こんにちは、世界。

「ほんとですか……?」

 期待、不安、いろんなものがないまぜになって、それがそのまま声に乗ったようだった。今わたしはどんな顔をしているのだろうか、自分でもわからなかった。

「うん。もしかしたら、だけど」
「わたし、帰れるかもしれないんですね」

 ハンジさんが曖昧に微笑んだ。ヒィズルのキヨミさんから、もしかしたら元の世界に帰る方法があるかもしれないと、言われたらしいのだ。
 もう何年も前になるが、わたしはこの世界ではないところからやってきた。わたしの記憶にはないのだけど、壁の外で、何もない空に突如として現れ、落ちたのである。それを壁外調査中の調査兵団のハンジさんがキャッチしたのは、偶然なのだろうか。導かれるようにしてわたしはこの世界で調査兵団に、ハンジさんに拾われた。
 あとから聞いた話だけれど、突如現れた異分子を幽閉せよという声もあったらしい。それから、これは言われたわけではないけれど、殺せという声もあっただろう。巨人の仲間かもしれないとか、人間ではないに決まってるとか、色々言われてるのを聞いていたから、納得ではあった。
 だがそれを調査兵団が守ってくれた。一切の責任を調査兵団が持つということで、わたしは調査兵団に保護(監視?)されることになった。
 最初は古いお城の地下みたいなところに閉じ込められていたのだけど、本当に何も知らないばかりか、ひ弱で何もできないと分かると、わたしは地上に出た。そこで、監視されながらも調査兵として働くことになった。
 本来ならば訓練兵団というところで特訓を受けてから調査兵団に入るらしいのだが、いかんせんわたしは調査兵団に監視される立場のため、そこは飛ばして取り急ぎ当たり障りのない庶務を担当して仕事することになった。
 最初こそ本当に共有部の掃除くらいだったものの、だんだんと任される仕事も多くなり、今では大体の雑務はわたしの担当だ。調査兵団の死亡率は他の兵団と違ってかなり高く、志願者も少ないため、常に人材不足で、使えるものはなんでも使いたい、ということだろう。
 中でもハンジさんはわたしのことにすごく興味を持ってくれて、わたしの世界のことを事細かに聞いては、メガネを曇らせるほど興奮しながら、

「素晴らしいなぁ君の世界は! いつか行ってみたいよ」

 というのだった。ハンジさんは面倒見が良くて、何かと気にかけてくれたものだから、一緒に過ごす時間も多かった。
 帰りたい、という言葉を最初のうちはよく言っていた気がする。夜になると心細くて、「なんでわたしがこんな目に」とか、「早く帰りたい」とか膝を抱えて泣いていた。そんなタイミングでハンジさんが部屋にやってきては、「いつか帰れるさ。私が必ず帰る方法を見つけてあげるからね」と頭を撫でて慰めてくれていた。

「……ダメ」

 そのハンジさんが、ぽつりと呟いた声が、静かなわたしの部屋に響いていく。言った張本人が一番驚いたようで、「あっ」と呟いて、今し方漏れ出た言葉を慌てて口の中に戻すかのように口を塞いだ。しかし、当然一度出た声は無かったことにはできない。ハンジさんは口を覆った手で、諦めたように首を掻き、「はは」と渇いた笑い声を漏らした。

「ごめん。なんでもない、なんでもないんだ」

 まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、ハンジさんは踵を返してドアノブに手をかけた。けれど扉を開けず、じっと何かに耐えるように沈黙している。
 やがて振り返ったハンジさんの顔は、諦念まじりだった。そして、

「ごめん」

 と何度目かの謝罪を口にしながら、つかつかと歩み寄り、わたしを抱きしめた。初めての抱擁に、わたしは一瞬抵抗するも、大人しく抱きしめられる。
 誰かに抱きしめられたのは、いつぶりだろうか。どうしてハンジさんはこんなに謝ってるんだろう。そもそもどうして今、抱擁されているんだろう。いろんな考えが浮かんでは消える。けれど、一際強く抱きしめられた瞬間、その考えはすべて霧散した。

「ハンジさん……?」
「帰らないで、お願い」

 わたしを抱きしめる力は痛いくらい強いのに、その声はまるで蝋燭の火のようで、息を吹き掛ければ消えてしまいそうなほどか細かった。
 
「どうしたんですか、ハンジさん」
「ずっとここにいて」

 小さい子が駄々を捏ねるみたいだ。でもハンジさんが冗談の類で言っているわけではなさそうなのはなんとなく分かる。
 わたしたちは、たくさんの仲間を喪った。ハンジさんはその度に彼らの無念を、意志を受け継ぎ、見送ってきた。かつてハンジさんが背中を預け、笑い合った仲間たちは、今や殆どが夜空に浮かぶ星となった。
 わたしは巨人と戦ったことがないけれど、ハンジさんとはそれなりの時間を共に過ごしてきたから、情が湧いているのかもしれない。だから、わたしがいなくなることが一時的に寂しいのかもしれない。だってハンジさんは、帰れる方法を見つけてあげるからね、ってわたしを慰めてくれていたんだから。
 だからきっと、寂しいと思うのなんて一時的だ。傷は瘡蓋になり、跡になる。その跡も、時間をかけて少しずつ消えていく。そう思わなくては、わたしは―――

「……ハンジさん」

 わたしはハンジさんに何の跡も残したくない。ハンジさんの心には、既にたくさんの傷が刻まれて、傷だらけだ。もうこれ以上、この人の心に少しの傷もつけたくない。それならこれまで通り、元の世界には帰らずそばにいればいいじゃないかと思うだろうが、わたしは、ハンジさんの足を引っ張るばかりで何もできないのだ。今だってわたしは、実はマーレの人間なんじゃないかって噂されているのを知っている。それをハンジさんが、調査兵団のみんなが否定してくれていることも。
 謂れのないことで、わたし自身に石を投げられるのならば百歩譲って耐えられる。けれど、それでわたしの周りの大切な人に迷惑をかけるのは耐えられない。だからこそ、帰らなきゃ。
 わたしが言葉を紡ぐ前に、ハンジさんは自重気味に口元を釣り上げて額に手を当てた。

「私、どうかしているよね。だって元いた世界に戻れるのが一番の幸せだって、分かってる。でも私は……絶対にナマエと離れたくない」

 ハンジさんの言葉が体の内側に沁みて、胸が切なく疼いた。鼻の奥がツンとなる。
 わたしは、わたしだって―――離れたくない、ハンジさんとずっと一緒にいたい。でもそう思うことはきっと、許されないことだ。守られるだけのわたしが、この世界で身元すら証明できないわたしが、ハンジさんの隣にいてはだめだ。これから調査兵団を、この島の命運すら背負っていくハンジさんの足かせになりたくない。ハンジさんの背中は、軽やかに羽ばたく自由の翼だけでいいんだ。
 だめだ、抑えきれない。零れないように上を向いて、乾くように必死に瞬きをしたのに、わたしの努力を嘲笑うかのようにぽろぽろと零れ落ちていく。
 何かを感じ取ったのか、ハンジさんが離れたので改めて見つめ合えば、わたしが泣いていることに気付いてハンジさんは瞠目したけれど、困ったように眉を下げて、

「あぁ、泣いてる顔も本当にきれいだな」

 と微笑んだ。このタイミングでそんなこと言うの、堪らなくハンジさんって感じでわたしまで笑ってしまって、お陰様で涙が引っ込んでくれた。
 言わなくては。ハンジさんの幸せのためにも、ハンジさんの未来のためにも。

「ハンジさん。でもわたし……」
「待って、言わないで。聞きたくない。だから先に言わせて、もしかしたらナマエの気持ちを変えられるかもしれないから」

 静止をかけるように手を突き出したので、わたしは思わず黙る。

「ナマエが好き」

 真っ直ぐで力強い言葉がわたしの胸を衝く。こんな夢みたいな言葉を伝えてもらえて、嬉しいと思ってしまう。愚かにも、わたしもだって叫んでしまいたくなる。痛いくらい唇を噛み締めて、そのすべてを押し留める。

「私、本当にこういうことに疎くてさ。こんなことになって初めて自覚したんだ。ナマエがいなくなってしまうって思ったときに、ナマエが生きて、どこかで元気でいてくれたらそれでいい、なんて物分かりいいこと、全然考えられなかった。絶対に離れたくないって思った。生きて、私の隣にいて欲しいって」
「でも、わたし……ハンジさんの足引っ張っちゃいます、マーレの人間なんだって噂されてるのも知ってます、そんな人間を庇ってる調査兵団を、悪く、言ってる人も……! わたしは、これ以上迷惑をかけたくないんです!! だから、帰らないと……!」

 抑え込んでいたはずの感情は、涙と一緒に堰を切ったように溢れ出た。ハンジさんが好きだから、迷惑かけたくない。わたしは帰らないといけない。
 でもハンジさんは、そんなわたしの覚悟を「ばーか!」と一蹴するのだ。軽やかに、でもしっかりと、わたしに気持ちをぶつけてくる。

「そんなくッッッだらねえやつらのことなんて、気にしなくていいんだよ! 顔もわからない有象無象の言うことなんて、どうでもいい。ナマエのことは全部、私がわかってるから。私がすべてから守るから、だから……!」

 もうわたしの涙は止まらなくて、嗚咽すら漏らしながら滲んだ視界でハンジさんを捉える。ハンジさんは、ここにいるよ、って伝えてくれているみたいに、あるいはわたしをこの世界に引き止めるみたいに、わたしの両手をぎゅっと握る。

「私では、帰らない理由になれない?」

 何も言えないでいるわたしに、ハンジさんは祈るように言葉を紡ぐ。

「たとえこの先どんな地獄が待ってようと、ナマエが隣にいるなら怖くないよ。ナマエはどう?」

 ああ、ハンジさんはなんて強いんだろう。わたしは逃げることしか考えてなかったのに、ハンジさんはすべての悪意に、憎悪に、凛と立ち向かおうとしている。
 そうだ、いつだってハンジさんは諦めない人だった。巨人にも屈しない、海の外の脅威にも屈しない。怖くたって、信じた道をひたすら突き進む。
 神様、わたしはハンジさんと一緒にいることが許されるのでしょうか。もしも許されないとしても、迷いなくこの手を取ってくれるであろうこの人と。

「怖く……ない……」

 気づけばぽつりと呟いていた。ハンジさんがいれば、怖くない。どんな悪意も、どんな未来も、すべて乗り越えていける。

「私とこの世界で生きていこう」

 再び抱擁されて、わたしは声を上げて泣いた。この世界に産み落とされたみたいに。優しく背中を撫でられながら、ハンジさんと思いが通じ合ったのだと実感を覚えていく。

「これからきっと、いろんなことが起こる。この世界に残ったことを後悔するかもしれない。……ごめんね、愛しているよ」

 体が離れて見つめ合うと、ハンジさんはゆっくりと顔を寄せて、わたしたちは唇を重ねた。一瞬触れてすぐ離れたそれは、キスというよりかは間違えて触れてしまって慌てて離れたみたいなものだったが、それでもわたしの体に甘やかな充足を与える。

「ハンジさん……好きです」
「……はは、涙に濡れた顔でそんなこと言うの、堪んないなぁ。さっきも言ったけど、泣いてる顔もすっげぇきれいだよ」
「もう……恥ずかしいからあんまり見ないでください」
「帰れない理由、もっと作ってもいい?」

 どういう意味ですか、というわたしの疑問は、今度はしっかりと重なった唇に、舌に、吸い込まれてしまった。

2025-09-07