「お疲れ、最近すっかり寒くなってきたわね」
気がつけば視線の先、カウンター席に腰掛けていた睡さんがくるりと振り返り、ビアグラスを掲げていた。なぜ睡さんがいるのだろう、と一瞬不思議に思うものの、わたしは久々に会えた睡さんに胸が高鳴るのを感じる。
ここはわたしと睡さんがよく行くバルだ。わたしたちは金曜の夜や、このバルの近辺でヒーロー活動をした後なんかによく飲んでいる。最近はすっかり足が遠のいていたから、久々にきた気がする。
「お待たせしました。ほんと、最近朝寒くてびっくりします」
わたしはそれが当然かのように、睡さんの隣の腰掛け椅子に座り込むと、マスターが注文を聞いてくれたので、「ビールを」と睡さんと同じものを頼んだ。
すぐに運ばれてきたビールで睡さんと乾杯する。なんてことのない日常の風景。けれど何かが少しだけ違っているような些細な違和感を感じた。いつもみたいに睡さんと飲んでるだけなのに、何かがおかしい気がしてならない。でもそれが何なのかはわからない。
睡さんはいつも通りで、ビアグラスを置くと美味しそうに息をついた。
「もうすぐヒレ酒が美味しい季節ね」
ビールを飲みながらヒレ酒のことを考えるなんて、さすが睡さんだな、とわたしは少し笑った。
「いいですね。寒くなったら日本酒が美味しいところ行きましょうか」
「そうね。そのときは相澤くんも誘いましょうか」
「えー、睡さんと二人がいいです」
せっかく大好きな睡さんと二人で飲めるチャンスをふいになんてしたくない。睡さんと二人で飲めるなんて、もう二度と―――
もう、二度と……?
ざわざわと、嫌な感覚が這い上がってくる。やはり何かがおかしい。おかしいのわたしなのか、それとも―――
「あんたたちの青クサいやりとり、見させてよ」
「……全然青クサくないですけど」
いつも睡さんはわたしと消太のことを揶揄う。わたしの気持ちを睡さんは知らないけれど、消太の気持ちは知っているからこそ、早くくっついちゃえばいいのに、と言うのだ。
前はそう言われるたびに、―――違う、わたしが好きなのは睡さんなんです。だからそんなこと言わないで! と叫びそうになっていた。けれど月日がわたしをおとなに変えて、今では軽く受け流せるようになっていた。
わたしの気持ちを伝えるつもりは永遠にない。睡さんの近くで妹みたいな距離感で生きていければそれで幸せなのだ。
でも、本当に伝えなくてよかったのだろうか、と思う時もあって―――
と、その瞬間、わたしの頭の中で枝葉を伸ばし続けていた違和感がものすごい勢いで繋がっていくのを感じた。そうして分かってしまったのだ、この違和感の正体を。途端に心臓は暴れ出し、呼吸が乱れるのをやけにリアルに感じた。―――この、夢の世界で。
「どうしたの?」
睡さんが首を傾げた。わたしは、いいえ、と首を振った。
睡さんがいる、このことが何よりの証左なのだ。だって、睡さんは……。そこまで考えて、唇をグッと噛み締める。
最近このバルに行かなくなったのは、睡さんがいなくなってしまったからではないか。何もかもが辛くて、最近ではこの店に近づいてすらいない。
わたしはおそらく今夢の中で、睡さん飲みに来ているらしい。これが夢だとわかることなんてそうそうない。明晰夢、と言っただろうか。だが夢が終わる気配はなくて、睡さんは美味しそうにビールを飲み続けている。
睡さんだ。本物だ。今までの世界が夢だったかのように、隣に座っている睡さんは、睡さんそのものだった。けれど、いつもの睡さんの匂いがしなかった。それどころか、なんの匂いもしない。確かにそこにいるのに、なのに。そういえば先ほど飲んだビールだって、思い返せば何の味もしなかった。
「睡さん」
わたしは隣の睡さんに凭れかかる。
「どうしたのよ」
睡さんが同じようにわたしに凭れかかる。幸せと悲しみが交互に胸を覆って、わたしは何も言えなくなってしまった。言いたいことはたくさんあるのに、そのすべてが言葉にならない。何か言った瞬間、この完璧な世界が瓦解してしまうような気がした。
「睡さんに、会いたかったよ」
「何よ急に。わたしだって会いたかったわよ。……でと、あんまり長くはいられなさそうだわ。せっかく来てくれたのに申し訳ないわね」
わたしは凭れるのをやめて姿勢を正すと、椅子をくるりと回転させて睡さんに向き直った。
「やだ、行かないでよ睡さん。ずっと一緒にいて……! ずっとここにいようよ」
睡さんが困ったように微笑んでいる。そんな顔させたくないのに、そんな顔しかさせられない自分に腹が立つ。でも、きっと言わなきゃ後悔する。多分睡さんに会えるのは、今日が最後だと思うからだ。
「私だって名前とずっと飲んでたいけどさ、相澤くんに怒られちゃうわよ」
「消太は関係ないです」
「よく言うわよ」
睡さんは揶揄うように笑って、わたしの追求から逃れるようにビールを飲んだ。
帰りが遅いときは送ってくれる消太。飲み会の帰り、迎えに来る時は酔い覚ましに水を持ってきてくれる消太。辛い時、悲しい時、気がつけば隣にいる消太。睡さんに彼氏ができるたびに慰めてくれる消太。わたしのことを好きだと、惜しげもなく伝えてくれる消太。満身創痍のくせして、真っ先にわたしのもとへ駆けつけてくれた消太。―――睡さんの葬儀で泣き崩れて動けなくなってしまったわたしを支えてくれた消太。
わたしの人生には、いつも消太がいた。
「睡さんがいない現実より、睡さんがいる虚構で生きていきたい」
それでも、今のわたしは切実に目の前の睡さんを求めていた。だが、そう言いながらも、心のどこかではそれが叶わない願いだって分かっていた。夢はいつか覚めてしまう。永遠にそこに留まることなんてできない。分かってるからこそ、願わずにはいられない。
「睡さんがいない世界なんていらない。ちっとも幸せじゃない」
そして、誰にも言うつもりのなかった心の奥底の声が、魔法にかけられたかのようにスラスラと口から出ていた。だってこの言葉は、睡さんが命を賭して守ってくれたこの世界を否定する言葉なのだ。決して言ってはならない言葉。でも、紛れもない本心でもあった。わたしは今、感情をコントロールする機能が故障しているらしい。相手のことを考えずに、ただ一方的に自分の気持ちをぶつけ続けている。
睡さんは一瞬悲しそうに眉を顰めて、でも次の瞬間にはいつもみたいに美しく、そしてかっこよく微笑む。
「そんなふうに思ってくれてありがとう。でも、私は名前が生き残ってくれてすごく嬉しいのよ」
「そんなこと言うの、ずるいです……」
「だって本当だもの。名前が生きて、笑ってくれれば、すべて報われるってものよ」
そう言って、睡さんはわたしの頭をぽんぽんと優しく撫でた。それがあまりにも優しくて、わたしは目の奥がぐっと熱くなるのを感じた。堪えきれなくて涙がこぼれそうになったとき、睡さんはわたしを抱き寄せた。
「こら、ヒーローは泣かないの」
「だ……って!」
「今だけよ。ね」
睡さんが守り抜いた世界に、睡さんはいない。それでも生きろと睡さんは言う。あまりに残酷な現実だ。ああ、睡さんは厳しいなあ。でも、そんなところも大好きだった。
「わたし、自信、ないです。心の底から喜ぶ、ことも、楽しむことも、できるの、かなぁ」
涙は止まらなくて、しゃくりあげながらも不安を言葉に落とし込んでいく。
「きっと大丈夫よ。あなたは強い子。そして、いつだって支えてくれる人がいるでしょう」
その言葉に、わたしの脳裏には、ひとりの男の姿が浮かんだ。同じことを言うのは嫌いだという合理主義者だというのに、何度だってわたしに想いを伝えてくれる男。
『俺はお前が好きだよ』
まっすぐに、何度でも。
わたしはゆっくりと睡さんから離れると、涙を拭って睡さんを見つめた。睡さんは優しい顔で、わたしの言葉を待ってくれている。
「睡さんが、大好きでした」
ずっとわたしの中に秘めていて、決して伝えるはずのなかった気持ちが今、何のためらいもなく言葉になって睡さんに向かっていった。
途端に、わたしの体の中で硬く縮こまっていた場所がぱっと昇華されて、全身の血が巡り始めたような気がした。今のわたしなら、どこまでも歩けて、どこまでもいくことができるような気さえする。
そっか、わたし、本当は睡さんに伝えたかったんだ。と、伝えたことで初めて気付いた。ありがとう、ごめんね、睡さん。わたしはずっと心配をかけてたね。
「ありがとう。私も大好きよ」
そういって優しく微笑んだ睡さんが、わたしを抱きしめた。匂いも味もしない世界だけれど、その感覚だけは間違いなく伝わってきた。紛い物かもしれないけれど、気のせいかもしれないけれど、睡さんに抱きしめられているのだと確かに感じるのだ。それがどれほど幸せなことか。わたしにはそれを表現する言葉を持ち合わせていなかった。
「もっと、もっと強く抱きしめてください」
睡さんの体とわたしの体の境界がなくなるくらい、ぎゅっと。例え夢でも、虚構の世界でも、今、目の前にいる睡さんはきっと本物だから。わたしの中に睡さんを刻みつけてほしい。そしたらわたしは、ようやく前に進めるような気がするのだ。
「甘えん坊ね」
わたしたちはぎゅっと、強く、抱擁を交わし合う。まるでさよならを言い合っているみたいだった。
やがて睡さんの感触が少しずつ薄れていくのを感じた。
「ずっと名前の幸せを願ってるわ」
気がつけば白い絵の具が滲んだような世界が広がっていた。そして何か液体が伝う気配。少し遅れて、自分が泣いているのだと気づく。
「………ッ!! 睡、さん……っっ!!」
夢の残り香を抱きしめながら、幼子のように声を出して泣いた。睡さん、ごめんなさい。心配かけちゃいましたね。睡さんが愛した世界、睡さんが守った世界を頑張って生きていくよ。また巡り合う日を夢見ながら、わたしはわたしにできることを精一杯やります。
一頻り泣くと、目の奥は重いものの、憑き物が取れたように気分はすっきりとしていた。
締め切ったカーテンを思いきり開いたら、目の奥に沁みるほど眩い白と、澄んだ青が広がっていた。
「しょうた、消太……」
会いたい。とにかく今、無性に消太に会いたかった。消太に聞いて欲しい話があった。
『今日、空いてる? 遅めの朝ごはんに付き合ってよ。そのあと睡さんのお墓参りも行きたいんだ』
トークアプリで送ると、少し経ってから、『空いてるよ。どこに集合する?』と返事がきた。
おろしたての服を着て、新しい靴を履いて出かけるみたいなワクワク感。新しい朝、新しいわたしを見て欲しいのは、消太だから。
身だしなみを整えて外に出れば、さよならを言うにはあまりに眩い秋晴れが広がっていた。
