「おはようございます」
給湯室にいた先客に挨拶をすれば、先客―――相澤先生―――は、驚いたように目を見開いた。そんなに驚くことなのだろうか、なんて思いながらも、漂うコーヒーの芳醇な香りに心が安らぐ。
「おはようございます」
相澤先生も挨拶を返してくれて、ポットの前から少しずれてくれた。わたしは会釈して、置いてあるインスタントコーヒーの粉を自分のマグカップに入れてお湯を注ぎ、スプーンでくるくるとかき混ぜて溶かした。
シンクでスプーンを洗おうとしたところ、不注意でスプーンを落としてしまった。
「あっ」
慌ててしゃがみ込んでスプーンを拾い、相澤先生のズボンにコーヒーが跳ねていないか目で確認するものの、黒くて全くわからない。恐る恐る相澤先生を見上げた。
「すみません、相澤先生。コーヒー、ついちゃったかもしれません」
相澤先生はわたしをじっと見つめて、何も喋らない。その瞳はどこか虚ろで、わたしをぼんやりと見ている。やばい、怒らせてしまっただろうか。
「相澤先生、あの……」
「……えっ、あ、何でしょう」
わたしの声に、意識を取り戻したかのように瞳の奥に生気が宿った。どうやら聞こえていなかったらしい。もしかしたらお疲れなのかもしれない。だとしたらますます申し訳ない。
「あ、その、コーヒー、お洋服についてないですか? 見たところついてなさそうなんですがよく見えなくて」
もしかして、触ったらどこか濡れてる箇所があるかもしれない、と考えてズボンに触れて手を這わせると、相澤先生は後退りして「大丈夫ですから」と切り捨てるように告げて給湯室から足早に出て行ってしまった。
そこでようやく自分がずけずけと相澤先生の服に触ってしまったことに対する無礼さを認識して、ひとりで大後悔をした。やってしまった。そりゃ突然触られたら相澤先生も逃げるはずだ。ほとんど喋ったこともないような相手がこんなことをやるなんて、距離感おかしい女だと思われただろう。でも自分の失態のせいで相澤先生に迷惑が及んでいないか、心配だったのだ。
自己嫌悪に苛まれながら、元凶となったスプーンを洗う。全く、このスプーンが勝手に飛び出さなければこんなことにはならなかったのに、と半ば八つ当たりのような感情を抱きながら、拭いて片付けると、わたしはマグカップを片手に給湯室を出た。まるで拒絶されたかのようなあの後退りがわたしと脳裏にこびりついて離れなかった。
ところがその日の就業時間の後、なぜか相澤先生がわたしのデスクまで訪ねてきてくれた。
「名字さん」
名前を呼ばれて、反射的に立ち上がる。相澤先生は「少しいいですか」といって、事務室から出たのでついていく。まさかの呼び出しに、心臓が嫌に早くなるのを感じる。少し歩いたところで立ち止まったと思ったら、唐突に頭を下げた。
「今朝はすみませんでした。いろいろありまして不躾な態度をとってしまいました」
まさか謝られるなんて思わず、わたしは素っ頓狂な声を上げて手を振る。
「えっ、いやいや、顔を上げてください! 不躾なことをしてしまったのはわたしの方です。急に触ってしまって本当にすみませんでした」
顔を上げた相澤先生は僅かに眉を曇らせて、
「いやそんな、全く問題ないんですが、ちょっと色々……とにかくすみません」
と再び謝られた。こんなふうに被害者である相澤先生に謝られると、立つ瀬がないというものだ。というか、そもそも謝りに行かなければいけないのはわたしのほうだ。けれど最後の拒絶されるような後退りが忘れられず、出向くことができなかったのだ。
「もしよければ何か奢ります。自販機行きませんか」
「相澤先生は何も悪くないのに変ですよ。むしろわたしが! 今財布持ってきます」
踵を返して事務室に行こうとしたわたしの腕を、相澤先生はパッと掴んだ。
「いや、とにかく黙って奢られてください」
謎の気迫で凄まれて、わたしは怯んだ。奢られてくださいなんて言われることはそうそうない。はい、と小さな声で頷いて、大人しくついていくことにした。
放課後の学校は昼間と比べると静かで、外から聞こえてくる生徒たちの声が窓ガラス越しに聞こえてくる。前を進む黒ずくめの相澤先生の周りには、橙色の光の粒が舞っている。
休み時間になると生徒たちで賑わう自販機の周りにも、今は誰もいない。わたしたちはすんなりと自販機の前へとやってきた。千円札を自販機に入れた相澤先生から促すような視線を受けて、わたしはおずおずと尋ねる。
「本当にいいんですか……?」
「はい。なんでも好きなの買ってください」
ここまで来たらもう、お言葉に甘えよう。わたしはココアのボタンを押した。一日の仕事を終えて疲れていたというのもあって、甘いものを欲していた。相澤先生はそのあとにコーヒーを買って、ふらりとベンチへ向かったのでわたしもついていき、並んで腰掛けた。
隣に座ると急に距離の近さを感じてしまい、少し戸惑う。ちらと相澤先生を見れば、相澤先生もわたしを見ていて、背中に嫌な汗が滲む。化粧崩れてないだろうか、髪型は変ではないだろうか、こんなことなら口紅を塗り直しておけばよかった。なんて色々な後悔が瞬時に浮かぶものの、それを隠すように視線を手に持ったココアに移した。
「ありがとうございます。すみません、ほんとうに」
「こちらこそすみません時間外に。どうぞ」
「あ、はい、いただきます」
相澤先生とココアとで視線を行き来しつつ、ぺこりとお辞儀をしてプルタブを開けた。ココアを飲むと、甘さがゆっくりと身体に浸透し、疲れがほどけていくような心地がした。
「ココア、好きなんですか」
「はい。たまに飲みたくなりますね」
それきり沈黙が落ちた。座ったからと言って、相澤先生が何かを喋るわけで訳ではないらしい。相澤先生は無言でコーヒーを飲んでいるので、わたしもココアを飲む。
静かなこの空間では、いつもだったら聞こえてこないような音がよく聞こえてくる。自販機から聞こえるコンプレッサーの音、相澤先生が腕を動かすたびに聞こえる衣擦れの音、コーヒーを嚥下する音、飲んだ後に聞こえてくる微かな吐息。
逆に言えば、わたしの発する音もきっとよく聞こえてしまうに違いない。それはなんとなく嫌だ。早く飲んで戻ろう、と思って、くっとココアを飲み切った。
「美味しかったです、ごちそうさまでした」
相澤先生は尻尾を踏まれた猫みたいに目一杯目を見開いた。けれどそれは見間違いかと思うくらい一瞬の出来事で、すぐにいつもの相澤先生に戻った。
「いえ。ではまた」
そうして相澤先生は立ち去っていった。わたしは何か変なことを言ってしまったのだろうか、と不思議に思ったが、追いかけて聞くほどのことでもなく、結局聞かずじまいだった。
+++
強く握ったら折れてしまいそうな指。相澤と比べて幾分細い、五本の指が相澤の屹立したそれを優しく握った。相澤の性器は赤黒く勃起して血管が浮き出ており、だいぶ凶悪でグロテスクに見える。それに対比するように彼女の指や顔は、清廉で美しく見えた。だが、相澤の前にしゃがみ込み、相澤を見上げるその瞳は欲にまみれ、恍惚に染まっている。
「相澤先生、おっきくなってますね」
やがてその手に程よい力が込められて、ゆっくりと上下にしごいた。すると、今まで感じたことのないような快感が迫り上がってくる。
性器の目の前にある彼女の顔、少し開いた赤い唇から、白い歯が覗く。やがてその唇が相澤の先端をぴたりと包み込むように吸い付いて、頬張るようにゆっくりとすべてを咥え込んでいく。上目遣いにこちらを見上げて、
「きもひいれすか?」
と、性器を口に含んでいるため変な発音で尋ねられた。相澤は「気持ちいいです」と思ったままに答えた。
口全体で包み込みながら、舌先で裏筋をちろちろと舐めるのも忘れない。手も添えて口の補助をするように一緒に上下すれば、脳裏が灼けるほどの快感が押し寄せてくる。
やがてつま先からつむじまで突き抜けるような耐え難い射精感が一気に迸り、相澤の欲望は彼女の咥内に放たれた。すべてを出し切ると相澤は彼女の口から引き抜いた。彼女―――名字―――は、迸りを味わうように飲み干すと、蜂蜜を溶かし込んだみたいな甘やかな微笑みを浮かべた。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
+++
気がついた時には真っ白な天井が視界に広がっていた。直後、なんとも言い難い不快感を下半身に感じたので、寝袋のジッパーを下げ確認すると、案の定下着の中で精液が暴発している。
どうやら、付き合ってもない女性と身体を交える夢を見ていたらしい。そして年甲斐もなく夢精した、と。
その女性―――名字―――とはたまに給湯室で会うくらいで、挨拶くらいしか交わしたことがない。名字はわかるが名前は知らないし、ましてや年齢、既婚か未婚か、彼氏の有無、なんてものは全く知らない。興味もなかった。
だというのに、不思議なもので、今は名字のことが気になって仕方ない。なんとも馬鹿げている。このままこの夢を頭から取り出してシュレッダーにかけ、無かったことにしてしまいたいが、それは叶わない。忘れようと思えば思うほど、鮮明に夢は脳に焼き付いていく。
彼女とはほとんど会わないから心配はないと思うが、今日の今日、会ってしまったらさすがに気まずすぎるので出来れば遭遇したくない。
しかし、そういう時に限って、会ってしまうものなのだ。
「おはようございます」
こんな偶然、あるのだろうか。今朝方夢の中で相澤の陰部をしゃぶり、精液を飲み干してくれた彼女と給湯室で出くわした。彼女とここで会うことは月に一度あるかないかぐらいなのに。相澤は一瞬フリーズしたが、すぐに我に返って「おはようございます」と挨拶を返す。
夢の中とはいえあんなことをしてもらった手前、顔が直視できない。自分がポッドの前にいることに気づいて、すぐさま横にずれる。名字は会釈して、持っていたマグカップにインスタントコーヒーを入れた。そんな様子を隣で無遠慮ながらじっと見つめる。相澤と比べると小さな手、細い指。ふっくらとして柔らかそうな頬。ふわりと香ったのは洗剤や柔軟剤か、香水か。その匂いはやがて、コーヒーの匂いにかき消されてしまった。
彼女はインスタントコーヒーの粉をくるくるとスプーンでかき混ぜて、そのスプーンをシンクに持って行こうとしたところ、シンクのふちにぶつけてスプーンを落とした。
「あっ」
からん、という高い音が聞こえてきた。彼女は慌ててしゃがみ込んでスプーンを拾うと、顔を上げた。
瞬間、昨夜見た淫夢が鮮烈に浮かんで、目の前の彼女と重なる。服を着て不安げにこちらを見上げている名字の姿と、一糸纏わぬ姿で陶酔したような表情で見上げる名字。
瞬間、下腹部に熱が急速に集中するのを感じる。彼女の手が服越しに相澤の足に触れる。マズい、と反射的に後退り、早々と給湯室を立ち去った。
その日は気がつけば名字の顔が浮かんだ。それは夢の中の彼女の時もあったし、今朝方見た現実の彼女の時もあった。
―――クソ、なんなんだ。
率直に、腹が立った。彼女のせいで仕事に集中できない。なぜこんなにも彼女に頭の中を占領されているのだ、と考えたらふと、もしかしたら自分は名字に会いたいのではないかと思い始めた。そう思ったらそうとしか思えなくて、さっさと会いに行って答え合わせをしようと思ったが、授業もあるし、仕事もある。それに、用事もないのに会いにいくほどの度胸はなかった。結局、相澤は仕事が終わるまでは我慢することにした。
終業後、彼女のもとへ会いにいく道すがら、柄にもなく緊張していることに気づいて、そんな自分にも腹が立った。なぜこんなにも意識しているのだ。本当に馬鹿馬鹿しい。そうして事務室で彼女を見つけた瞬間、相澤の心臓がぐっと痛んだ。なんなのだ、本当に。
今朝の非礼を詫びるという名目で彼女を連れ出して、自販機でジュースを奢った。いつも給湯室で会う時はコーヒーを飲んでいたので、ココアを選んでいるのは意外だった。と思ったが、そもそも意外と言えるほど彼女のことを知らないことを思い出す。
「ココア、好きなんですか」
「はい。たまに飲みたくなりますね」
聞いたものの、それから話を膨らませる技術はなかった。何か話したほうがいいのだろうか、と考えながら、お茶を濁すようにひたすらコーヒーを飲み続けていたらすぐになくなった。程なくして名字もココアを飲み切って、にっこりと微笑んだ。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
それは、夢の中で最後に言われた言葉に他ならなかった。衝撃波に頭のてっぺんからつま先まで包まれて、再び夢の彼女と現実の彼女が重なる。現実の彼女はこんなふうに微笑んで、こんな声で言うのか。
ほとんど反射的に相澤はすっくと立ち上がって、「いえ。ではまた」といって、この場を立ち去った。
「…………はぁ」
人気のない場所で立ち止まり、重いため息を吐いた。まるで思春期のガキだ。どうしてあんな夢を見た、どうしてこんなことになった。しかも結局、彼女に会いたかったのかどうかもわからなかった。一つ、確かなことは、今朝の夢がより深く相澤の脳に灼きついたということだ。
やるせない気持ちを抱えながら、鬱屈な気持ちを吐き出すように再び長く息を吐く。
今日はさっさと帰って寝てしまい、この夢を上書きしてしまおう。こんな気持ちはきっと今日だけで、時間が経てばすぐ忘れるだろう。そう思っていた。
ところがこの日以降、たまに彼女の夢を見ることになり、日を追うごとに少しずつその頻度は上がっていった。夢の中では相澤と彼女は恋人同士で、学校で他愛のない話をするプラトニックな夢のときもあるけれど、大体がベッドの上で淫らに抱き合っていた。(相澤の家にはベッドがないのだが、夢の中ではベッドがある)
給湯室でシンクに手をついた彼女を後ろから犯す夢もあったし、誰もいない演習場で開放的にセックスする夢もあった。夢の中の彼女は相澤に夢中で、もっともっと、と求め続ける。そんな夢を見ると、現実ではなかったことに対して虚しい気持ちになり、やがてそんな夢を見たことに対して自己嫌悪に陥るが、悲しいほど身体は素直に反応を示す。夢精しているか、そうでなかったら陰茎は今にも絶頂を迎えてしまいそうなほどぎちぎちに張り詰め固くなっていた。
これはただの劣情なのか、それとも恋慕からくるものなのか、相澤は日を追うごとに分からなくなっていった。
ただ一つ言えることは、彼女のことを求めてやまないということだった。だから寝ても覚めても彼女の姿が頭の中でチラつくのだ。まるで相澤の中に棲みついたかのように、ふとした瞬間にイタズラに現れては相澤を惑わせる。
近頃の相澤は、夢で見たすべてが現実だったらいいのに、と思うようになっていた。そうすれば理由なくても、飲み物を買いに一緒に自販機へ行けるし、暇なときに「今何してるの」と聞ける。それから、「会いたい」と電話をかけることだって。
―――いや、性格的にそれはしないか。
兎にも角にも、自分の中に起こったささやかな変化に戸惑いながらも、その度に少しずつ相澤の中に棲みついた名字は大きくなっていく。
淫夢を見た朝は、その記憶をなぞりながら己を慰めて、日中彼女と遭遇すればその日の夜は彼女を脳裏に浮かべて自慰をする。相澤の性欲はすべて彼女に直結するようになっていた。
そもそもあの夢を見るまで、相澤の性欲は最低限しか備えていなかった。自慰だって殆どしないし、特定の誰かにムラっとくることなんてなかった。それが今はどうだ。名字名前に欲情し、こうして今夜も自慰に耽っている。
「……はぁっ……っ!」
今日は廊下ですれ違ったときに、会釈して微笑みかけてくれた。そのときのことを思い返しながら、相澤の右手が怒張したそれをしごきあげる。
「名字さん……、名前……」
乱れた吐息の隙間で睦言のように彼女の名前を呟く。『相澤先生』と呼んでくれる声が、いつも心地よい。慣れた手つきで上下すると、自分の気持ちいいところは自分がよくわかっているので、最短ルートで絶頂へと近づいていく。自分の中で燻っている性欲は、自分の手で解消すればいい。そう思っていた。
でも今は、名字の身体に触れたいと思っている。彼女に触れて、ひらいて、彼女の中に入って、ひとつになり、味わうようにゆっくりと動く。どんな味がするのだろうか。どんな表情をして、どんな声で啼いて、オーガズムを迎えるのだろうか。
そんなことを想像したら、快感がぐんと深くなって急速にメーターが振り切れた。
「名前っ………くっ! ぁ……」
性器から勢いよく飛び出た精液はティッシュで無事にキャッチし、乱れた息を整えていく。倦怠感と共に湧き出るように込み上げてくる感情に、相澤はたまらず舌打ちする。
「あ〜〜〜くそ!! もう無理だろこんなん」
日毎に大きくなっていくよく分からない感情をしまっておくには、もう何もかもが限界だった。彼女について知りたいことは、A4用紙一枚では到底足りないくらい増え続けている。もっと名前のことを知りたい。
この感情の正体がただの肉欲なのか、それとももっと違う恋慕のようなものなのか、分からない。分からないけれど、伝えたい。名前のことを年甲斐もなく馬鹿みたいに想っている、と。―――あなたは俺のことをどう思っていますか。
+++
自分の気持ちを認めてしまうと、憑き物が取れたかのようにすっきりした。誰かのことを強く思うことはほとほと疲れてしまうが、どうしようもないことというのはあるのだ。この執着にも似た気持ちからは逃れられないことはよくわかった。だったら受け入れるのが一番合理的なのだろう。
「おはようございます、相澤先生」
「おはようございます、名字さん」
最近は敢えて彼女と会えるような時間帯を狙って給湯室に行くようになっていた。会えないこともあるが、こうやって会えると胸の内でひそやかに喜びが広がっていく。
「最近よく会いますね」
何も気づいていない名字が、にっこりと微笑んで言った。が、相澤はなぜか違和感を覚えた。じっと見てその正体を突き止めようとすると、すぐに分かった。名字の目は心なしか赤く、腫れぼったかった。
「……なんだか元気がないように見えますが、大丈夫ですか」
名字は驚いたように瞠目した。どうやら図星だったのだろう。
「あは……実は、ずっと付き合ってる彼氏がいるんですけど」
その言葉を聞いた瞬間、頭が鈍器で殴られたようにがつんと痛んで視界がぐわんと歪んだと思ったら、床が割れてそのまま落ちてしまったような落下感に襲われた。
―――マジかよ。
色々と、この一言だった。
―――彼氏、いたのかよ。そんでそれに俺はショックを受けてるのかよ。
図らずも最後の一押しとなった。どうやら相澤は、名字のことが好きだったらしい。やはりと言えばやはりだ。相澤の戸惑いをよそに、名字は言葉を続ける。
「最近はもう殆ど惰性で付き合ってるみたいな感じで。わたしもいい年なんで、そろそろ決着つけないとなって思ってたんですけど、昨日、彼が浮気していたのがわかって」
瞬間、顔も見たことがない、なんなら存在すら知らなかった名字の彼氏に対して沸騰するように怒りが湧いた。名字の彼氏という座にありながら、浮気をするなんて。そもそも浮気なんて合理的ではないことをする男が理解できない。違う女を好きになったのなら、さっさと別れてその女の方へ行けばいいというのに。
「彼の気持ちが離れていたことにはなんとなく気づいていたんですが、浮気されてたって思ったらショックやら悔しいやらで」
名字は微笑んで、「朝から重い話をしてすみません」と謝った。その表情が痛々しかった。
「……名字さんは、未練はないんですか」
核心をつく質問に、心臓の動くスピードが早くなる。名字は頭を振った。
「未練は全然ないです。寧ろ、別れるきっかけができてよかったのかもしれないって思いました。そんな人だってわかるのに時間がかかっちゃいましたけど」
彼氏の不貞のせいで傷ついている名字には本当に申し訳ないが、相澤は柄にもなくガッツポーズをとってしまいそうなほど嬉しかった。彼氏に未練がないイコール相澤にもチャンスがあるということなのだから。
「名字さんなら引く手数多じゃないですか」
「あはは。そんなわけないですよ」
一笑に付されてしまったので、「俺は本気で言ってますよ」と食い下がったが、「いやいや」と取り合われなかった。どうやら全く相手にされていないようだ。
それから名字はいつも通りマグカップにコーヒーの粉を入れてお湯を注ぎ、スプーンをくるくると回して溶かした。コーヒーが渦巻いている様をじっと見つめ、それが凪ぐと細く息を吐いた。やがて自分で自分を肯定するかのように頷いて、相澤を見上げた。
「正直、また誰かと恋愛できる自信はないですけど、彼とは別れようかなと思ってます」
大丈夫だ、と言ってあげたい。少なくともここに、あなたを想っている男がいるんだから。
「それがいいと思います。俺は待ってます」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出た。
「はい、ありが……え? 待ってる?」
困惑がじわじわと滲んでいくのが見てとれた。それは初めて見る表情で、改めて相澤は彼女の様々な表情を一番近い場所で見ていたいと思った。だからこそ、相澤は言葉を紡ぐ。
「ええ。名字さんが別れた後、伝えたいことがありますから、さっさと別れてください」
相澤の中に名前が棲みついて、出ていってくれないこと。そのせいで、停滞していた相澤の世界が動き出したこと。動機は不純で、到底言えたものではないけれど。
「えっと………え? 相澤先生?」
「早く別れて、口説かれる準備をしてください」
相澤の言葉の意味が伝わったのか、一気に顔が赤くなって、耳まで染まった。その瞬間、己の中で湧き立った感情の名前は、きっと。
