メルティ・チョコレイト

 チョコレートには中毒性がある。ひとたびそれが癖になってしまえば、もっともっととチョコレートを欲しがって、離れられなくなるのだ。

 ―――あー、チョコ食べたい。疲れた。チョコ食べたい。

 今、わたしはまさにチョコレート中毒と言えよう。残業で集中力が散漫になってきて、チョコレート食べたい以外のことを考えられなくなってしまった。抽斗にいつもストックしているのだが、わたしとしたことが最近忙しくて買い足しができず、今日の午後に食べ切ってしまった。抽斗の中にはせんべいが入っていたが、気分ではない。わたしはいま、チョコレートが欲しいのだ。
 残業真っ只中の今、購買はもちろんやっていない。近所のコンビニに行くほどでもない。それならもう、諦めて帰宅する。ゆえに、仕事をするのならばチョコレートは我慢以外の選択肢はないのだ。

「あ゛ー」

 仕方がないので、この気持ちを声に出して大きく伸びをした。もういっそ、いい機会だから、チョコレート断ちをするのもいいかもしれない。なんて思っていたその時だった。

「どうした」
「っわ!!!!??」

 不意に後ろから声がかかって、危うく椅子から転げ落ちそうになる。

「びっくりした、驚かさないでくださいよ。……相澤先輩」

 誰もいないと思っていたから思う存分声に出したというのに、慌てて振り返ればまさかの相澤先輩がいつのまにやらわたしの背後に立っていた。相変わらず全身黒ずくめに首周りには使用感があり薄汚れた捕縛布。血色の悪い顔には無精髭が伸びている。とっくに帰っていたと思っていたのに、よりによって相澤先輩が残っているとは思わなかった。
 相澤先輩は雄英高校時代からの先輩だ。本来ならば同じ教師同士、相澤先生、と呼ぶべきなのだろうけれど、亜南同様、なんとなく先輩と呼んでしまっている。

「驚いたのはこっちだ。抽斗をガサゴソと漁ってると思ったら急に奇声をあげたのを見せられてたんだぞ」
「見せられたって! ていうか、そこから見てたんですか。声かけてくださいよ、恥ずかしいな」

 決して見せていたわけではない。見られてしまったのだ。わたしは被害者なのに、さも自分は被害者かのように相澤先輩は宣った。
 相澤先輩はわたしの隣のデスクを使っていて、わたしの猛抗議をさも聞こえてないかのように無視して腰掛けると、澱みない動きで両目に目薬をさした。

「……相澤先輩こそ、何してたんですか」
「生徒の指導。こんな時間まで合理的じゃないんだがね」

 きっと、普通科の心操くんだろう。相澤先輩は最近、心操くんに対して個人レッスンを行なっていて、わたしも何度かその姿を見ている。

「大変ですね。お疲れ様でした」
「お前は。何してたんだよ」
「わたしも放課後生徒たちの特訓に付き合ってたので、今事務作業を片付けてるところです」

 生徒それぞれ個性が違っていて、だからこそ、それを伸ばす方法もそれぞれ違う。相澤先輩と心操くんが合っているように、わたしと合っている子を伸ばす訓練をつけていた。つい熱が入って遅くなってしまって、残務を片付けるのにこんな時間までかかってしまった。

「それでこんな時間まで? 実に合理的じゃないね」
「余計なお世話です」

 自分でも分かってはいるが、こうもズケズケと指摘されるとムッとすると言うものだ。何が、実に合理的じゃないね、だ。こんな時間まで大変だね、でしょ! という抗議はなんとか飲み込む。相澤先輩に言ったところで、シラーッとした冷たい目で一瞥されるのが関の山だろう。わかりきったことだ。
 相澤先輩はそのままデスクで何か作業を始めたので、わたしは自分の仕事に戻ることにした。
 今日の指導記録をまとめながら、生徒のことを思い出す。今日見つかった改善点を次の指導に活かす。そのためにも、指導記録をなるべく仔細にまとめることは必要な仕事だ。

「おい」

 わたしがカタカタとキーボードを鳴らす音の隙間、相澤先輩から雑に呼ばれたので手を止めて「なんです」と隣を見る。

「はい、残業頑張ってるご褒美」

 相澤先輩が親指と人差し指で摘んで差し出したのは、ぼこぼことした形状的にマカダミアナッツの入ったチョコレートだった。先ほどは実に合理的じゃないと言いながら、今は微笑みを浮かべて労いの言葉までかけてくれている。そのコントラストに戸惑っていると、

「あ、ちゃんと手は洗ってあるから安心しろ」

 と、別に気にしていなかった部分についてフォローした。相澤先輩が微笑んでる姿なんて、なんともレアな姿だ。でも、だからといって、こんなにも心臓が忙しなく動くなんてどうしたんだ、わたし。静寂が包むこの職員室で、バクバクという心音が伝わってしまいそうで怖いくらいだった。

「ありがとう……ございます」

 なんとかお礼を言ったものの、わたしはまだ頭がぼんやりとしていて、そのチョコレートをどうすればいいのかわからなかった。冷静に考えれば、ただ受け取ればいいだけなのに、その判断ができなかったのだ。

「嫌いか?」

 相澤先輩に問われて、「いえ! 大好きです」とそれには食い気味に答えると、

「だよな、いつもむしゃむしゃ食べてるもんな」

 と相澤先輩は目元を細めた。むしゃむしゃって言い方恥ずかしいんでやめてください、と普段なら眉根を寄せているだろうが、わたしは相澤先輩のレアな笑顔につい見惚れてしまって、何も言えなかったのだ。ていうかいつも食べてるの見られてたんだ、なんて思うと、別の意味で衝撃が押し寄せる。相澤先輩はわたしの機微なんてどうでもいいと思ってるだろうと思っていたから。見られているなんて思いもしなかった。

「ほら」

 なかなか食べないわたしに対して、ついに相澤先輩は椅子のローラーを使って一気に距離を縮めると、わたしの半開きになった唇の隙間からチョコレートを押し込んだ。わたしの唇に微かに触れた相澤先輩の指は、指の皮が固くて、太い。そんなことに、わたしの心臓はきゅっと締め付けられる。
 ボコボコとした形のチョコレートを噛み締めれば、柔らかなチョコレートの中にマカダミアナッツがいて、食感を変える。甘いチョコレートが舌先で溶けて、脳髄まで痺れる心地がした。
 何これ、いつもよりとても甘く感じるのは、チョコレートを渇望していたからだろうか。それとも、相澤先輩からもらったから? 甘いチョコレートと、歯応えのあるサクサクとしたマカダミアナッツの香ばしい風味。なんの変哲のないチョコレートだけれど、間違いなく、世界で一番美味しいチョコレートだ。

「……すごく、美味しいです」
「それはよかった」

 相澤先輩は笑みを深いものにする。もう直視できなくて、わたしはふい、とパソコンに視線を戻した。

「ありがとうございます」

 と我ながら笑っちゃうくらい妙に平坦な声で礼を述べて、指導記録の続きを打ち込もうとするのに、頭が別のことでいっぱいになって何も考えられなくなってしまった。それが相澤先輩にバレないように、それっぽい言葉を打ち込んでは消し、打ち込んでは消し、を繰り返した。
 ああ、やばい、何も手につかない。頭に浮かんで離れないのは、チョコレートを差し出した相澤先輩の微笑み姿と、その指の質感だ。
 わたしはもう観念して手を止めると、くるりと相澤先輩に向き直った。

「あの、相澤先輩。もう一個……食べたいです」
「ん? いいよ」

 相澤先輩はまた箱からチョコレートを摘むと、わたしとの距離を詰めて「どうぞ」と言ってわたしに差し出した。一瞬、手で受け取ろうとして、わたしはやめた。餌を待つ雛鳥のように、口を少し開けて、相澤先輩をじいっと見る。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打っていて、今にも口から飛び出ていきそうだ。
 わたしの行動で相澤先輩は色々と察したらしく、「お前な」と呆れたように呟くと、

「内緒だぞ」

 と言って、再びわたしの舌にチョコレートを置いた。誰に内緒なのだろうか、と、チョコレートを咀嚼しながら考えたが、わからなかった。でも誰にも言うつもりはないから、いいのだ。これはわたしと相澤先輩だけの秘密の夜のお話だから。……なんて言ったら随分と艶かしく聞こえるけれど。
 わたしの口の中で溶けていくチョコレートはやっぱり世界で一番甘くて、美味しくて、当分チョコレート中毒を卒業できないかもしれない、と思った。

「明日も残業か」

 食べ終わる頃に相澤先輩に聞かれたので「多分、しばらくは続くかもです。寮でやってもいいんですけど、部屋だと集中できなくて」と答える。

「そしたら、続きは明日な」
「……明日もくれるんですか?」

 明日も残業に付き合ってくれるのだろうか。

「お前に全部あげる」

 何それ、何それ、何それ。深い意味はないのだろうけど、瞬時に色々なことを考えてしまって、血の巡りが良くなったわたしの顔は多分真っ赤に違いない。

「ぜ……全部なくなった後はどうするんですか」
「さあ、どうだろな」

 お前はどうしたい? と言う問いは、わたしの体の中に甘く溶けていく。チョコレートよりも甘くて、中毒性が高い。わたしは生唾をごくりと飲んだのだった。