? 自分でも確かに変態だと思ったが、人から言われると否定したくなる。聞き捨てならない言葉に、わたしは早速毛布から顔を出して再び寝返りを打って消太さんと対峙した。
「わたしは変態じゃないです」
「恋人が不在のときに恋人の着てた服を着て寝てるって充分変態だろ」
言い逃れができないほど的確な言葉が飛んできて、わたしは言葉に詰まるが、なんとかぽつぽつと絞り出していく。
「そうやって言葉にされると、そうですけど……だって消太さんの匂いするから、消太さんが近くにいるような気がして寂しさが紛れるし、ドキドキするんですもん」
全く弁解になってないことは百も承知だが、それくらいの言葉しか出てこない。すると消太さんが手がヌッと伸びてきて抱き寄せられると、おでこ、頬、鼻先、そして唇にキスをされる。その度にちゅ、ちゅ、と音を立てるものだから、キスをされながら同時に鼓膜も愛撫されているようだった。
そしてキスが終わると、ぎゅうっと抱きしめられた。
「本物が近くにいるけど、どうだ」
「……ドキドキします」
消太さんの低くて妖艶な声が鼓膜を通って身体中に行き渡り、じんわりと熱くなる心地がする。わたしの身体はいつの間にか、細胞の一つ一つが消太さんを求めるようになっていたようだ。知り合う前はどうやって生きていたのかもう思い出せないくらい、切実に消太さんを欲している。
「俺がいなくても寂しくないよう匂いを染みつかせないとな」
状況が状況なだけにどことなく卑猥な響きに聞こえる。消太さんは体勢を変えて、わたしの上に馬乗りになった。視界には消太さんでいっぱいで、心臓がぎゅっと縮こまる。消太さんの癖のある黒い髪が重力に従って落ちていて、鬱陶しそうに髪を耳にかけた。髪切ればいいのに、なんて思いつつも、髪を縛った姿も好きなので、そんなことは言わない。
わたしはこの後行われる行為を予感しつつ、口を開いた。
「どうやってですか」
「さあな。俺もやったことないから実践あるのみだ」
きっと色んなところに消太さんの痕跡が残されるのだろう。消太さんはどんな風に実践するのだろう。今日はまだ始まったばかりだから、時間はたくさんある。でもきっと、どれだけ消太さんの痕跡を残されても、きっとわたしはもっと、もっと、と強請るのだと思った。満たされたそばから足りなくなって、もっと欲しいと願ってしまうに違いない。
そしてそんなわたしの思考すら掠め取るように、消太さんは手始めに唇にキスを落とした。
