Prologue

 三日月・オーガスという男は、ナマエにとってはこの宇宙で何よりも特別な存在だ。不思議な魅力を持っていて、ナマエはその魅力に絡め取られて離れられない。もがけばもがくほど、どんどんと絡まっていくのだ。だからもうナマエはもがくことをやめて、ただひたすらに惹かれ続けている。

 日も沈み、HABA’S STOREでの仕事も終わると、ナマエはバイクを走らせてCGSへと向かっていた。CGSはこの火星のアーブラウ領独立自治区であるクリュセ郊外にある民間警備会社だ。
 火星は実質的な地球圏の植民地となっている。火星ハーフメタル資源以外の資源が枯渇し、貧富の差が激しい。その結果、火星には満足な教育を受けられないストリートチルドレンが蔓延している。CGSに所属している少年兵たちの大半も、教育を受けていない子どもたちだ。
 ナマエはもともと火星の中では裕福な家に生まれ育った。しかし両親が亡くなり、一人娘だったナマエは遺産を親族に掠め取られると、あっという間にストリートチルドレンに成り果てた。文字の読み書きはできても、この火星で一人で生きる術は持たない。死にかけていたところを三日月とオルガに助けられたのだった。

『大丈夫? 俺は三日月』
『オルガだ』
『……ナマエ、です』

 あのときのことは、きっと一生忘れられないだろう。差し出された手は大きくて、力強かった。
 それから二人にHABA’S STOREを紹介されて、ありがたいことに住み込みで働かせてもらうことになった。そこでアトラという少女とも出会い、今日に至る。
 HABA’S STOREはクリュセの雑貨屋で、雑貨屋を営む傍らCGSに食料を卸している。そのため、アトラと二人でCGSに配送しに行く際に、三日月やオルガとも会えて、そのつながりで、少年兵で構成されているCGSの参番組メンバーとも仲良くなっていった。
 ナマエはもともとメカニック関係が好きで、モビルワーカーや大昔のガンダム・フレームなどの本を読むのが好きだった。ナマエの数少ない持ち物の中に昔両親に与えてもらったタブレットがあるが、そういった類の書籍が詰め込まれている。ナマエの宝物だ。
 CGSに配達に来たときに、動き回るモビルワーカーを間近に見たときは感動したものだ。それからたまに、仕事が終わるとCGSにこっそりと忍び込んで、モビルワーカー整備の手伝いをさせてもらっている。今夜もそれが目当てでバイクを走らせてCGSまでやってきた。
 バイクを止めると、三日月から貸してもらっているCGSのジャケットを着込んで、格納庫へと逸る気持ちをそのままに駆け足に急ぐ。このジャケットさえ着込めば、CGSの上の人に見つかっても誤魔化せる。なぜなら彼らは、少年たちのことを一人一人把握なんてしていないのだ。1人見知らぬものが紛れていたとしても、絶対に気づかないだろう。

「こんばんは! おやっさん」

 格納庫で、おやっさんーーー雪乃丞ーーーを見つけると、ナマエは元気よく声をかける。雪乃丞はナマエの声にくるりと振り返ると、手を上げて迎え入れた。褐色の肌に、短く刈り上げた髪、何日も剃っていないであろう髭が生えているガタイのいい大人だ。その足は義足で、いつでも腹巻きを巻いている。愛称は『おやっさん』で、ここCGSのモビルワーカー整備を任されている。
 ナマエの声に吸い寄せられるように、タカキが駆けつけてきた。タカキは少年兵たちのまとめ役で、頭の上は金髪で、下は黒髪という珍しい髪色の可愛い男の子だ。

「ナマエさんいらっしゃい!」
「タカキ! お疲れ様。これお土産だよ」

 ナマエはカバンから袋いっぱいのお菓子を出すと、タカキに手渡した。いずれも消費期限の関係で廃棄寸前のお菓子だが、その分安く手に入る。ナマエは給料でたまにお菓子を買ってはこうして差し入れをしているのだった。

「わぁ、ありがとうナマエさん! 早速配ってきます!」

 タカキが目を輝かせて袋を掲げると、とても嬉しそうに走っていった。この姿を見ると、また買ってこようと思うのだ。タカキの後ろ姿を見送ると、雪之丞を見上げる。

「今日は何をすればいい?」
「そうだな。ヤマギの手伝いをしてやってくれや」
「わかった。いってくる!」
「おめえは本当に好きだな」
「まあね。整備ってすごく楽しいんだもん」

 緻密なリレーが重なり合って大きな機械が動く。その美しい構造を見ていると胸が高鳴るし、その仕組みを考えた人は本当にすごいと思う。芸術作品そのものだと思う。その機械構造をいじることによって、故障を直したり、はたまた機能を向上させたりすることもできる。こんなに素晴らしい仕事はない。
 雪之丞の暖かい視線を背中で受けつつ、格納庫の中をヤマギの姿を探す。ヤマギは金髪の髪で片目を隠していて、口数は少ないが優しい整備班の美少年だ。格納庫を歩いているとヤマギの姿はすぐに見つかって、雪之丞から手伝うように言われた旨を伝えると、ヤマギは早速仕事の割り振りをしてくれた。
 ときに相談しながらモビルワーカーの整備をしていると、あっという間に時間が経っていく。ヤマギが真剣な表情でモビルワーカーを整備するナマエを見て呟くように言った。

「ナマエも物好きだよね、仕事でもないのにモビルワーカーの整備なんて」

 ナマエはモビルワーカーから顔を上げてヤマギを見ると、にっと微笑んだ。

「わたしメカニックの整備好きなんだよね。それに、皆に会えるし!」
「みんな? 三日月さんじゃなくて?」

 からかうようなヤマギの物言いに、ナマエの頬に朱が差す。ナマエはヤマギよりも年上だけど、こういうところは分かりやすいな、とヤマギは思う。

「み、三日月も勿論だけど、みんなだよ、みんな。ヤマギと整備できるのだってすごく楽しい。ねえ、ここのパーツ、補修じゃ難しそうだからリビルト品に取り替えたほうがいいと思うんだけどどう思う?」

 慌てたように話をすり替えたナマエが指さした箇所の損傷は激しく、確かに補修では難しそうであった。ヤマギもナマエの意見に同意するように頷く。

「確かにそうだね。ちょっと持ってくるよ」
「ありがとう」

 ヤマギがリビルトパーツを取りに行っている間、別の箇所を丁寧に見ていく。すると、近づいてくる人の気配を感じる。ヤマギが戻ってくるにしては早い時間だ。ナマエがそちらを見る前に、声が聞こえてきた。

「ナマエ」

 ヤマギよりも低い声で名前を呼ばれてナマエの心臓が深く脈打つ。声の主は、見る前にもわかる。心が、身体が、彼の声を覚えているのだ。

「三日月、どうしたの? ヤマギに用事だった?」

 そう、三日月だ。全てを見透かすような大きな青い瞳に、彼自身の意志の強さを表すような眉毛、ツンと尖った高い鼻梁。同世代の男と比べると些か小さめの身長が、彼らしさを表しているようだ。
 ナマエにとっては三日月を三日月たらしめるすべてが愛おしい。だからきっと、三日月がどんな姿をしていたって、その姿はナマエにとって愛おしいのだろう。

「ううん。タカキにナマエがきてるって聞いて、来た」

 なんてことないことみたいに三日月は言う。実際、三日月にとってはなんてことないことなんだろうけど、ナマエにとってはすべてが意味を持っていて、大切な言葉に思えるのだ。
 今の言葉だって、わざわざ会いに来てくれた、そんなふうに思えて、ナマエは身体の底から嬉しさが湧き出てくるのを感じる。

「そうなんだ。あ、これお土産」

 そういってナマエはカバンから三日月用にとっておいた袋いっぱいの火星ヤシを渡した。三日月は袋の中身を見て微かに笑みを浮かべた。

「ありがとう。ちょうど切れそうだったんだよね」

 三日月はジャケットのポケットに袋を入れると、早速火星ヤシを口に放り込んで咀嚼する。

「それならよかった」

 ナマエが微笑んだところで、ちょうどヤマギがリビルトパーツを持ってきた。ヤマギはナマエと三日月の姿を見ると、なにか思いついたように「ナマエ」と声をかける。

「今日はもう大丈夫だから」
「え、でも」
「いいからいいから。手伝ってくれてありがとう」

 ヤマギに背中をポンポンと叩かれる。本当にこの少年は優しい。この優しさに甘えることにしよう。ナマエは三日月を見やる。

「三日月、このあと時間ある?」
「うん。だってナマエに会いに来たんだから」
「じゃあさ、ちょっとお話しようよ」
「うん。わかった。いこ」

 三日月はくるりと踵を返すと、上着のポケットに手を突っ込んでスタスタと歩きだす。ナマエもそれに従って歩き出す。すぐさま振り返ると、ヤマギは親指を立てて送り出してくれた。ナマエは力強く頷くと、三日月の隣に並んで歩き出した。
 二人は格納庫から外に出ると、建物の壁に背を預けて座り込んだ。日中のCGS敷地内では沢山の兵たちが訓練に勤しんでいるが、今は見張りの兵がちらほらいるだけだ。微かな明かりがぽつりぽつりと見えている。ナマエはそんな景色を眺めながら、誘ったはいいが何を話そうと考えあぐねていたところ、「そういえば」と三日月が言う。

「ん?」

 ナマエが隣りに座っている三日月を見れば、三日月はこちらを見ていた。真っ直ぐな瞳がナマエの顔をじいっと見つめられたと思ったら、頬にその大きな手を当てた。何が起こるのか全く予想がつかず、ナマエの心臓が飛び出てしそうなほど激しく動く。
 三日月は親指を丁寧に動かして、ナマエの頬をゆっくりとなぞる。ナマエの神経はすべて三日月のその指に集中する。その行為はまるで三日月から丁寧に丁寧に愛撫をされているようで、宇宙へとふわふわ飛んでいきそうな錯覚に陥る。喉がカラカラに乾いてゴクリと生唾を飲んだ。
 そして手はゆっくりと離れた。

「顔、汚れついてたから」

 顔に熱が集中するのが感じる。三日月はナマエの顔についていた汚れを取ってくれたのだ。確かに、モビルワーカーを整備しながら顔を擦ったような気もする。

「ご、ごめ、三日月の手が汚れちゃったね」
「別にいいよ」
「でも」
「今のナマエの顔、可愛かった」

 そう言って薄っすらと口角を上げた三日月の顔を直視できなくて、思わず顔を逸らして何度も瞬く。三日月の物言いはまっすぐで、嘘がなくて、だからこそ胸を抉るような苦しい痛みを伴う時がある。三日月から言われる可愛いと言う単語が、こんなに苦しくて、同時に幸せだとは知らなかった。